野球

連載:4years.のつづき

先輩の思い出奪った完全試合 上重聡・1

上重さんが立教大学野球部で過ごした日々、さらにその後に迫ります

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をします。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いでしょう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、それらを社会でどう生かしているのでしょうか? 「4years.のつづき」を聞いてみましょう。シリーズ4人目は日本テレビのアナウンサー上重聡さん(かみしげ、38)です。PL学園高校(大阪)時代には背番号1で甲子園をわかせましたが、立教大では苦しい日々をすごしました。初回は大学時代に上重さんが最も輝いた日を振り返ってもらいます。

予兆はあった

大歓声のなか、両拳を空に突き上げた。「あの日」の記憶は、いまも鮮明にある。2000年10月22日。東京六大学野球秋のリーグ戦、立大-東大2回戦。上重は1964年春の渡辺泰輔(慶大)以来73シーズンぶり、六大学リーグ戦史上2度目の完全試合を達成した。当時を振り返ってもらうと、「空間とか時間とか、自分が球場を支配してるような感覚があったんです」。少し照れつつ、目を細めて言った。

先発マウンドに上がった2年生の上重は、面白いように凡打の山を築いた。直球、スライダー主体の投球に変わりはない。ただ、指先ではじいたすべての球種が、思い通りの軌道を描いた。「指先からキャッチャーのミットまでレールが敷かれてて、そこにボールを乗せるような感覚でした」

予兆はあった。前日、ブルペンで投球練習をすると、ボールはキャッチャーが構えたところに吸い込まれていった。あまりの好調ぶりに、受けてくれた先輩に「ノーヒットノーランしちゃうかもしれないですね」と軽口もたたいた。

「5回で交代」と気楽に投げた

東大2回戦はリーグ最終戦。すでに優勝の可能性は消えていたため、複数の4年生がリリーフで「引退登板」すると決まっていた。万が一にも快挙達成ということになれば、先輩の晴れ舞台を奪ってしまう。元来、周囲に気に遣う性格だ。「空気を読めないヤツ」になるつもりもなく、「5回で交代だから」と気楽に投げた。


先輩方に申し訳ないと思いながら、試合は進んでいった

7-0と大量リードで5回終了。斎藤章児監督に交代すべきかどうかを聞いた。監督は「もう1イニングだ」。6、7回の終了後も同じやりとりが続く。8回が終わり、「さすがにまずい」と感じ、しびれを切らして言った。「監督、もう降ります。先輩に投げてもらいたいです」。残りは9回だけだが、4年生に打者一人ずつに投げてもらおうと思っていた。

「ばかやろう! 完全試合ってどういうことか知ってるのか。六大学の歴史の中で、一人しかやってないんだぞ」。上重は「どうせ交代するから」と、自分の投球内容などまったく意識していなかった。完全試合ペースであることにまず驚き、さらに過去に一人しか達成していなかったとは知らず、また驚いた。六大学のパンフレットをパラパラとめくったことはあったが、ノーヒットノーランを達成したピッチャーの名前をたくさん見た記憶しかなかったという。

とはいえ、先輩たちのことがあった。戸惑っていると斎藤監督に「先輩たちにひとこと断りを入れて、彼らのために完全試合をやってこい」と一喝された。

先輩たちが背中を押してくれた

言われたままに4年生の上野裕平(のちに巨人でプレー)に歩み寄り、おそるおそる口を開いた。「マウンドに行ってもいいでしょうか」。4年生はすでに全員がブルペンで肩をつくり、出番を待っていた。なかには、最初で最後の神宮のマウンドを心待ちにする先輩もいた。だが、先輩たちはみな、背中を押してくれた。

9回。プレッシャーに感じてもおかしくない状況だ。現に観客席は異常なほどざわめき、エラーすらできない内野手たちの発する緊張感が、背中から伝わってきた。

ところが、上重自身は不思議と冷静だった。「俺が投げないと、この空間は始まらないんだ」。楽しすぎて、自らプレートから軸足を外し、投球の間を取ってもみたという。

簡単にツーアウトをとり、この試合27人目の打者を迎えた。緊張で硬くなるどころか、この日最速の140kmも計測した。最後は、120km台のスライダーで空振り三振。完全試合達成だ。「絶対できると思ってたし、最後三振にとって『ほらみろ。できただろ』って。高校時代は、あんなに甲子園でアップアップしてたのに」。上重が笑って振り返る。マウンドで繰り返し跳ねていると、周りはあっという間にチームメートで埋め尽くされた。

27人目のバッターのとき、この日最速のボールを投げた

打者27人に対し87球。内野ゴロ12、内野への飛球3、外野への飛球5、三振7という内訳だった。ウイニングボールは野球殿堂博物館に寄贈された。

2年後、上重はこの試合のことを卒論に書いた。原稿用紙200枚ほどで、1回からの心境の変化をつづったという。終盤にはこうも記した。「投手を『クビ』になり、外野を守る時期もあった。野球の神様が、こういう形でご褒美をくれたのかもしれない」と。

そう、大学での野球は苦しみの方が多かった。

上重はこの試合で卒論を書いた

●日本テレビアナウンサー・上重聡さんの「4years.のつづき」全記事

 1.先輩の思い出奪った完全試合 2.投手をクビになりレフトへ 3.素の自分で勝負したかった 4.投手とアナウンサーの共通項

4years.のつづき

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