陸上・駅伝

東海大・デーデーブルーノ 大学4年間の成長を糧に、世界で活躍するスプリンターに

デーデーは今年6月の日本選手権で2位になり一躍大注目を浴び、オリンピックリレーメンバーにも選ばれた(撮影・池田良)

近年、活況を呈してきた陸上の日本男子スプリント界。“史上最もハイレベルな戦い”とも言われた6月下旬の日本選手権で、100mと200mの2種目で2位に食い込み、東京オリンピック日本代表に選出されたのが、東海大学4年のデーデー・ブルーノ(創造学園、現・松本国際)だった。高校2年で陸上を始め、わずか6年でオリンピアンへと上り詰めた注目のスプリンターが、大学4年間を中心にこれまでのキャリアを振り返りつつ、自身が描く青写真を語った。

鮮烈なインパクトを残した日本選手権

本来であれば昨夏に開催される予定だった東京オリンピックは、新型コロナウイルスの影響で1年後の今夏に延期された。今年度、最終学年となったデーデーは、「オリンピックが1年延びたことで習得できる技術もある。もしかしたら(日本代表になれる)、という期待を持って入った今シーズンでした」と振り返る。

より現実的な目標として定めた世界リレー選手権日本代表には届かず、4月には故障もあったが、5月に入ってから調子を上げ、6月上旬の日本学生個人選手権100mを制して自信を深めた。

「5月の東京オリンピックテストイベントで、今までやっていなかった刺激を入れて臨んだら、思った以上に良いタイムが出ました。その後の日本学生個人に向けては、徐々にスピードも上がって、自分に足りない部分をしっかりと取り組み始めてから、レースで1本1本重ねるごとにうまく修正できるようになって良くなった感じです」

日本選手権で残したインパクトは、あまりにも鮮烈だった。9秒95の日本記録を持つ山縣亮太(セイコー)を筆頭に、小池祐貴(住友電工)、桐生祥秀(日本生命)、サニブラウン・アブデルハキーム(タンブルウィードTC)といった9秒台の自己記録を持つ選手たち先着。多田修平(住友電工)に次ぐ、10秒19(+0.2)の自己ベストで2位に入った。200mでも20秒63(+1.0)の自己新をマークし、小池に次いで2位。しかし、一気にブレイクした日本選手権は、「予選が始まるまで不安を抱えていた」とデーデーは明かす。

日本選手権は「予選が始まるまで不安だった」と話す(撮影・池田良)

「前日の練習では感覚が悪くて、大丈夫かなと不安でしたが、予選でうまく走れて、状態は良いのかなと。そこから気が楽になって、準決勝からは何も考えずにできました。過去2大会は準決勝どまりで、プラス(タイムで拾われる2名)で決勝に残れればOKと考えていた中、着順で決勝に行けたのは成長できた部分だと思います」

反響は想像以上に大きかった。100mのレース直後からデーデーのもとにはたくさんの祝福メッセージが届き、SNSのフォロワーも激増した。「自分も注目してもらえているんだと嬉(うれ)しかった」が、改めて大会を振り返り、「日本選手権で2位に入るなら、10秒0台を出したかったし、200mもコーナーをトップで抜けてきて、最後までブレないで走っていくのが理想でしたが、最後に小池さんに競り負けた」と反省する姿に、デーデーの生真面目さと伸びしろの大きさが見て取れる。

東海大で日本一、世界一を経験

これまでのスポーツ歴で言えば、小学校2年から高校1年の秋まで続けたサッカーの方が長い。高校ではチーム一の俊足だった。しかし、自身は「闘争心や技術がなく、限界を感じていた。サッカーは好きだったけれど、遊びでやるくらいがいい」という思いから、高校2年で陸上競技に転向した。「陸上はわからないことばかりで難しいことも多かったですが、少しずつできていくのが楽しかった」という。

3年生のシーズンは、「出場できれば」と考えていたインターハイに出場しただけでなく、100mで予選、準決勝と突破し、決勝で5位入賞。そのレースで大会2連覇を遂げた宮本大輔(東洋大4年、当時・洛南)には、「レベルが2、3個違う。すごい次元の選手だな」と圧倒されたものの、「青春していた」と言えるほど充実した高校最後の夏だった。

20年の日本インカレでは6レーンの水久保漱至に次いで2位だった(撮影・藤井みさ)

2018年の春、東海大に入学したのは、「2つ上の兄が東海大生だったことや、(陸上競技部監督の)高野進先生が長野県まで勧誘に来てくれた」ことなど様々な理由があるが、「これまですごい選手を輩出してきたチームで、自分も高いレベルで揉まれたらもっと変われる」と思ったのが大きく、「青いユニホームが好きで、東海に憧れもあった」とデーデーは語る。

「質が高く、1本1本がきつい。周りも速い選手が集まっている」という練習環境は、高校とは比べものにならないほど恵まれていた。とはいえ大学生活は、常に順風満帆だったわけではない。好不調の波や気持ちの浮き沈みもあれば、故障で苦しんだ時期もあった。それでもゆっくりと着実に成長を遂げていく中で、1年の秋にはU20日本選手権の100mで優勝。自身初の全国タイトルを手にすると、翌年にはイタリア・ナポリでのユニバーシアード(現・ワールドユニバーシティゲームズ)に出場し、宮本らとともに4×100mリレーで金メダルを獲得している。

「ユニバーシアードは日本代表に選んでもらったのが嬉しかった。同世代の世界のトップはどんな選手なのか、生で感じられる機会はなかなかないので、ワクワクして大会に臨みました。調子自体はあまり良くなく、100mは準決勝で落ちて悔しかったですが、良い経験になりました」

その後、2020年シーズンを前にした冬季練習で、デーデーは右脚の前十字靱帯(じんたい)を損傷し、直後には鵞足炎(がそくえん)にも罹(かか)ってしまう。「通常ならシーズンインが間に合わない状態だった」が、コロナ禍で大会の中止や延期が相次いだことは、治療に専念できるという意味で幸いだったかもしれない。3月に決定した東京オリンピック1年延期のニュースは、「残念だったけれど、自分にとってはチャンス」と前向きに捉えたデーデーは、夏から再開され始めた大会を1つずつこなしていった。

「楽しかった大学生活でした」

今季は、東海大の陸上競技部短距離ブロックに、北京オリンピック4×100mリレーで銀メダルを獲得したOBの塚原直貴氏がコーチに就任。デーデーは、「高野先生の指導をひも解いてアドバイスしてくれます。現役時代は10秒09で走った方なので、そういう人だからこそわかる技術や気持ちの作り方を教えてもらってきました」と語り、すべてを吸収しながら自身の飛躍に変えた。

6月の日本選手権で一躍その名を広めたデーデーは、東京オリンピックの4×100mリレーメンバーに選出された。大きな目標を叶(かな)えられた喜びは大きかったが、それ以上に「それまでの実績を考えると、9秒台や10秒0台を持つ他のメンバーに、10秒19の自分が入ってやれるのか」という大きな不安が圧し掛かっていた。まもなくオリンピックが開幕し、8月5日のリレー本番を前にした1日、4人のオーダーがチームに伝えられたが、そこにデーデーの名前はなかった。

五輪本番では最後の最後まで走るメンバーと練習をともにした(日本陸連提供)

「メンバーに入るのは厳しいと思ってはいましたが、外れると聞いたときに思った以上に悔しかったので、心の中では期待していたんだなと感じました」

そこからバックアップメンバーとして、リレーメンバーと練習をともにし、本番もウォーミングアップまで一緒に行って送り出してから、観客席でレースを見守った。日本チームは無事に予選を通過したが、日本中が金メダル獲得を期待して見守った6日の決勝は、1走の多田から山縣へのバトンパスがうまく渡らず、まさかの失格。その光景を目の当たりにしたデーデーは、「何も言えなかった。茫然(ぼうぜん)とするだけでした」と、チームの一員として無念の思いに駆られた。

それから約1カ月後に出場した日本インカレでも、デーデーは悔しい思いを味わうことになる。100m予選で、スタートしたものの、腸腰筋の肉離れでレース中盤から全力疾走ができず、最下位に終わった。大会前から違和感があったにもかかわらず出場を決めたのは、「4年生で最後のインカレでしたし、去年の大会は2位だったので、何とか(1位に)チャレンジしたかった」からだった。

最後の日本インカレは悔しい結果となってしまったが、「楽しかった大学生活」と振り返る(撮影・藤井みさ)

大学4年間の戦いを終えた今、「いろいろなことを吸収し、たくさんの新しい体験ができました。最後の日本インカレは心残りですし、辛(つら)い時期もたくさんあったけれど、チームのみんなと乗り越えてきて、楽しかった大学生活でした」と清々しい表情を浮かべる。だが、デーデーの戦いはこれからも続く。

「オリンピックが終わって、来年の世界選手権で走りたいという思いが強まりました。来年はシーズン序盤から仕上げて、今年のもう1つ先を行くような活躍、日本選手権では決勝に残って当たり前と言われるような活躍をして、オレゴン世界選手権では個人の100mに出場できるようにやっていきたい。タイムはまずは10秒0台、そこをクリアできたら9秒台を目指していきたいです」

来季、そして3年後のパリオリンピックを見据えて、デーデーはすでに厳しい冬季練習を開始している。

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