フェンシング

特集:いざ、東京オリンピック・パラリンピック

早稲田大時代に日本一、そこから始まった苦悩を乗り越え更なる高みへ 松山恭助(下)

早稲田大2年生の時に松山は初めて日本一になった。しかしその喜びよりも勝てなかったその後の3年間の方が、松山の胸に深く記憶されている(撮影・朝日新聞社)

初めて全日本フェンシング選手権男子フルーレを制したのは2016年。早稲田大2年生の時だった。後に「初めて全日本を制した後、それからも自分が勝ち続けていくんだ、と思っていた」と振り返るが、初めて日本一になった時のことは、あまり覚えていない。松山恭助(JTB、23)はそう言う。

「勝った時よりも、負けた時の方が印象は強いんです。だから初めて勝った全日本よりも、その後負け続けた3年間の方がよく覚えています」

「ポスト太田」と呼ばれるより、「ポスト松山」を名付けられる存在に 松山恭助(上)
日本フェンシング界初のメダリスト太田雄貴「大学時代があったから、いまがある」

負けた経験がなかったゆえの苦悩

負け続けた、と言うが、戦績を見れば決してその言葉はそぐわない。“早稲田大の松山”として見ればインカレも制し、“日本代表の松山”として見ればユニバーシアードで2位、16年の世界ジュニア(U20)は団体戦を制し、翌17年も団体、個人でともに準優勝。残した成果はこれ以上ないように見えるが、松山の見解は異なる。

「自分としてはもっと高みを目指していたので、もうちょっといけたな、と。それまでずっと勝ち続けてきたので、負けた後の対処法が分からなかったんです。例え勝てなくても切り替えが速くできればよかったのに、それまで失敗した経験、負けた経験がなかったのでリカバリーの仕方が分からず苦労しました」

さかのぼれば、苦悩の始まりは高校2年生の時の世界カデ(U17)選手権。前年に優勝したが、この年(13年)はベスト8。同じ大会でひとつ下の西藤俊哉(長野クラブ)が3位になった。直接対決して敗れたわけではなかったが、最終成績は西藤が上。カデ、ジュニアを経て初めて出場したシニアの世界選手権(17年)も、西藤が準優勝、敷根崇裕(ネクサス)が3位になり、松山を上回った。当時はコーチとも今のようにスムーズな連携が取れなかったことも一因ではあったとはいえ、2人同時に表彰台に上がる仲間の姿を見て、悔しくなかったわけはない。だが、そんなもどかしさを解消してくれたのは、他ならぬ相手。当初はぶつかり合ってきた男子フルーレ日本代表のオレグ・マチェイチュクコーチだった。

悔しい思いもたくさんしてきたからこそ、今の自分がある(撮影・松永早弥香)

「他人と比べるな、と。恭助は今厳しい状況で、くじけそうだと思うけれど、それでもずっと前を向き続けろ。必ず自分の日がくるから我慢しろ、その日まで練習し続けろ、ハードワークを忘れるな、というオレグの言葉、教えがあったから、強くなることができたと思います。大学生で“努力”と言うのは簡単に聞こえるかもしれないですけれど、本当にその通りで、努力をすることがいかに大切か。勝てなかった自分の失敗、そしてオレグの言葉。日本選手権で勝ったのも、日本代表のキャプテンになったのも大学時代。本当にいろんな経験をした4年間でした」

日本代表のキャプテンとして

フェンシングには個人戦と4人1組になって出場する団体戦がある。オリンピックはワールドカップやグランプリを転戦して重ねたポイントがランキングとなり、その上位が団体戦、個人戦の出場権を与えられるのだが、団体戦で出場権を得れば、同時に個人戦も3人の選手が出場できる。つまり、個人戦ではライバルでもあるが、日本代表として戦う団体戦では仲間同士。その「個」を束ね、チームとして戦う団体戦で、17年から松山はキャプテンに任命された。

16年のリオデジャネイロオリンピックまでともにプレーし、キャプテンでもあった太田雄貴さん(現・日本フェンシング協会会長)の姿から学ぶことは多くあったが、直接「キャプテンだからこうした方がいい」と言われたわけではない。最初の2年ほどは「キャプテンらしさはなかった」と振り返るが、好きなヨーロッパサッカーの試合やクラブに密着するドキュメンタリー番組を見て、強いチームのキャプテンがどう振る舞い、どんな言動をするのか、一つひとつ学んだ。

キャプテンとして自分には何が足りていないのか、松山(左)は他競技のキャプテンたちの姿に習った(撮影・朝日新聞社)

「特別なことをするわけではなくても、強いチームはキャプテンが際立つんです。真ん中に軸があって、その周りに選手がいる。ここでこういう言葉をかけるとみんなに響くんだ、とか。気遣う時は気遣う、でも言うべき時は言う。いろんな失敗をして、僕自身も“変わらないといけない”と思いながら過ごしてきたので、声をかけるタイミングや、鼓舞するところ。少しずつ、キャプテンとしての立場が分かるようになってきました」

4年ぶりの全日本王者「まだまだこれから」

今年9月26日、4年ぶりに悲願の全日本王者となったが、勝利直後のインタビューに答えながら「これを見ている選手たちは、きっと今までの自分と同じように悔しさを抱いているだろう」と感じていた。自分ももっと強くならなければならない。「もっと成長したい」と胸に抱いたのは、満足感ではなく危機感から。だがそれすらも、ポジティブに捉えている。

「失敗がなかったら、絶対に成功はない。僕はとにかく悔しい思いをいっぱいしてきたので、それが新しい強い自分をつくってくれると思うんです。全日本で勝って、大きな成功体験ができたのはポジティブですけど、大会に臨む緊張感が消えただけで、ここで終わりという安堵感や満足感はゼロ。それだけでも僕の中では終わっていないという証であり、まだまだこれから。西藤、敷根、鈴村(健太、法政大4年、大垣南)……いいところも悪いところも知り尽くした同世代の仲間と日本代表として一緒に勝ちたい、という思いが今まで以上に強くなりました」

先行きが見えない今、それでも思いは東京五輪へ

新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、次はいつ国際大会が開催されるか、先行きは見えない。だからといって目標が消えるわけでもなければ、ブレるわけでもない。ひとりの選手として大きな目標にすえる東京オリンピック。世界でメダルをかけた争いを繰り広げるレベルに近づいた実感はあると言いながらも、頂点に立つために越えなければならない壁はまだまだ高く、厚いと松山は言う。

「漠然と練習するだけではもったいないし、それではせっかく今いい感じで上がってきているのが後戻りしてしまうかもしれない。世界の本当のトップに食い込むためには、もっともっと練習をして、日本選手権で出したようなミスをなくす。全ての質を高めないといけないんです。この先どうなるかは分かりませんが、でもだからこそ、今できることをやり続ける。それしかないと思います。コロナの感染者数はどう頑張っても僕にはコントロールできないけれど、自分自身はコントロールすることができる。そこに尽きると思うので、どんな道筋をたどろうと、自分の目標とする場所にたどり着いて勝ちたいです」

世界の本当のトップに食い込むため、今できることをやり続ける(撮影・松永早弥香)

幾多もの成功と失敗を繰り返し、たどり着いた今。ひとりのフェンサーとして、そして日本代表のキャプテンとして。目指す山の頂に向け、松山はもっと強くなる。全ての点を結集させ、最後に最高の喜びをかみしめる日に向けて。今はまだ、進化の過程にすぎない。

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