ラグビー

一人ひとりがヒーローに、シアワセに 東京都立大学ラグビー部物語1

関東大学ラグビーリーグ戦3部の東京都立大学。グラウンドは南大沢キャンパスにある(撮影・全て中川文如)

日本一、幸せなチームになる。そのために、グラウンドの内外で振る舞う。その振る舞いを、チャンピオンシップマインドと呼ぶ。

実力はちっぽけだ。でも、そんな透き通った目標を掲げて2年目を迎えるチームが、東京の西の外れの八王子市にある。東京都立大学ラグビー部、関東大学リーグ戦3部所属。

藤森啓介コーチとの出会い

緑に囲まれたキャンパスの隅にある練習場を、活気が包み込む。いざ楕円(だえん)球を手にすればスイッチオン。好プレーをハイタッチでたたえ合い、ミスもポジティブに指摘し合う。スイッチがオフになれば、コーチ、選手、マネージャー、立場に関係なく笑顔の会話。

その中心に、知る人ぞ知るコーチがいる。彼の名は、藤森啓介(35)。選手もマネージャーも、部員の一人ひとりがヒーローになる。結果、一人ひとりが幸せになる。昨年からコーチとなり、このビジョンを授けたのは藤森だ。

実戦形式の練習は緊張感が漂う

ラグビーどころの長崎で育ったSH(スクラムハーフ)。中学時代、年代別の九州代表に選ばれた。父の転勤で東京へ。「赤黒」と呼ばれる伝統のジャージーに憧れ、早稲田大学高等学院の門をたたいた。

小よく大を制す。相手よりコンマ数秒、先手、先手で仕掛け続ける。いわゆる早稲田ラグビーを藤森は早大学院で吸収しながら、決して飽き足らなかった。

当時、早大で監督を任されていたのは清宮克幸。スピードだけでなくFWのパワーでも相手を圧倒するという、早大の常識を覆して新しい風を吹かせた人だ。高3で主将になった藤森は、付属校のつながりを頼り、清宮に教えを請うた。「恐れ多いと思いながら、同期の主務と2人で監督室を訪ねて。それくらい、勝つ方法を知りたかった。戦術に飢えていました」

清宮が指揮する練習からエッセンスを盗み、自ら早大学院の練習メニューを組み立てた。早大に進むと、1、2年時は清宮から攻撃の理論を、3、4年時は後任監督の中竹竜二から防御の理論を学んだ。選手としては大成しなかったが、指導者になる夢は自然と膨らんだ。

無名校で花園の一歩手前まで

早大大学院スポーツ科学研究科で2年を過ごす間、大学でジュニア(主に3、4軍)のコーチを担った。2010年の春、大阪・早稲田摂陵高校に体育教師として赴任。監督に就いた。

ラグビー部員の半数以上は中学時代、未経験者。大会に出て1勝できれば御の字。その程度のチームだった。しかも3年生が卒業し、部員は14人。着任早々、3週間後には公式戦が待っている。

「どう見ても文化系の帰宅部」(藤森)の生徒を1人、担ぎ出した。「ウィング(WTB)で、立ってるだけでいいからって」。ミーティングで熱く語りかけた。「赤黒のジャージーには、これ以上ない重みがあるんだよ」。戦術は焦点を絞りに絞る。相手1人を2人で封じるディフェンスの連動を徹底。アタックに転じたら、トライを奪うためのサインプレーをただ一つに定め、徹底的に反復した。

早稲田摂陵高を指導していた頃の藤森啓介コーチ(本人提供)

カンペイ。インサイドCTB(センター)がアウトサイドCTBの背後にパスを通し、外側に不意に湧き出るFB(フルバック)へと直接つなぐ。早稲田ラグビー、日本ラグビーの礎を築いた故・大西鐵之祐が練り上げ、いま、「バックドア」の呼び名で世界に流通しているプレーでもある。「相手の特徴、摂陵との力関係を分析して、カンペイなら抜けると確信したんです」

狙いは当たった。まさかの3連勝。いぶかしげな視線を向けていた選手たちのハートを、藤森はつかんだ。「当時の教え子とは、よく飲みます。必ず言われるんですよ。『笑いも知らない、おもしろいネタ一つ持ってない東京の兄ちゃんが突然やって来た。どうなるんだろうって半信半疑だった』って。でも、僕は絶対に勝ちたかったから、これしかないって戦術を落とし込んだ。それが正解なのかどうかはわからなかったけれど。あの初戦で負けていたら、僕の言葉は説得力を失っていたでしょうね」

早稲田摂陵高は階段を駆け上がる。就任3年目の花園予選で、初めてシード校を破って準決勝進出。7年目には「素人7割」(藤森)のチームを決勝に導いた。

そこで、成長は止まった。

戻って来ない卒業生に気づかされ

どうしても花園の扉を開けない。大阪は全国随一の激戦区。スポーツ推薦枠で有望な選手をそろえられる強豪と、「ラグビーボールは前に投げちゃいけないんだよ」から教えなきゃならないスタート地点の差は、勝負がハイレベルになればなるほど、いかんともし難かった。加えて痛感させられたのは、自らの限界。藤森が指導力の指標と位置づけていたのは、選手やマネージャーが卒業後もふらっとグラウンドに遊びに来てくれるかどうか、だった。

「好成績を残した代でも、グラウンドに帰って来ない卒業生がいた。その事実が意味するものって何だろうって、考えさせられた。高校の3年間は楽しくなかったのか。僕の顔を見たり、話したりしたくないのかなって。そうさせてしまった自分にベクトルを向けた時、感じたんです。このままじゃ、ダメだって」

笑顔で選手を見守る藤森コーチ

自らが成長しなければ、何も変えられない。焦燥感に駆られる藤森に声をかけたのは、大学時代の恩師の一人、中竹だった。

「いつ、東京に戻って来るの?」

中竹は20歳以下日本代表監督を経て、一般社団法人「スポーツコーチングJapan」の代表理事を務めていた。そこでは藤森の先輩、今田圭太らも加わってスポーツとビジネスの理論を関連づけた指導法、組織マネジメントの研究が進められていた。

勝利の意味の再定義

「幸福感を抱ける社員が多ければ多いほど、会社の生産性は上がる」との定説がビジネスの世界にはあるのだという。それを知った時、藤森はピンと来た。自分の指導に欠けていたのは、これなんじゃないか?

「試合に勝っても、みんなが幸福感を得られないチームなら『勝ち』とは言えない。改めて自分に問いかけ、勝利の意味を再定義したんです。部員全員が、このチームにいて幸せだと思えるのなら、それも『勝ち』なんじゃないかと。すると、そうなるために必要なマネジメントや知識、コーチングスキルが見えてきた」

学生時代、「不思議だな」と感じていた中竹のスタイルも、腑に落ちた。
「清宮さんのように自分が先頭に立ってバンバン笛吹いて、という指導とは違う。タッチラインの外から見守りながら、選手やスタッフに考えさせて、自主性を促していた。当時は『グラウンドに出て来ても、あまり教えないな』くらいの印象だったんですけどね。ただ、卒業後も中竹さんを信頼し、折に触れて相談にいく同期や先輩、後輩はすごく多い。そういうことなんだなって」

19年の春、藤森は早稲田摂陵高を辞す。中竹の下、スポーツコーチングJapanで、みんなが幸せを感じられるチームマネジメントの探求を始める。身分は雇われのプロコーチ。

最初の実験の場は、全国地区対抗関東1区リーグ2部、ICUの通称で知られる国際基督教大学。東京都立大学より遥か下のリーグを戦うチームだ。
奇跡が、起きかける。

***
決して強豪ではない東京都立大学ラグビー部。彼らは何をめざし、いかに戦うのか。ごく普通の大学スポーツ部が、一人のコーチとともに変わろうとする姿を追います。

えっ、バルセロナなラグビー? 東京都立大学ラグビー部物語2

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