フェンシング

特集:いざ、東京オリンピック・パラリンピック

徳南堅太、自身2度目の五輪でサーブル初のメダルを 選手の自分が今できること

15歳でフェンシングを始め、その集大成となる舞台・東京五輪が間もなく開幕する(写真は本人提供)

リオデジャネイロオリンピックでフェンシング男子サーブル個人に出場した徳南(とくなん)堅太(33、デロイト トーマツ コンサルティング)は、続く自身2度目のオリンピックを前にして複雑な思いだった。「今大会は団体戦のみの出場となり、望んだ結果にはなりませんでした。個人・団体ともに出場を狙っていただけに悔しいですが、その思いを東京大会にぶつけたいと思います」。団体戦ではポイントゲッターとしてチームを支え、サーブル初のメダルを目指している。

剣道からフェンシングへ

徳南のフェンシングとの出会いは偶然だった。中学校3年間は剣道一筋。2段まで取得し、県大会では団体2位にまで勝ち上がった。武生商業高校 (現・武生商工高校、福井)に進む際も、剣道部があることは事前に調べていた。しかしいざ入学してみると、剣道部の部室こそあったが部員はゼロ。剣道に打ち込むと決めていた徳南は途方に暮れたが、その時にフェンシング部顧問の諸江克昭先生に誘われた。元々、フェンシングの強豪校であることは知っていた。同級生の見延和靖(現・NEXUS)や先輩からも誘いを受ける中で、次第に気持ちが固まった。

元剣道部のフェンサーも多く、徳南自身も「同じ剣を使う競技」というところに興味を感じていたが、実際にやってみると勝手が違う。その一方で、左が軸になる剣道経験者ということから、諸江先生に「身長もあるし、左利きで始めよう」と言われ、今まで養ってきたことをここで生かせられるのは素直にうれしかった。フルーレでフェンシングを始め、全国制覇を目指す仲間たちと一緒にどんどんフェンシングにのめり込んでいき、「そのころにはもう、やめたくてもやめられない状況になっていましたね」と笑いながら当時を振り返る。しかし高校3年間の最高成績は、選抜大会も国体も団体3位。日本一の夢は大学へ持ち越しになった。

別々の大学でも、高校時代の仲間と日本一を

大学はフェンシングの強豪校で保健体育の教員免許が取得できる、というところから日本体育大学に進学。「体育教師になりたい」という思いとはまた別軸で、授業で学ぶスポーツバイオメカニクスやスポーツ心理などは競技者としても学びがあった。また1つ下に体操の内村航平(ジョイカル)など、同じ校舎で学ぶ学生の中には世界の舞台で活躍している選手も多くおり、徳南も同じアスリートとして自然と目標を高く持つようになっていったという。

日体大に進学した当初はフルーレをメインにしていたが、1年生の秋に開催された東京都ジュニア大会にてサーブルで2位となり、U-20日本代表のきっかけとなった。「僕らの代はフルーレの層が厚かったですし、1本釣りじゃないですけど、どちらかに絞った方がいいんじゃないかと思うようになりました」。そこからサーブル1本に絞ったが、今でもその選択に後悔はない。

「性格もあると思うんですよ。サーブルはものすごく速くて短期決戦。フルーレとエペが突きだけなのに対してサーブルには斬りもあるので、圧力をかけなくても有効面に触れれば勝てる。そのスピード感とかダイナミックさに魅了されました」

地元・福井の仲間には今も刺激を受けている(写真は本人提供)

大学時代に今も忘れられない試合がある。日本一を決するインカレは仲間たちと気持ちひとつで挑む大会だ。1年生の時はインカレに続く関東インカレで敗退。サーブルに転向して挑んだ2年生では序盤で敗退。3年生では2位まで上りつめたが、高校時代の同期である見延(当時・法政大)がエペで優勝、同じく阪野弘和(当時・専修大)がフルーレで優勝し、同期3人での優勝は果たせなかった。「3人そろって優勝できたらなおさらうれしかったんですけど、自分は最後に勝てなくて、『あと1回しかチャンスがない』と自分を奮い立たせていました」。その思いの通り、最後のインカレでは優勝できた。

リオ五輪で知った太田さんの思い

日体大に入学した当初は、前述の通り体育教師になろうと思っていたため、フェンシングは大学で終える予定だった。しかし3年生の時にナショナルチームに呼ばれるようになり、北京オリンピックを戦った先輩たちにも勝つようになる中で、気持ちが変化し始めた。

「教員課程もとっていましたし、2018年に地元の福井で国体があると決まっていたので、そこで指導者として地元で一旗揚げてやろうと思っていたんです。でも何がきっかけだったのか分からないんですけど、先輩たちにも勝ち始めていました。自分にも可能性があるのかもしれない。教員は後からできるかもしれないけど、選手は後からやろうと思っても、フィジカル的にできることじゃないと思ったんです。今、夢があるなら、それをやり切ってからでも遅くはないんじゃないかって」

日体大卒業後はクラブチームのNEXUSでフェンシングを続行。より競技に集中できる環境を求め、14年からは自ら売り込み、デロイト トーマツ コンサルティングに所属しながらフェンシングを続けている。希望通り現在は競技に100%集中できる環境ではあるが、企業における自分の価値・役割を徳南は常に考えるようにしている。「その当時は2011年に全日本優勝、日本ランキング1位、大学生の時からナショナルチームに入っている、という実績はあったかもしれません。でも熱意だけではなく、それ以上の結果を残さないといけない。そのためにもリオオリンピックで結果を残したいと思っていました」

男子フェンシングは(後列右から)徳南、太田さん、見延の3人がリオ五輪に出場した(撮影・河野正樹)

16年には元日本フェンシング協会会長の太田雄貴さん(フルーレ)とともにリオデジャネイロオリンピックに出場。当時の太田さんは北京大会(個人)とロンドン大会(団体)で銀メダル、15年の世界選手権で金メダル、世界ランキング1位という実績を残していた。周りからの「今度こそオリンピックで金メダルを」という期待を一身に受けながら挑んだリオ大会で初戦敗退。選手村で同部屋だった徳南は、先輩の太田さんにどう声をかければいいのか分からなかった。そんな中、太田さんは一言「後は任せた」。どんなに万全な準備をしても絶対はない。そのことを徳南は痛いほど思い知らされた。徳南自身は個人28位だった。

コロナ禍で「アスリートとしてどうあるべきか」を考え

翌17年には東京オリンピックを見据え、痛めていたすねを手術。半年ほどリハビリに費やした。競技ができない自分が所属先にできることを考え、自ら願い出てデロイト トーマツ コンサルティングに出社した。「自分がデロイトに対してできることを果たしたかったし、フェンシングだけをしていて本当にいいのかという思いもありました。自分はどういう立場で動かないといけないのか、俯瞰(ふかん)して見ることができるタイミングだったと今では思っています」

徳南(左)はリオ五輪後に手術を経て、2018年には全日本選手権を制覇した(代表撮影)

そして昨年、新型コロナウイルス感染症拡大で世界は大きな打撃を受ける。フェンシングの大会も軒並み中止・延期となり、練習すらままならない状況が続いた。目指していた東京オリンピックも1年延期。そんな中、徳南はSNSや音声配信アプリを通じて情報発信を始めた。そしてもうひとつ、スポーツギフティング「Unlim(アンリム)」にも参加を決めた。

「直接人と人が会えなくなって、試合も実施できても無観客でしかできなくなった。本当は会場に足を運んでもらって、その場の熱量を伝えられたらいいんですけど、今はそうはいかない。だから自分を知ってもらう機会を自分で作っていかないといけないなって思ったんです。フェンシングを知らない人にも応援してもらえるよう、新しいことに目を向けていかないといけない。アンリムも、アスリートとしてどうあるべきかを再確認・再認識をするチャンスだと思いました」

アンリムで集まった資金はフェンシングの普及に役立てる。コロナが落ち着いた時には自分の足で全国をめぐり、フェンシングを様々な人に教えることで、フェンシングの魅力や面白さを伝えられたらと考えている。

徳南(右)はリオ五輪を経験した唯一のサーブル選手として、団体戦に全てをかける(写真提供・日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE)

集大成となる東京オリンピックも目前に迫った。リオデジャネイロオリンピックでは6人だけだったフェンシング日本代表が、東京オリンピックでは21人と増えている。その内、リオ大会を経験した選手は徳南を含めて4人いる。

「15歳の時にフェンシングに出会って今年で34歳です。人生の半分くらいを注いできたフェンシングをお披露目できる場所がこの東京である。僕はものすごくラッキーだと思いますし、歴史に少しでも爪痕を残せるように、そして医療従事者の皆さんに感謝を伝えられるように、リオで叶(かな)えられなかったメダルを獲得することが最大の目標です」

様々な人たちへの感謝を胸に、徳南は最高のプレーを東京オリンピックで魅せる。



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