ラグビー

連載: プロが語る4years.

当たってほめられラグビーへ ノビノビつかんだ高校日本一 佐々木隆道1

現役を引退し、キヤノンのコーチになった佐々木隆道さん(撮影・すべて朝日新聞)

ラグビー元日本代表で根っからのリーダーだった佐々木隆道さん(36)が現役を引退しました。3度の大学日本一を経験した早稲田大学を卒業後、国内ではまだ珍しかったプロ選手にこだわりトップリーグで活躍。7月からキヤノンイーグルスのコーチとして新たな道を歩み始めた佐々木さんが、学生時代を中心に選手生活を振り返ります。5回連載の初回は、ラグビーとの出会いから高校日本一になるまでです。

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ラグビーの「ラ」の字も知らず

ラグビーどころの大阪育ち。近所には大阪工大(現・常翔学園)高校や明治大学で活躍した3つ上の伊藤太進さんら、のちのトップ選手もいたが、佐々木さんは中学校に入るまでラグビーの「ラ」の字も知らなかった。小学校の時は野球をかじったぐらい。教育熱心な両親の勧めもあり、4年生ぐらいから塾に通った。「中学受験をしたんです。やる気なくやったら意味はない、という事例なんですが。本当に勉強しなかったんで、受かるわけないですよ」。結果は予想していたが、実際に不合格通知が届くと、「ショックなもんでした」。中途半端だったほろ苦い記憶は、のちの成功を支える。

日野レッドドルフィンズではトップリーグ昇格などに貢献した

バスケ、サッカー経由ラグビー

大阪市立新生野中学に入る頃は既に身長170cmほどでひょろひょろだった。ラグビー部はあったが、「グラウンドに汚れた人たちがいるな」ぐらいの認識でバスケ部へ。しかし、来る日も来る日も、声出しとモップかけ、先輩と一緒に練習するのは体力作りぐらい。ボールも触れず、新入部員は集団でサッカー部へ移った。ここでも、校庭の片隅でリフティングを100回成功させないと全体練習に加われなかった。ともに競技の楽しさを知る前に挫折した。

そんな時、ラグビー部に入った同じ小学校の仲間から誘われた。あいまいな返事をしていたら、中学校で一番怖そうだった先生に呼び止められた。「お前、ラグビーするらしいな。これ書いてこい」。ラグビー部の顧問から入部届けを渡された。家で「ラグビー部に入ることになった」と告げると、さほどスポーツに興味がなかった両親は「何、それ」とあきれた。季節は夏を過ぎていた。

ラグビー部では先輩が体の当て方などを教えてくれた。「いいねー」。ルールもよくわからないのに、だ円球を持ってぶちかますとほめられた。土曜の練習の後は、先輩、後輩関係なく一緒に遊んだ。楽しくなった放課後の時間は、あっという間に過ぎていった。

ロイヤルブルーに憧れて

1年の冬休み。花園ラグビー場で初めて全国高校大会を見た。元日本代表の大西将太郎さんらを擁した啓光学園(現・常翔啓光学園)高校は第76回大会(1996年度)決勝まで進んだ。「キャー、キャーと、啓光だけに黄色い声援が飛んでいた」。ロイヤルブルーのジャージーがまぶしかった。

3年になると仲間にも恵まれ、新生野中は大阪府のブロック大会で準優勝した。佐々木さんは選抜チームに選ばれ韓国に遠征した。選抜チームの主力は啓光学園中の選手たち。「今の僕よりパスがうまい選手もいた」。ラグビースクール育ちの逸材らから一緒にやろう、と誘われ、啓光学園高校を受験した。

2001年度、全国高校大会を3年ぶりに制し喜ぶ啓光学園高の選手たち

充実した高校ラグビー、強すぎた啓光学園

枚方市にある高校まで片道1時間以上かかったが、当時の記虎敏和監督が作り上げたノビノビとしたチームの雰囲気があった。競争は激しく、2年時の全国大会前にはレギュラーを外れた時期もあった。「むちゃくちゃ悔しかった。先生に『なぜ、出られないんですか』と聞いたら、『信頼感』と言われた。信頼感って、どないしたらいいねんと思った」。自分なりに考えた。波があってはいけない。コンスタントにいいパフォーマンスを出さなければ。先輩たちの励ましもあり、成長していった。

主将を任された3年時は無敵のチームになっていた。最後の第81回全国大会決勝は東福岡高校に50-17で快勝し、3年ぶりの日本一になった。正選手の多くが、U19(19歳以下)日本代表や高校日本代表に選ばれた。「記虎先生の器の大きさと言うか、自由にさせてくれた。高校生を一人の大人として尊重して扱ってくれました」。もちろん、集まった選手たちの才能もあったが、佐々木さんたちの代が築いた文化が受け継がれ、この後、全国大会で4連覇を達成した。

第81回全国高校大会決勝でトライを決める佐々木隆道さん

 思わぬ誘い、圧倒された出会い

ただ、完成されたチームでの成功体験は、燃え尽き症候群にも似ていた。「啓光が最高」という思いから抜け出せず、大学では適度にラグビーを楽しもうという選手や、期待されながら伸び悩む選手が少なくなかった。佐々木さんも「先輩たちみたいに髪を染めたり、遊んだりしたいなと思ってました。大学をエンジョイできそうや、なんて」と振り返る。

ところが、新3年になるころ、記虎監督との進路面談で、「お前は早稲田から話がきているから、早稲田受験な」と告げられた。「思わず、『えっ』と。テレビで早明戦は見たことありました。でも、失礼ですが、行きたいというのはなかった。(自分に)合わないと」。当時、早大は低迷しており、練習の厳しさは何となく知っていた。家で相談すると、「行きーや。早稲田やで」と親は喜んでくれた。先生が推してくれたこともあり、受験を決めた。

この2001年、復活を託され早稲田大学の監督に就任したのが清宮克幸さん(52)だった。同じ大阪出身、同じFW第3列、同じようなリーダーシップ。新監督は佐々木さんのプレーを見て、間違いないと感じていた。5月、たまたま、花園ラグビー場で春の早慶戦があった。佐々木さんは記虎先生と早稲田大を受験するあいさつにいった。「体が大きくて目が怖くて。圧倒されました。そんなオーラを持った人に会ったことなかったので」。初めて会った清宮監督の印象は、今もはっきりと覚えている。

「戻れるなら、あの試合に」早稲田大学4年間で、学生相手に唯一の黒星 佐々木隆道2

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