ラグビー

専修大・村田亙監督 10年続く選手との面談、課題を共有し自らも学ぶ

伊勢原グラウンドで。後方の大山には村田監督も部員と登ることがある(撮影・全て朝日新聞社)

ラグビーの元日本代表スクラムハーフで活躍した村田亙(わたる)さん(53)が母校の専修大学の監督になって10年目を迎えた。就任当時、関東大学リーグ戦2部だったチームを1部に復帰させたが、全国大学選手権出場は果たせていない。専修大がリーグ戦1部で優勝したのは村田監督が主将だった1989年が最後。強豪復活への挑戦は続く。

「断捨離」から復活への道

村田監督が2012年4月に就任して、まずやったのは4トントラックの手配だった。「掃除をいっぱいしました。寮が汚かったので、余計なものは捨てました」。リーグ戦5度優勝経験があるチームは03年に初めて2部に降格してから1部に戻れていなかった。就任前にアドバイザーとして関わっていた村田監督の目には低迷が続いたことで、何もかもが中途半端に映った。
「一生懸命やっている選手もいたが、手を抜いているような選手もいた。まず、規律を守るところから。グラウンド内外でルールを守ろうと」

厳しい規則でがんじがらめにしたわけではない。当たり前のことを当たり前に。チーム内で一体感を持つために練習着などをそろえて着用するようにした。

現役時代の厳しい自己管理は有名だったが、選手とは対話を重視する

村田監督は、現役時代、プロ選手の先駆けとしてフランスへ渡り、40歳までトップレベルでプレーを続けた。選手のときから指導者にも興味を持ち、ちびっ子やその親たちにラグビーを教えた。引退後、08年から7人制日本代表男子監督を務め、ワールドカップ出場やアジア大会連覇などへ導いた。専修大へは自ら応募し職員として採用されることになり、監督の道が開けた。今でも選手と一緒にウェートトレーニングをしたり、パスのお手本を示したりと体を動かしながら選手と接している。

選手を質問攻め、選手を知る

この10年間、一番大切にしてきたことは選手との個人面談だという。「年に多い時は5、6回から2、3回ずつ。選手全員を監督室に呼んでやります。引き出すというか、しゃべらせる。ラグビーに限らずいろいろ質問して。どういう考えを持っているのか。15~30分ぐらいですが、中には1時間ぐらい話す選手もいます。聞くことによってこちらも勉強になる。どうしたい、ということなどをノートに書かせることもあります」

4年間でどう成長していくのか。選手自らに目的意識を持たせて、それをサポートしていこうとしている。毎年20人ほどの選手がラグビー部の門をたたく。推薦入学の選手や附属高校からの入部者、一般受験で入ってくる選手と様々だが、入部前には必ず村田監督が面接するという。

東京オリンピックの7人制ラグビー男子日本代表のバックアップメンバーに残った野口宜裕(セコム)は早稲田摂陵高(大阪)から二浪して専修大に入った。入学当初は、同期に「先輩風」をふかせるような一面もあった。浪人生活で体力が落ちており、けががちで別メニューの練習が多かった。村田監督自ら野口とバイクを一緒にこいで数値で圧倒、「俺にも勝ててないぞ」と言って刺激するなどした。ステップなどの動きが7人制向きで、才能を見抜いた村田監督が代表関係者に推薦したこともあり、大学3年で日本代表に初めて選ばれた。専修大の公式戦にはほとんど出場せず7人制で世界を目指した。大学ラグビー界では珍しい存在だったが、それも監督の指導方針の一つだった。

ラグビー界のレジェンドを迎えた大学側は協力的だった。村田監督が現役の時とほとんど変わりなかったウェートトレーニング場をリニューアルしてもらった。多目的グラウンドが、ラグビーの試合ができる人工芝化され、グラウンドの照明も改善された。

2015年野球部の東都リーグ優勝もあり、多目的グラウンドは人工芝に

真の強さは部の文化から

監督3年目の14年に早くも成果が出る。2部で2位になり、入れ替え戦で1部の日本大学を破って13年ぶりの1部復帰を決めた。入れ替え戦ではFW8人のうち1年生を4人先発させるなど思い切った選手起用もはまった。2部の2位校が1部の7位校に勝って昇格するケースは初めてだったという。

「うまくいく代は4年生がカギになる。そういう上級生の姿を見て、『僕たちも』という流れができれば、それがラグビー部の文化になると思う。まだ、そこまでにはなっていません。それには大きな結果も必要になってきます」

1部で戦った15年は本当の力はついておらず、7位に終わり入れ替え戦でも敗れて1シーズンで2部に降格した。再び1部に戻るのには、そこから3年かかることになった。

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