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特集:東京オリンピック・パラリンピック

敷根崇裕、苦難の先でつかんだ11年ぶりの銀メダル 法政大時代の学びを五輪に生かす

敷根は3月に行われたGP大会で準優勝し、自身初となるオリンピック代表の座を獲得した(写真提供・日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE)

3年以上国際大会で結果が出ず、それでも努力を続けた先に待っていたのは、日本人として11年振りの快挙だった。3月28日、ドーハで行われたフェンシング男子フルーレのグランプリ(GP)で、敷根崇裕(たかひろ、ネクサス、23)は銀メダルを獲得した。男子フルーレのGP表彰台は2010年以来。決勝進出を決めたのは相手のアタックにあわせて潜り込む、研ぎ澄まされたカウンターだった。逆転に次ぐ逆転。接戦の末に制した準決勝を振り返り、敷根は「すごくうれしい」と喜びを素直に口にした。

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背中への攻撃で形勢逆転

「やはりオリンピック前、最後の試合だったので、そこでメダルを取れたのはうれしかったです。準決勝の(アレクサンドル・)エディリ(フランス)との試合では、過去に対戦した経験から背中を狙った攻撃(剣をしならせ背中を攻撃する振り込みという技)が有効だということは分かっていました。ただ最初の方は慎重に試合を進めるため、背中への攻撃をせずにいったらドンドン点数を取られてしまって……。それで背中への攻撃にシフトチェンジしたら、こちらの攻撃が決まるようになったんです。加えてその日は僕も調子が良かったので、緊張することなく冷静な試合運びができました」

ドーハGP準決勝でカデ(中学~高校)時代からのライバルに勝てたのがうれしかった(右が敷根、写真提供・日本フェンシング協会:Augusto Bizzi/FIE)

この試合で敷根は初のオリンピック代表の座を獲得。今回は銀メダルだったが、東京オリンピックでは金メダルを取りたいと話す。その瞳からはオリンピックでのメダル獲得に並々ならぬ意欲を感じる。

だが、ここまでたどり着くのは決して簡単ではなかった。度重なる失敗とスランプ、そしてコロナ禍での苦労があったからだ。

法政大時代に世界3位、その後に待っていた苦悩

フェンシング選手だった父・裕一さんの影響で、幼稚園の頃からフェンシングを始めた敷根は、高校生の時にインターハイで優勝して頭角を現した。それから法政大学に進学して2年目の17年、世界選手権にてフルーレ個人で銅メダルを獲得。更に同年にはユニバーシアードで男子フルーレ団体金メダルを獲得するなど、華々しい戦歴を飾ってきた。

敷根が専門とする男子フルーレは、これまで2度オリンピックでメダルを取っている日本の看板種目。それゆえ国内の期待値も高いが、ここ数年は敷根を含む全ての日本人選手が世界大会の表彰台に立てずにいた。その理由を、男子フルーレのコーチであり、日本代表監督でもある青木雄介さんはこう話す。

「今の世界大会では太田雄貴(北京、ロンドンオリンピック銀メダリスト)の世代(30代)が非常に強いんです。もちろんそういう中でも若手の強豪選手がたくさん出てきているんですが、上にいくのが非常に難しくなっています。言ってしまえばベスト64に入るのも非常に難しい状況で、実力があってもその前で負けてしまう選手ですとか、昔だったらベスト64やベスト32で当たっているような顔ぶれが、ベスト64の前で負けてしまうようなケースが多々見られます」

強いベテラン選手が多くいるため、フルーレ競技のレベルと年齢層が引き上げられていると青木監督(撮影・前田大貴)

敷根も国際大会の入りで緊張してしまうと漏らす。

「世界のトップ選手たちに対してはチャレンジャー精神のようなものがあるので、やりやすい部分もあったんですけど……。その前のベスト64とか32ですと、逆に強くない選手にも緊張してしまうところがあって、なかなか結果が出せなかった時期が続いていたんです」

そんな時に支えになったのが、男子フルーレ日本代表のオレグ・マツェイチュクコーチから言われたある一言だった。

「なかなか結果が出せずに苦しんでいる時、オレグが『崇裕がポイントを取ってこなければ、団体戦では負けてしまうんだ』と言ってくれたんです。すごく頼りにしてくれているんだなと自分の中では思って。その言葉がつらい時、支えになってくれたのだと思います」

コロナ禍で「基礎トレーニングの重要性」に気づけた

オレグコーチからのアドバイスを受け、これから盛り返そうとした敷根だが、そんな彼に追い打ちをかけるように新型コロナウイルス蔓延のニュースが世界中で飛び交った。

その影響で20年4月に練習場(味の素ナショナルトレーニングセンター)が閉鎖され、フェンシングの練習ができない事態に。その自宅待機期間に筋トレ、ランニングといった基礎トレーニングを始めた。

「ランニングは最初5kmくらい走っていたんですけど、僕は元々走るのが嫌いで、5km走るのもすごくきつかったんですよ。でも毎日5km走っていたら段々と慣れてきて、毎日10km走れるようになっていました。そしたら余計な脂肪が落ちたみたいで、気づいたら77kgあった体重が69kgにまで落ちていたんです。更にフィジカルトレーニングをすごい頑張ったら、これまで意識していなかった筋肉の使い方が意識できるようになっていて。試合でも自分の体が軽くて動かしやすくなっていたんです」

この時、皮肉にもフェンシングができない環境になったからこそ「基礎トレーニングの重要性」に気づけたという。

「コロナ禍で満足な練習ができませんでしたが、基礎トレーニングを重視することで、体の使い方の意識が変わりました。体重も減り、動きも早くなったように感じます。ドーハGPでも世界最高クラスのスピードを誇るリー・カイヒョン(韓国)と当たった時、彼のスピードについていくことができました」

基礎トレーニングを積んだことで“フットワークが軽快になった(左が敷根、撮影・朝日新聞社)

その敷根の変化を、青木監督はこう話す。

「まず“フットワークがものすごく軽快になった”ということ。それともうひとつは“疲れにくくなった”ということですね。コロナ前よりも動けるようになったことで、以前はもらっていたかもしれないアタックをギリギリのところでかわせるようになっていたんです。それに今回のドーハGPは強豪ばかりの厳しいトーナメントだったので、普通に試合をしていくと早い段階で息が上がってしまうものですが、リオオリンピック銀メダリストの(アレクサンダー・)マシアラス(アメリカ)と対戦し、勝利した後も、そこまで肩で息をしていませんでした。以前よりも体力面が向上したことで、疲れが見えるかなというところから、また盛り返して、しっかり動けるようになっていたので、基礎トレーニングの成果は大きかったんじゃないかなと思いますね」

法政大時代に芽生えた“責任感”

コロナ禍を経て、新たな力を得た敷根。今夏の東京オリンピックでは、個人・団体ともに金メダルを目指すという。もちろん個人戦も要注目だが、同じくらい目が離せないのが、19年に日本が10年ぶりにアジアナンバーワンとなった団体戦だろう。

男子フルーレは同世代の選手たちの活躍が光る(写真は2019年高円宮杯W杯にて、左から鈴村健太、敷根、西藤俊哉、松山恭助、撮影・朝日新聞社)

特に今は敷根・松山恭助(JTB、24)・西藤俊哉(セプテーニホールディングス、23)・永野雄大(ネクサス、22)と20代前半の選手で構成されており、若さゆえに勢いもある。その団体戦で生きるのが、敷根が法政大時代に学んだ“責任感”だという。

「高校生から大学の下級生の時までは、自分のやりたいようにフェンシングをしていたんですけど、大学で上級生になると、後輩にしっかりと戦い方を見せなきゃいけないと思ったんです。これまでのように自分のやりたいフェンシングをするよりも、失点を抑えてしっかりと勝つ姿を見せる。その姿勢を実行したことで、大学最後の全日本選手権(団体戦)でも優勝することができ、学生史上初の全日本4連覇を成し遂げることもできました。この法政大学時代の経験は、日本代表の団体戦でも必ず生きると思っています」

絶対的エースとして、常に団体戦で重要なポジションを任されていた敷根は、責任感が自分の選手人生において大きな変化をもたらしてくれたのだと話す。

試合中も常に見守ってくれている青木監督(左)とともに、オリンピックの頂点を目指す(撮影・前田大貴)

前回、ロンドンオリンピックで銀メダルを獲得したのも団体戦であったが、これまで日本人が1度のオリンピックで個人・団体のメダルを一緒に取ったことはない。その世紀の瞬間を目撃したいと思っているのは、私だけではないはずだ。

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