フェンシング

特集:東京オリンピック・パラリンピック

西藤俊哉 恩師の“喝”でスランプを乗り越えつかんだ東京五輪、この悔しさも糧にして

西藤はフェンシングの指導者である父の下で5歳の時にフェンシングを始め、小3の時に初めてオリンピックを意識するようになった(撮影・諫山卓弥)

フェンシング・フルーレの西藤俊哉(24、セプテーニ・ホールディングス)が初めてオリンピックを意識したのは2007年の小3だった時。全国大会のゲストとして登場した太田雄貴さんと対戦し、太田さんが発するオーラ、力強さ、スピード、怖さ、全てに圧倒された。「自分が知っているフェンシングを一気に超えられて、スーパーマンに会ったような感覚でした。そんな太田さんでも勝てない人が世界にいるんだと驚き(04年アテネ五輪では9位だった)、自分もいつかオリンピックに出て金メダルをとりたいと思うようになりました」と西藤は振り返る。

そして東京オリンピックで初めて世界最高峰の舞台を経験。個人ではベスト16、団体では4位に入ったが、「他の選手が頑張ってくれての結果。僕自身は全然力を発揮できず、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」と悔しさをかみしめた。東京オリンピックまでの道のりを振り返ると、安易に「次はパリオリンピック」とは言えない。それでも自分を応援し、支えてくれている人のためにも、今年、来年と実績を残し、その上で再び世界最高峰の舞台を目指す。

「行かせてくれないなら、一生父さんを恨む」

「自分はエリートではなく、はい上がってここまで来ました」。西藤は5歳の時に元フェンシング選手の父が指導するクラブでフェンシングを始め、小6でドイツの国際大会U-12の部で優勝。中2でJOC(日本オリンピック委員会)が中1~高3の選手を対象に支援する「エリートアカデミー」入りを果たした西藤は十分“エリート”だと思われるが、中1の時に引退もよぎるほど、勝てない状況に悩んでいたという。

そんな中、エリートアカデミー入りが決まり、西藤は「これが最後のチャンス」だと感じた。しかし父は東京行きを反対。話し合いの中で、西藤は「行かせてくれないなら、一生父さんを恨む」と気持ちをぶつけた。「父は僕の覚悟を試すためにそんなことを言ったんだと思うんですが、僕が当時そんなことを言ったなんて、正直覚えていないんです」と西藤は笑いながら明かす。父とは違って母は最初から賛同してくれていたが、いざ決まると涙を流して寂しがったという。

エリートアカデミーに入ったばかりの頃は女子選手にも勝てず、苦しい時期が続いたが、「太田さんに代表されるように、フルーレは日本のお家芸ですから、日本で勝つのは簡単なことではありません。その一方で、世界では戦えるという確信がありましたし、相当の覚悟をしてきましたから、簡単には諦められませんでした」。全国大会になれば指導者の父も自分の競技を見守り、アドバイスをくれた。ちょうどその時は反抗期だったこともあり、「普段の練習を見てないくせに」と反発する気持ちもあったが、父はフェンシングの面白さを教えてくれた人であり、ひとりの人間としての成長を促してくれた存在だと、今ではそう素直に感じている。

中2の時に西藤(右)は日本代表選手も練習するナショナルトレーニングセンターで練習を始め、日本代表選手がどのような日々を過ごしているのかを学んだ(撮影・朝日新聞社)

法政大で得た仲間、2つの学び

西藤が長野の中学校に通っていた1年間は学校のフェンシング部に所属していたが、上京してからは学校の部活には入らず、ナショナルトレーニングセンターを拠点に練習を積んでいた。法政大では部活に所属し、学生大会の前は大学の練習場で仲間たちと練習をしていたという。「それまで部活をあまり経験していなかったので、同世代の仲間と過ごすのは新鮮で、横だけでなくOBOGとの縦のつながりも強くなりました」。当時の仲間とは今も交流があり、西藤の試合の時には応援に駆けつけてくれる。

スポーツ推薦だった西藤は法学部での学びの他、スポーツ経営やスポーツマネジメントなどスポーツに関する授業も受けられるようになっていた。その中で特に2つの学びが今の競技生活にも生きているという。

1つはリーダーシップに関して。「リーダーシップはキャプテンだけが発揮すればいいというものではなく、一人ひとりがチームのために必要なものだと思うようになりました」。例えば団体戦でピストに立つ選手にベンチからどう声をかけるか、どうチームの雰囲気を盛り上げるか、西藤はその授業での学びから意識するようになったという。もう1つはスポーツメンタルに関して。17年に世界選手権で銀メダルを獲得して以降、世界で勝てない状況が続き、自分に自信が持てずにいた時に、この授業と出会った。なぜ不安になるのか、なぜ緊張するのか。ヨガを始め、ルーティンや呼吸方法を意識するなど、自分の心と向き合いながら自分を変えるきっかけになったという。

「世界一練習した」先で世界選手権銀メダル

西藤は1年生だった16年にシニアのワールドカップでベスト8になり、自分も世界で戦えるのではないかと自信が持てるようになった。翌17年4月のU20世界選手権では個人と団体でともに準優勝。その勢いに乗って挑んだ翌5月のシニアの大会でリオデジャネイロオリンピック銅メダリストのティムール・サフィン(ロシア)と対戦し、「見事にボッコボコにされました」と西藤。シニアは甘くないことを痛感させられた。

だがその17年に西藤は初めて世界選手権への出場権を獲得し、ここで結果を出したいと練習に明け暮れた。「あの時、自分は世界で一番練習したと思う」と思えるほどの日々を過ごし、7月の世界選手権では5月に完敗したサフィンにも競り勝ち、銀メダルを獲得。これは10年に銅、15年に金を獲得した太田さん以来2人目となる個人戦でのメダルだった。ただ西藤自身はこの快挙に対し、「勢いで戦ったらとれてしまった」と表現する。

その栄光からほどなくして、西藤はスランプに陥った。世界中のフェンサーから西藤の技を研究され、その後にあったワールドカップでは力を発揮できず、自分に自信が持てないまま、12月の全日本選手権を迎えた。

スランプの中にいた17年12月、西藤は仲間たちの応援を背に、初めて全日本選手権を制した(撮影・朝日新聞社)

この年に太田さんはフェンシング協会会長に就任し、全日本選手権を広く人々にフェンシングの魅力を伝えるチャンスと捉え、会場では鮮やかなLEDディスプレイを搭載し、エンターテインメント性も追求して大会を開催した。日本のフェンシングが変わろうとしている中、自分もここで力を発揮したい。その思いで西藤はピストに立ち、決勝で前回優勝者の松山恭助(当時早稲田大3年、現JTB)と対戦。15点先取の試合で西藤は1-9と追い込まれてしまった。「あの時、改めて応援の力を感じました。法政の先輩や後輩も応援に駆けつけてくれて、自分が1点とる度に会場が盛り上がり、また点を重ねるともっと大きな声援を送ってくれる。それで一気に流れが変わりました」。応援を力に西藤は盛り返し、15-14で初優勝をつかんだ。

恩師から「自分の力でつかみとれ!」と喝

17年は飛躍の年になった一方で、18年は苦難の1年となった。その状況から抜け出せぬまま19年を迎え、東京オリンピックをかけた大事なシーズンが始まった。しかし西藤はその年のアジア選手権と世界選手権は個人のみで、団体はメンバーから漏れてしまった。「自分の不調を考えると団体戦に選ばれなかったのはしょうがないと思う反面、当時は日本ランキングでは一番高かったのに……という葛藤がありました」。そして5月29日、モヤモヤした気持ちを抱えた中で22回目の誕生日を迎え、エリートアカデミーの時にお世話になった清野明コーチに「誕生日なんで一緒にご飯食べてください」と電話をした。慣れ親しんだ清野コーチを前にしてつい愚痴ってしまい、清野コーチも西藤が厳しい状況にあることを理解してくれた。その上で西藤にこう言った。

「それはお前が悪い! お前がやりたくてやってるんじゃないか。誰もお前にオリンピックで金メダルをとってくれなんて頼んでない。お前がとりたくてやってるんだろう? だったら自分の力でつかみとれ!」

西藤は清野コーチの強い口調にビックリしたが、確かに自分は周りにばかり目がいってしまい、自分のことが見えていなかったと痛感させられた。自分のために頑張らないといけない。そこでやっと吹っ切れ、翌6月のアジア選手権では個人で3位となり、続くワールドカップでもベスト8と結果を残すことができた。「あの時に喝を入れてもらっていなかったら、その後の東京オリンピックもなかったかもしれない」と西藤は恩師の喝に感謝をしている。

五輪で得た全ての感情

東京オリンピックが延期になった時も、「準備できる時間が増えた」と前向きに捉え、様々な大会が中止・延期になっても気持ちを切らすことなく練習を継続した。そして今年4月、東京オリンピックの個人と団体で内定した時は、夢の舞台に挑める喜びとともに、この舞台を目指して届かなかった選手たちの悔しさが身に染み、複雑な思いだったという。

迎えた大舞台、フェンシングは全てが無観客での開催となった。「有観客と無観客ではまた違うのかもしれないんですが、それでもオリンピックは特別な舞台だと肌で感じました。そこで得られた全ての感情は、その舞台に立たなければ分からないものだと思いました」。全ての感情。西藤には、とりわけ「悔しさ」が胸に刻まれた。

東京オリンピックの舞台に立ち、トップ選手たちが積み上げてきたものの存在を感じた(右が西藤、撮影・林敏行)

「まずは大会が開催されたことに感謝していますし、自分を支えてくれた人々に感謝しています。その上でオリンピックを経験して思うことは、あそこで勝てる選手はそれまでの積み重ねができているんだろうな、ということでした。自分も積み重ねてきたつもりでしたが、それでも勝てないのがオリンピック。あの舞台に立つまで、いろんな苦労やつらいことがあったし、それでも再び、と思うと生半可な気持ちでは挑めないなと思っています。だからまずは全日本選手権(準決勝までが9月16~18日、決勝が10月3日)で優勝し、シーズンを通して結果を出し、来年は世界選手権で金メダルを目指して頑張りたいです」

西藤は昨年2月にスポーツギフティング「Unlim(アンリム)」を開始した。それまでもSNSを通じて自分の思いを発信してきたが、ファンとのつながりを強くしたいという思いから、スポーツギフティングに魅力を感じたという。支援金は用具や渡航費などに活用し、今後の成長に役立てたいと考えている。「おこがましいんですが」と前置きした上で、西藤はこう話す。

「自分の夢に乗っかっていただけたらと思っています。一般の方から応援していただき、寄附していただくことで、自分が果たさないといけない責任は増しますし、その思いに結果で応えたいです。自分が結果を出せた時は、『自分が応援している選手だ!』と思っていただけたらうれしいです」

生まれ育った長野を飛び出した時も、西藤は「はい上がる」という気持ちでフェンシングと向き合ってきた。オリンピアンになった今も、その思いは変わらない。ここからまた新たな一歩を踏み出す。



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