フェンシング

特集:東京オリンピック・パラリンピック

「ポスト太田」と呼ばれるより、「ポスト松山」を名付けられる存在に 松山恭助(上)

今年の全日本選手権で松山は4年ぶりに王者を奪還した(撮影・朝日新聞社)

4年ぶりにつかんだ全日本チャンピオンの称号。9月26日に行われた全日本フェンシング選手権男子フルーレ決勝、優勝を決めた最後のポイントは実に華麗で美しい、ジャンピング振り込み。ただひたすら「自分を表現したい」と臨んだ決勝を15-4で制した松山恭助(JTB、23)は「決勝戦は30点」と自己採点は辛口だが、素直に勝利の喜びを口にした。

日本フェンシング界初のメダリスト太田雄貴「大学時代があったから、いまがある」

「呼吸をするのと同じぐらい、“優勝したい”と思っていました。でも、試合の時は勝ちたい気持ちも大切ですが、会場に欲を持って行くと自分を見失うんです。自分のプレーに集中するためには、自信をつけるしかない。そのためには心技体全てをとことん突き詰めて考えて、追い込まないといけないと思ったし、特別なことじゃない。だから誰よりも練習したし、体脂肪、体重、筋量、睡眠時間、食事、全てをコントロールして準備しました。それだけやってきたからこそ、試合前からこれだけ準備して、こういうプレーができれば絶対勝てる、という自信があり、最後のポイントも構えた瞬間に『絶対このポイントでジャンピング振り込みが決まる』と確信できたんです。一つひとつの点が一直線につながって、集中して、最後まで自分を表現することができました」

全日本王者で、日本代表フェンシングチームのキャプテン。「もっと強くなれる」と前を向く松山の姿は実に晴れやかだ。だが、ずっとそうだったわけではない。むしろ成功よりもっと多くの失敗があり、重ねた悔しさがある。重ねた経験が、松山にとって何より得難い力となり、たどり着いた“今”だった。

幼心に響いた世界のトップランカーたちの姿

東京・浅草で生まれ育った松山とフェンシングの出会いは4歳のころ。家の近所にあるリバーサイドスポーツセンターで活動していた総合型地域スポーツクラブの実施競技のひとつに、フェンシングがあった。母から「行ってみない?」と誘われ、2歳上の兄とともに参加したのがきっかけだった。

フェンシングを始めたばかりのころは、ただただフェンシングが楽しかった(撮影・松永早弥香)

小学生のころから地元のケーブルテレビで取材を受け、「オリンピックに出場したい」と口にすることはあったが、何かを目指すとか誰かのようになりたいという以前に、フェンシングが楽しかった。試合に出て勝てば更に楽しい、と自然に芽生えた感情が徐々に大きくなり、小学2年生の時で全国大会初優勝を遂げるなど早くから頭角を現した。

一方で空手も習い、サッカーや野球も大好きなスポーツ少年ではあったが、大会で勝つことと同時に松山のフェンシング熱を高めたのは、毎年一度、東京で開催されるフェンシングの高円宮杯ワールドカップだ。世界のトップランカーたちが目の前で見せる力や技、闘志、迫力。幼い松山も憧れを募らせ、漠然とではあったが「いつか自分もこんな風に世界で戦う選手になりたい」と思うきっかけを与えた。

尊敬する太田さんを超えるために

その夢が現実へと進み出したのは、中学に入ってから。全国大会だけでなく、国際大会にも出場を果たし、2012年には世界カデ(U17)選手権で優勝。「ガムシャラに目の前の試合を勝ちにいく時期だった」と振り返るように、東亜学園高校(東京)へ進学してからも松山は勝ち続けた。

フェンシング界に目を向ければ、08年の北京オリンピックで太田雄貴さん(現・日本フェンシング協会会長)が日本人選手として初のメダルを獲得。大きな盛り上がりを見せる中、太田以来となるインターハイ3連覇を果たしたのが松山だ。右利きの太田に対し、松山は左利きでフェンシングスタイルも異なる。だが、インターハイで連覇を達成すれば新聞には「ポスト太田」「太田雄貴の後継者」と見出しが躍る。同時期に20年の東京オリンピック開催が決定したこともあり、次世代のホープとして臨んだインターハイ、特に3連覇がかかった最後の大会は大きなプレッシャーとの戦いだった、と松山は振り返る。

松山(左)にとって、同じ男子フルーレの先輩でもある太田会長は尊敬してやまない存在(撮影・朝日新聞社)

「太田さんのことはとてつもなくリスペクトしているので、『ポスト太田』と言われるのはうれしいですけど、そういう言われ方をするのは正直、好きではないです。尊敬する太田さんだからこそ、越えるためには自分が『ポスト松山』を名付けられるくらいの位置にいかないといけないと思っていたし、高校3年でインターハイ3連覇がかかった時は、太田さんに並びたいというよりもまず、一生に1回しかないこのチャンスをつかみたい。プレッシャーは、とてつもなく大きなものでした」

強豪・東亜学園で味わった鬼の合宿

世界カデ選手権で優勝した勢いそのままに勝ってきた1、2年生の時とは違い、狙うべくして頂点を取りにいく。そのプレッシャーに打ち勝つために必要なものは何か。心技体、全ての準備を整えることだと思った。全国の強豪である東亜学園は、夏季休暇時の合宿が松山いわく「とにかくものすごい」そうだ。

朝5時に起床し、5時半から3~5km走。それから15分程度の筋力トレーニングをして朝食を摂るが、お茶碗3杯以上は必須。その後、9時から12時までフットワークで脚を動かすのもやっとという疲労を抱えながら、昼食は牛丼や中華丼など丼ぶりメニューにしっかり主菜や副菜、汁物もつくボリュームメニューを食す。午後はフェンシングの実戦メニュー中心に3~4時間汗を流し、夕食もしっかり食べて20時から22時までは夜間練習。ヘトヘトに疲れ果てて就寝し、また翌朝5時に起床、というハードメニューが1週間続くのだが、その合宿でも「誰よりも追い込んだ」と松山は言う。

「誰よりも走って、誰よりもフットワークも速く、誰よりもフェンシングのクオリティを求めて、心技体をいじめまくる。そうしないと勝てないと思ったんです。3連覇のプレッシャーがすごかったから、自信をつけるにはとにかく練習して追い込むしかない。だから、インターハイの直前になったら『絶対勝てる』と勝ちにいくためのメンタリティを得ることができていました。その感覚は、今回(20年)の全日本選手権も同じ。これだけ追い込んで準備してきたから、勝てる、と自信を持って臨むことができました」

合宿で追い込めたからこそ、「勝てる」と自信をつけることができた(撮影・松永早弥香)

華やかな戦績とともに高校を卒業。競技に打ち込む傍ら勉強にも励み、早稲田大へ入学。日本代表としてもカデからジュニア(U20)、シニアへとステージが上がり、選手としても更なる飛躍を誓う。だが、大学の4年間は勝ち続けたそれまでとは異なり、なかなか勝てず、負ける悔しさを味わう苦悩の時。

「中学や高校ですさまじく勝ってきた分、大学ではすさまじく負けた。でも、その“失敗”が自分を強くしてくれました」

早稲田大時代に日本一、そこから始まった苦悩を乗り越え更なる高みへ 松山恭助(下)

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