陸上・駅伝

特集:第33回出雲駅伝

國學院大・平林清澄 駅伝に魅せられた「大学史上最強ルーキー」の素顔

平林の言葉のはしばしからは、「走るのが楽しくてしょうがない」という気持ちが伝わってきた(すべて撮影・藤井みさ)

10月10日の出雲駅伝では、関東勢10校の中でただ一人、1年生で最長区間のアンカーを担った國學院大學の平林清澄(美方)。最終盤にやや失速し、順位を落としたものの、鋭い眼差しで前を見据えつつ、積極的にピッチを刻む走りは大いなる可能性を感じさせるものだった。「國學院大史上最強ルーキー」との呼び声も高い平林の素顔に迫った。

駅伝にすべてを注いだ高校時代

陸上の競技者だった両親の影響もあって、小学1年生から市民マラソン大会に参加していた平林。武生第五中は全校生徒が30数名と小さく、部活動にはバドミントンと卓球しかなかった。「体力がつくかな」という理由でバドミントンを選んだが、陸上の大会にも「体育の先生に付き添いをしてもらって出場していた」という。

3年生の時、寄せ集めのメンバーで出場した地区大会で、駅伝の魅力を知った。「自分は1区で2位でしたが、そこで襷(たすき)が渡った喜びが忘れられません。自分がつないだ襷がちゃんと帰ってきたのが嬉(うれ)しくて、駅伝っていいなと。夏に県の強化合宿に呼ばれたりもしていて、美方高校の堀真浩先生に声をかけてもらったので、せっかくやるなら県トップのチームで駅伝を頑張りたい、と思って高校を決めました」

ただ、意気込んで駅伝部に入部した美方高校では、20数名いた部員の中で平林の持ちタイムは下から2番目。同学年には3000mで8分台を持つ廣瀬啓伍(現・麗澤大)や田鳥創太(現・関西学大)ら、学年別で県内トップ3の2人がいた。そこで平林は「2人に勝ちたい。1年生から高校駅伝に出たいと思い、死ぬ気でずっと練習しました」と振り返る。

「7月の記録会まで僕は練習しますと言って、みんなが大会に出ている間も1人でサブトラックでポイント練習をしたりしていたら、記録会で8分台を出せた。夏は怪我もありましたが、9月に初めて挑戦した5000mで15分11秒29で走れました」

高校時代は県駅伝、都大路がすべての目標だったと話す

自身が「その頃から覚醒した」と言うように、走るたびに記録を更新した平林は、県高校駅伝、そして全国高校駅伝のメンバー入りを果たす。初の都大路は「全国は広い。レベルが違う」と思い知らされたものの、それを知ったこと自体が大きな収穫となった。

高校2年の5月、福井県選手権5000mを制した後、堀先生から「エースとしての自覚を持て」と叱られた。後続の選手を気にして、レース中に何度も後ろを振り返ったことを指摘されたのだ。それをきっかけに平林は「エースって何だろう」と考え、大会でも「他校のエースを観察するようになった」という。練習でも「自分がやらないといけない」という意識が芽生え、チームメートを積極的に引っ張り始めた。その結果、走力もレベルアップし、5000mは北信越大会を日本人トップの3位で通過し、沖縄インターハイに出場。秋には県高校新人を制した。駅伝では県大会で敦賀気比に敗れて「大号泣した」が、記念大会による増枠で北信越地区代表として都大路に駒を進め、エース区間の1区で奮闘した。

しかし、高校最後のシーズンは、コロナ禍でインターハイが中止となり、駅伝は県大会で再び敗れ、全国の舞台に立つことさえができなかった。「都大路の日は寮の大掃除で、スマートフォンで流していた中継映像をまともに見れなかった。『何で俺はこんなところで掃除しているんだろう』と思うと悔しくて泣けてきた。モップで拭いたところが涙で濡れていました」。駅伝に燃え、駅伝に泣いた高校3年間だった。

入学後すぐに13分台&28分台をマーク

今春、平林は國學院大に入学した。高校2年頃から勧誘の話はあったというが、「この大学で頑張りたい」という思いを決定づけたのは、2019年の出雲駅伝をテレビで見た時だった。アンカーの土方英和(現・Honda)が4位からの大逆転で國學院大を3大駅伝初優勝に導いたレースだ。「高校までは自分のことで精一杯で、正直、3大駅伝を最初から最後までしっかり見たのは、あの時が初めてでした。土方さんが抜くシーンで、『すげぇ』と鳥肌が立ちました」

高校でもそうだったように、平林は大学でも「とにかく駅伝で活躍したい」という思いが強い。5000mが14分03秒41と、1年生の中では2番目のタイムでチームに加入したが、「同学年でも僕以上の実績がある選手は多いですし、自分はまだ全然強くない。でも、藤木(宏太、4年、北海道栄)さんや中西(大翔、3年、金沢龍谷)さんなど、土方さんの代を知っている先輩たちを目標にやっていく」と、力強く大学生活のスタートを切った。

1年目の目標は、5000mで13分台と10000mで28分台を出すことだった。そして、10000m初挑戦の機会は、早くも4月下旬の日体大長距離競技会で訪れたが、「高校では試合2日前からやっていた調整を1週間前から行ってしっかり準備し、序盤に突っ込んで後半に失速することが多かったレース展開も、前田(康弘)監督のアドバイス通り、後ろから上がっていく進め方をした」ところ、チーム歴代7位の28分38秒88をマーク。その10日後には、5000mでも自身初の13分台となる13分55秒30をたたき出し、走るたびに自信が膨らんだ。

6月の全日本大学駅伝関東地区選考会でも、積極的なレースを展開した

平林の快進撃は、なおも続く。6月の全日本大学駅伝関東学連選考会では、チーム唯一の1年生として第3組に出場し、積極的なレースを展開した。8000m過ぎに抜け出し、最後の直線で中央学院大学の2人にかわされた点を「あそこはトップを取らないといけなかった。ラストの課題が出てしまいました」と反省するものの、堂々の組3位でチームの総合2位通過に大きく貢献した。7月のホクレンディスタンスチャレンジ網走大会でも満足のいく内容ではないながら、10000mで28分38秒26と自己記録を更新し、4月の走りが決してフロックではなかったことを証明。もはや平林は、期待のルーキーという以上に、チームに欠かせない主力に成長しつつある中で夏合宿に入っていった。

「コンディションを整えて臨めば十分に戦える」

平林は「大学での練習が楽しくて仕方ない」と話す。「高校では2年生になってから力的に僕が一番上で、練習の質は僕が余裕を持ってできるぐらいの水準でした。だからポイント練習でも、ラスト1本は一人で上げますとか、みんなとやった後に1本追加するとか、何秒か後ろからスタートして追いつきます、という感じでした。でも、國學院大では自分より高水準のレベルで練習ができる。ついていけるか、離れるかというギリギリのライン。いつもワクワクして臨んでいますし、できると確信した時が嬉しい。もう中毒とか依存症という感じです(笑)」

くるくるとよく動く表情も平林の魅力のひとつだと感じた

他の1年生3人とともにAチームで参加した夏合宿は、「距離を踏むことと、あまりたくさん食べられないタイプなので、しっかり食べて内臓を強化すること」をテーマに掲げた。目安は月間1000kmだったが、「細かく計算しているわけではなく、毎回の練習でできることをやっていれば1000kmは行くはず」と考えていたという。合宿序盤の30km走では、「エネルギー切れでタレてしまった」ものの、そこで改めて「一つひとつのメニューをしっかりこなす」という意識にシフトチェンジすることで、その後の合宿を乗り切り、大きな手応えもつかんだ。

前田監督から「出雲駅伝はアンカーで行く」と告げられたのは夏合宿中だった。それからはそのことを念頭に置いて練習に取り組んだが、大会が近づくにつれてプレッシャーも感じるようになったと明かす。「憧れの土方さんが担ったアンカーを任されて、すごく嬉しかった部分もありますが、どこかで『土方さんのように走らないといけない』と気負っていたのかなと。監督からも『自分のできることをやればいい』と言われていました」

出雲駅伝当日。中継所を飛び出した平林は、自分の走りに集中できたという。「僕の中では前半はあまり突っ込んだという感じではなかったですけど、良い感じに進んでいった」と話す通り、序盤で前を行く2位の東洋大学・柏優吾(3年、豊川)を捉える。しかし、「暑さと風があったことを見誤ったというか、環境に適応する力がまだまだなかった」とラスト600mで青山学院大学の横田俊吾(3年、学法石川)に、ゴール手前で柏に抜かれ、4位でフィニッシュ。「悔しいのひと言に尽きます」と唇をかんだ。それでも1年生らしい思い切りの良い走りは、見る者に清々しい印象を抱かせた。

悔しさが残った初めての大学駅伝。だからこそここから強くなる

間近に迫る全日本大学駅伝と年始の箱根駅伝に向けて、平林は「出雲を走らせてもらって、コンディションを整えて臨めば、十分に戦えることがわかりました。全日本と箱根でも自分のできることを精一杯やりたいです」と前を見据える。各区間の距離が全日本は1区以外は10km以上に、箱根は20km以上になるが、距離に対する不安はない。「距離が延びるということは未知の領域に入ること。これまで3000mから5000mに延びた時も、10000mを初めて走った時も楽しみでしかありませんでした」。駅伝が好きで好きでたまらない。平林の表情からはそんな思いが見て取れた。

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