池田向希&川野将虎対談 東洋大OBコンビの東京オリンピック競歩(上)
東京オリンピックの競歩には、20kmに池田向希、50kmに川野将虎(ともに旭化成)の東洋大OBの二人が出場しました。池田は銀メダルを獲得、川野は6位入賞と、それぞれ今大会日本人最高成績を残しました。静岡県出身で高校時代から互いの存在を意識し、東洋大学4年間から実業団・旭化成ではチームメート。卒業1年目の今年、目標としてきた大舞台で戦った経験について対談してもらいました。前編は、それぞれが五輪のレースを振り返って、レース中に考えていたこと、日本チームが行った徹底的な暑さ対策などについて語ってもらいました。
冷静にレースを見て平常心を保った池田
池田向希は銀メダル獲得の要因に“平常心”を挙げた。4km手前で王凱華(中国)が集団を抜け出したときも、17kmで山西利和(愛知製鋼)が一気にペースを上げたときも、冷静に対応できた。
――王選手が飛び出したときに追わずに、集団待機を決めた理由は?
池田 他の選手が王選手を追ったら私も行ったと思いますが、誰も行きませんでした。王選手との距離は折り返し毎に確認して、この距離なら問題ないと判断できたんです。9km以降は王選手との距離も縮まっているのがわかったので、集団の中での勝負に神経を集中しました。山西選手はもちろんのこと、(強豪国の)イタリアやスペイン選手の表情や呼吸を確認していたんです。12kmで王選手を吸収し、残り5kmを切ってからはどの選手も、「誰も行かないの(スパートしないの)?」という感じで周りの様子をうかがっていました。
――17kmで山西選手が勝負に出ました。ペースを急激に上げて先頭集団はM・スタノ選手(イタリア)、池田選手、山西選手の3人に絞られましたが、それと同時に、その3人に注意(※)が複数の審判から出されました。
※歩型が崩れている選手に審判が注意を出して歩型の修正をうながす。修正されなければ警告が出され、3人の審判から警告が出されるとペナルティゾーンで2分待機を命じられる。
池田 自分だけ注意を出されたのなら歩型の修正を強く意識したと思いますが、一緒に歩いていた2人にも出ていたので、ここは歩型を意識しながら勝負に徹するべきだと思いました。
川野 そうしたレースを全体的に見て分析する能力が、池田にはあります。その判断でレース中もアクションを起こすんです。それが今回はどう生かされていたの?
池田 自分のレースプランを意識していたけど、その通りにいかないことが過去のレースでも多かった。19年の世界陸上ドーハ(6位に入賞したが、金メダルを取った山西のスパートに対応できなかった)や、その後の日本選手権ではプラン通りに進まないことで焦ってしまって、硬くなってしまった。今年の日本選手権では最後、脱水症状まで起こしている。そういった経験から、平常心を保つことが重要だとわかってきた。レースを分析的に見て、プラン通りに行かなくても焦らず、レースのその瞬間だけに集中するようにしたんだ。
川野 最後の1kmでスタノ選手に引き離されてしまったけど、スタノ選手との差をどういうところに感じた?
池田 自分は19kmまでのペース(3分50秒強)を維持することしかできなかったのに、スタノ選手は3分43秒まで上げてきた。シンプルに実力差が出たと思った。表情も、呼吸も、動きもスタノ選手が一枚上だと感じたけど、一番すごいと感じたのは骨盤の動き。大きなストライドの選手だけどやわらかく骨盤を使い、ピッチを上げてスピードアップができていた。
日本競歩チームの暑熱対策が効果
暑熱対策も東京五輪の勝敗を左右すると言われていた。男女20km競歩の金メダルを取ったイタリアは、19年世界陸上前も所沢で中期合宿を行うなど、今五輪に向けて念入りな暑熱対策を行ってきたという。日本も陸連医科学委員会と長年にわたってデータを測定して蓄積し、対策を練ってきた。
――直前の千歳合宿と、それ以前の合宿で練習時間を変えた理由は?
池田 千歳以前の合宿では暑い時間を意図的に選んで、30kmなどスタミナ練習を行いました。その練習を行うことでダメージは残りますが、その経験が自信につながりました。それに対して千歳合宿では、札幌から距離も近いですし、五輪本番が行われる時間帯に合わせて練習をしました。スタート時間の午後4時30分には陽射しが強くても、レース終盤の5時半頃には涼しくなってきます。それまで行ってきた暑熱対策を、より有効に生かせるとイメージできました。
――レース中やスタート直前の暑さ対策も、かなり入念に行っていたと聞いています。
池田 陸連科学委員会の分析で、深部体温がパフォーマンスに影響することがわかっています。最終的には選手の感覚が優先されるのですが、特別なドリンクを使いました。汗で失われる成分が選手によって違うことも、データとして明確になっていました。
――日本競歩陣は、いくつものアイテムを使うようになっていました。
池田 レース中は使いませんでしたが、暑熱馴化の練習やウォーミングアップ中はネッククーラーを首にかけていました。アイスベストもアップ中は着用していましたね。保冷剤はアップ中もレース中も手に持っていましたし、帽子にも氷を入れて歩いていました。
――給水や保冷剤の温度も、3段階に設定できる機械を用意していたそうですが?
池田 保冷剤は手に持つのですが、冷やしすぎると体が緊張するんです。保冷剤は温度の高い方から黒、白、赤と色を分けていました。気温の変化と体の状態の変化を想定して、この距離の給水にはこの色の保冷剤と、事前に計画して、その通りに給水ができて効果もあったと思います。そこまで細かくやっているのは日本だけのようです。
おう吐してしまったときに川野が考えたこととは?
池田の20km競歩銀メダルは、競歩種目五輪最高順位という快挙だった。その20km競歩が行われた翌日の8月8日に、男子50km競歩が朝5時30分スタートで行われた。前日にテレビ観戦した川野は「涙を流して見ていました。そのくらい感動したし、勇気をもらいました」と言う。
――30km手前で優勝したD・トマラ選手(ポーランド)が集団から抜け出すまで、1km毎のペースは4分40秒弱でした。
川野 4分33秒に上がった地点もありましたが、スピードが上がったとは感じず、余裕はありました。集団でじっくりレースを進めようと考えていましたが、9kmあたりから内臓にいつもと違う感じが続いていたんです。30km過ぎから給水のゼリーを飲めなくなって、不安が大きくなっていきました。30kmでトマラ選手がペースを上げたときは、吐き気があってついていくことができませんでした。
――32kmからは集団のペースも4分30秒前後に上がり、38kmでは4分21秒まで上がりました。
川野 4分30秒前後のときはそれほど速さは感じませんでしたが、気持ち悪さをどうコントロールするかを意識して歩いていました。練習では経験していたことですが、レースでは初めてです。38kmでペースが上がると気持ち悪さも強くなって苦しかったです。
――41km過ぎでは道路の中央分離帯に倒れ込んでおう吐しました。そのときうつ伏せに倒れた状態で、地面を両拳で叩いたのは、自分への不甲斐なさからですか?
川野 レース中に吐いてしまった経験は初めてで、一瞬、頭が真っ白になりました。でもその瞬間、(酒井)瑞穂コーチの「(どんな状況になっても)弱気にならずに頑張っていこう」という言葉が思い浮かんだんです。練習で苦しいときも、いつもそういった声をかけてもらっていました。もう一度勝負に加わってやる、と瞬時に切り換えられた。半ば無意識に出た行動ですが、自分への悔しさより『もう一度やってやるぞ』という気持ちの表れでした。気持ちのギアを切り換えた感じです。
池田 川野の1km毎のタイムは42~43kmが一番速くて、4分12秒まで一気に上げて(2位争いの)集団に追いついています。20kmの選手の感覚では、残り8kmあることを考えると長いと感じてしまうところ。そこで川野は力を使ってしまったんじゃないかと思ったけど、余力度はどうだったの?
川野 おう吐したことで体力も使っていたんだけど、気持ちが切れたら戦えないと思った。最後に苦しくなるかもしれないけど、メダル争いに加わりたい一心だったんだと思う。自分の性格を考えても、最後の体力を気にするより、瞬時の判断で勝負に加わったことで力が出せたと思う。
川野の終盤は「1秒を削り出す」歩き
50km競歩は前回のリオ五輪で荒井広宙(富士通、当時自衛隊体育学校)が銅メダルと、競歩種目初メダルを獲得した種目。その後2回の世界陸上でも日本は銀メダルと金メダルを取り、メダルの常連国となっていた。それが東京五輪では32km地点で、日本選手は最年少の川野1人しか残っていなかった。
池田 今の話で川野のメダルを取ることへの思いの強さがあったから、あの歩きになったんだとわかった。自分が同じ状況に置かれたら、もう少し距離を使って追いつこうとしたと思う。8kmあったら、最後の余力を考えてしまうから。
川野 種目特性の違いもあるかもしれないけど、池田と自分の性格の違いのような気がする。池田は冷静にレースを見極めて歩くけど、自分は突発的というか、一瞬の判断で決めて歩いてしまう。特徴と言えるかもしれないけど、未熟な部分かもしれない。
池田 川野はレースをパターン化していないんだと思う。そのとき、そのときの状況で瞬時に判断して、誰も考えないようなレースができる。一緒に歩いたら予測ができないから怖い存在になる。
――46km以降で2位争いの集団から離されてしまいました。1km毎のタイムも4分32秒から4分38秒へと落ち、最後の1kmは4分42秒かかりました。
川野 自分のペースが落ちているのはわかりましたが、何が起こるかわからないのが50km競歩です。最後まであきらめず、「その1秒を削り出す」母校東洋大のスピリットで歩きました。後半苦しくても粘る練習はしてきましたから。2位争いの集団の4人には離されましたが、7、8位の選手は引き離して入賞することができました。
――ベテラン選手が多い50km競歩で、22歳で夏のレースは初めての川野選手が入賞したことは、世界陸上で競歩種目初入賞した今村文男五輪強化コーチも評価していました。
川野 日本選手が1人になったときは、自分がやらないとダメだと気持ちを強くしました。メダルを取ることはできませんでしたが、最低限の結果は残せたと思います。50km競歩は今回で最後になりますが(来年の世界陸上からは35km競歩に変更)、五輪の4大会連続入賞を達成できたことは、先輩たちが今村さんからつないできたバトンを、新種目の35km競歩につなげたと思っています。
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後編は明日公開です。東京五輪が1年延期となって考えたこと、今も指導を受ける東洋大・酒井瑞穂コーチと酒井俊幸監督の教えについてなどを語ってもらいました。