トランポリン

特集:東京オリンピック・パラリンピック

堺亮介「五輪の借りは五輪でしか返せない」、トランポリンとともに歩んできた人生

堺は金沢星稜大4年生の時に、東京五輪内定をつかんだ(撮影・内田光)

堺亮介(24、バンダイナムコアミューズメント)がトランポリンを始めたのは2歳の時。正確に言えば生後半年、母にだっこされながら初めて“空を飛んだ”。競技歴はほぼ人生の長さと重なる。今年、高校生の時から具体的な目標にしていた東京オリンピックに出場し、15位で予選落ち。今も振り返ることができないほどの悔しさを抱えているが、「オリンピックの借りはオリンピックでしか返せないですから」と、まっすぐにパリオリンピックを見据えている。

最年少でS強化指定選手入り

元体操選手の母は堺を産んだ後、体操に近い運動ができればと考え、トランポリンを始めたという。腕の中で一緒に跳ねる堺がとても楽しそうにしていたことから、2歳の誕生日を迎えてすぐにクラブに入部させた。堺はトランポリンだけでなく、兄の後を追ってサッカーを始めたが、9歳の時にトランポリンで着地に失敗し、手を骨折したことで2軍に降格してしまった。「本当に上手になりたいなら1つに絞りなさい」と親に言われ、選んだのが痛い目に遭ったトランポリンだった。「これでサッカーをしてしまったら、トランポリンから逃げているんじゃないかって。トランポリンで失敗したのが悔しかったんです」。小6の時には国際大会も経験し、そこで世界の壁を知った堺は一層トランポリンにのめり込んだ。

中学までクラブで競技を続け、高校は生まれ育った神奈川県を離れ、トランポリンの強豪・星稜高校(石川)に進んだ。堺は小5の時に初めて大会で星稜の演技を見て「かっこいいな! 自分もこうなりたいな」と思ったという。そんな憧れの高校に進み、同学年の中野蘭菜(リオ五輪日本代表)らと切磋琢磨(せっさたくま)しながら力をつけ、高2の時に高校選手権の個人で優勝。その後、17歳という最年少でS強化指定選手に選ばれた。堺は翌年、同大会で2連覇を果たしているが、「高校生の中では自分が1番なのは当たり前というプレッシャーがあったので、とらないといけないという気持ちが強くて、安堵(あんど)の気持ちの方が大きかったです」と振り返る。

観客で埋め尽くされた会場で東京五輪内定

大学進学にあたり、堺は東京の大学に進み、部活動には所属せず、日本のエースとして活躍していた伊藤正樹や上山容弘たちとともにナショナルトレーニングセンターで練習ができればと考えていた。そんな堺に星稜の西川明大先生が「大学の部活動を立ち上げるからもう少し考えてくれないか」と声をかけてくれたという。練習場は高校生と一緒で、同じ監督・コーチに指導をしてもらえる。慣れ親しんだ場所で競技を続けられるのであればと考え、堺は金沢星稜大学トランポリン部の初代部員となった。

同世代の仲間と競い合え、堺(右から3人目)は日々の練習から負けたくないと思えたという(写真は本人提供)

大学での目標は2019年、4年生の時に東京オリンピックへの出場枠をかけて戦う国際大会で結果を出すこと。堺は高2の時にアジア予選で敗れ、ユースオリンピックを逃している。17歳以下という年齢制限があるゆえ、堺にとっては最初で最後の挑戦だった。「ユースに出られないことが決まった時に、オリンピックこそは出たいと思うようになったんです」。夢だったその舞台は、堺の中で成し遂げるべき目標に変わった。

3年生の時にアジア大会で4位入賞。そして勝負の年となり、堺は11月の全日本選手権の個人で優勝し、翌12月の世界選手権に出場。場所は東京オリンピックの会場になることが決まっていた有明体操競技場だった。観客で埋め尽くされた会場には両親の姿もあった。

国内3番手だった堺は勝負の年の19年に全日本選手権を制し、世界選手権に挑んだ(撮影・内田光)

予選、準決勝、決勝、持てる力全てを出し尽くし、堺は5位入賞。東京オリンピック日本代表に内定した。「自分は当時、日本代表の中でも3番手くらいの選手でした。日本代表になりたいという気持ちはもちろんあったけど、まずは日本選手団の他の選手に勝たないといけないというところから始まっていたので……。あの時は本当に応援の力を肌で感じました」。母は涙で言葉を詰まらせ、普段は言葉が少ない父は「よくやった」と堺をたたえてくれた。

「はい上がるのが僕、まだまだ強くなれる」

昨年3月に大学を卒業し、堺は上京してバンダイナムコアミューズメントに就職。広報などを担うコーポレートコミュニケーション部に所属しているが、堺の場合はアスリートとして競技を優先した日々を過ごしている。「上の世代の方々がアルバイトをしながら競技をされているのを見てきたので、本当に自分は恵まれているなと思っています」。学生の時は自分のために競技に取り組んできたが、今は自分を支えてくれている人たちの思いをより強く感じるようになり、感謝の気持ちを持って競技に向き合っている。東京オリンピックの1年延期が決まった時は気持ちが沈むこともあったが、基礎体力を向上させる時間と割り切り、練習を継続した。

そして東京オリンピックを迎えた。無観客の会場にもの寂しさを感じ、2年前の世界選手権が行われた同じ会場だとは思えなかった。1回の失敗も許されないのがトランポリンという競技。堺は集中してトランポリンに向かったが、予選の2演技とも中断となり、15位で演技を終えた。「トランポリン人生の中でやったこともない失敗をしてしまい、頭が真っ白になってしまいました……」。演技中の映像を見返すことすら、堺には容易にできないという。

東京五輪での演技を振り返ることも、堺には苦しかった(撮影・細川卓)

消化しきれない思いを抱えながら、堺は3年後のパリオリンピックに向けた挑戦を始めている。まずは全日本選手権(10月1~3日)で結果を出し、来年の世界選手権、ワールドカップへとつなげる。「僕自身、何度も苦しい思いをして、何度もはい上がってきた選手だと思っています。東京オリンピックは望んでいた結果ではないけど、はい上がるのが僕だと思うので、まだまだ強くなれると思う」。日本がまだ獲得していないメダルをパリオリンピックで狙う。

トランポリンをたくさんの人に見てもらいたい

もう1つ、堺にはかなえたい夢がある。「19年に東京であった世界選手権のような満員の観客の中で演技をするのが、トランポリン競技をする1人の選手としての夢でもあります。国内の大会でも多くの人に見てもらえるように、トランポリンの認知度を上げて、面白さを伝えたいです」

堺が昨年、スポーツギフティング「Unlim(アンリム)」を始めたのもそれが1つの理由だ。コロナ禍でトランポリンも様々な大会が中止になり、ファンの人たちと距離を感じた。トランポリンのことをまだよく知らない人も含めて、どうやってアプローチをしていけばいいのか。そんな時にアンリムを知り、いいチャンスだと思った。集まった支援金はシューズやトランポリンなどの経費に使用する予定だ。

「SNSで僕自身のことを発信することが今の自分にできることだと思うんですけど、ファンの方々によりトランポリンのことや自分のことに関心を持ってもらい、僕も皆さんからの応援を力にしていけたらいいなと思いました。トランポリンの認知度を上げるにはもちろん、自分が結果を出さないといけないので、結果で応えていきたいです」

トランポリンの面白さを伝えるためにも、堺は結果にこだわる(写真提供・バンダイナムコアミューズメント)

堺は金沢星稜大時代、「大学卒業後のトランポリンの競技継続について」をテーマに卒業論文を書いた。堺自身、自分のように大学卒業後も競技を続けられる選手はごく一握りだと理解している。「社会人になっても競技を続けられる人が増えれば増えるほど競技レベルは上がるでしょうし、日本はまだまだレベルを上げられると思うんです」。競技力向上と認知向上は互いに相関関係にある。トランポリンとともに歩んできた堺だからこそ、自分が果たすべき役割を感じている。



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