投手をクビになりレフトへ 上重聡・2
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をします。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いでしょう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、それらを社会でどう生かしているのでしょうか? 「4years.のつづき」を聞いてみましょう。シリーズ4人目は日本テレビのアナウンサー上重聡さん(かみしげ、38)です。PL学園高校(大阪)時代には背番号1で甲子園をわかせましたが、立教大学では苦しい日々をすごしました。2回目は大学での苦労の始まりについてです。
自分で自分にプレッシャー
上重は立教大でのスタートから苦しんだ。1年春のリーグ戦こそ何度か登板したが、秋は登板機会なし。原因の一つは受験勉強による体力の低下。大学で戦っていける体にはなっていなかった。
そして心の面で響いたのが、自分で自分にかけたプレッシャーだ。1番を背負って出場した1998年夏の甲子園。横浜高校との準々決勝で延長17回の末に敗れはしたが、「平成の怪物」と呼ばれた松坂大輔(現・中日ドラゴンズ)と投げ合ったことで、上重の名は一気に全国区となっていた。「ある意味、勘違いなんです。自分も松坂みたいに、1球投げただけで球場がワッと沸くような、すごいピッチャーでいないといけない。そう勝手に思いこんでしまいました」。松坂はプロ1年目ながら、西武ライオンズで16勝と大活躍。上重は結果が出ない日々に焦り、無意識に自分を追い込んだ。2年生になると、焦りは不安、恐怖へと変わっていく。
そして「事件」が起きた。2年春のリーグ戦前にあった日大との練習試合。先発を言い渡された上重は、一人で投げきるよう指示を受けた。意気込んでマウンドに上がったが、結果は13失点。バッターの頭にも当ててしまった。
翌日、グラウンドへ行くと感覚が狂っていた。「投げようとすると『頭の方にボールが行ったらどうしよう』とか『バックネットまで飛んでいったらどうしよう』とか考えてしまう」。頭に当ててしまったことにより、恐怖心が生まれた。精神的な不安で思うように投げられなくなる、いわゆる「イップス」だ。「俺、どうやって投げてたかな、って」。両親に「もうやめる」と相談するところまで追い詰められた。
外野から見えたもの
救ってくれたのは斎藤章児監督だ。相談すると、レフトを守るように言われた。「クビ宣告」。最初は落ち込んだが、監督には意図があった。別の角度からマウンドを見て、違う野球を体験させる。そうすることで「再びマウンドに立ちたい」と思えるかもしれない。心境に変化をつくるための措置だった。「またピッチャーに戻りたくなったら戻ればいい」。その言葉に励まされ、2年の春は外野手としてリーグ戦に出場。バッティングが好調で、4番で起用される日もあった。
レフトから見る景色は新鮮だった。「マウンドって近いようで遠いんだな」。最初は何げなくやっていた外野手だったが、守っている間や打席から見る投手の印象などから、投手としての引き出しが増えていった。「球が速くなくても打ちとれる。結局、ゼロに抑えれば負けない」。そう、開き直れるようになってきた。
そこで、斎藤監督がスパイスを加える。外野からバックホームできるところまで回復するのを見届けると、5球限定で投球練習を解禁させた。また少し期間を空け、「今日は10球」。そうやって球数を増やしていく。「もう少し投げたい、という状態でうまく止めてくれた」。徐々に心から不安が減り、2年夏の合宿からまた投げられるようになった。
その立ち直りが、2000年10月22日の東大2回戦での完全試合につながった。どん底を経験した分、喜びはひとしお。何よりも2年のときは年間5勝と結果が出て、自信も芽生えた。プロ球団のスカウトから「このまま成長したら楽しみだ」とも言われ、一度はなくしかけたプロ入りへの思いがふつふつと再燃し始めた。
さあここからだ――。気合を入れて3年生となったが、待っていたのは落とし穴だった。