ラグビー

36年前の門前払い、「ラグビーを好きにさせているか」恩師・日比野弘さんの教え

岡本武司さんが鉛筆で描いた日比野弘さん(岡本さん提供)

36年前の冬、卒業を控えたはずの早稲田大学競走部キャプテンは約束もせず、畑違いのラグビー部寮に当時の日比野弘監督を訪ねた。
「ラグビー部に入部させていただきたいです」

けげんそうな日比野監督が聞き返した。
「お前、何年だ?」
「4年です」
「就職はどうした?」
「青年海外協力隊の話で進んでいます」
「親がどんな気持ちで大学にやったと思っているんだ。頭を冷やせ」

兵庫県立明石城西高校の岡本武司教諭(59)と恩師の交流は、門前払いから始まる。11月14日、日本代表監督などを歴任しラグビー界を牽引(けんいん)してきた日比野弘さんが亡くなった。86歳。直接の指導は1年足らず。それでも、その後の人生に大きな影響を受けた教え子が指導者、教育者としての日比野さんをしのぶ。

陸上競技から卒業間近、異例の転向

早大の体育施設が集まる西武新宿線の東伏見駅前にサラリーマンや体育会学生でにぎわう「ホルモン」という居酒屋があった。岡本さんが競走部仲間で談笑しいると、隣のラグビー部員たちの会話が聞こえてきた。「試合前、命なんてどうなってもいいと思う瞬間がある」。青臭い会話だな、と思った。

1985年の正月、早大は第61回箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)で往路と総合で2連覇を達成した。十種競技の選手だった岡本さんは競走部主将として様々な形で駅伝チームをサポートした。

1985年の箱根駅伝で早大は総合2連覇、ゴールインする豊福嘉弘(撮影・朝日新聞社)

「よかったら見に行ってよ」。一段落した時、教育学部同期のラグビー部員から全国大学選手権の自由席券をもらった。加古川西高から上京して陸上一筋、初めて国立競技場へラグビーを見に行った。開始2時間前なのに、満員で空席がみつからなかった。旧国立のバックスタンド最上部、聖火台近くの通路に座るしかなかった。試合直前、選手が少し低くなった薄暗い控え場所からグラウンドに飛び出してきた。大歓声に競技場は揺れた。居酒屋のラグビー部員の言葉が腑(ふ)に落ちた。「単純にやりたいと思った」。すぐ行動に移す。日比野監督に門前払いされたのは、その直後だった。

岡本さんは兵庫県の実家へ帰省し両親にお願いした。「2年留年し、ラグビーをやらせてほしい」。穏やかな父が顔を赤くして怒った。「勘当」という言葉も出た。「迷惑をかけないから、好きにさせてくれ」。翌日、家を出た。

東伏見に戻って、再び日比野監督を訪ねて言った。
「両親も納得してくれたので、入部させてください」

しばらくの沈黙。岡本さんには気まずい時間が流れ、日比野監督が口を開いた。
「結論から言おう。可能だ。ただし、1年生扱い。4月まで待つ必要はない。明日から来い」

22歳の新人、濃密な1年

22歳の新人は、新1年生より一足先に練習に加わった。当時、1年生には様々は「仕事」があった。岡本さんも特別扱いはされず、「マシン係」として練習前、タックルバックなどを運んだ。新人はグラウンドをぐるぐると走らされた。「何周って言ってくれないから、しんどいんですよ」。1人、2人とやめていった。やり投げ(旧規格)で70m90と早大歴代2位の記録を持ち、体力に自信があった岡本さんも気がめいりそうになった。

身長181cm、体重82kgだった岡本さんはFWで頑張った。春の練習を乗り越え、長野・菅平での夏合宿を終えた時、1年生が集められた。「山を下りたら寿司屋にいこう」。日比野監督が特に頑張った選手たちの名前を挙げ始めた。5人目だったか、最後に岡本さんの名前も呼ばれた。「小学生みたいに『やったー』と喜んで……」

日比野監督の指導は決して声を荒らげなかった。「司令塔」と呼ばれたグラウンドを見渡す少し高い位置から拡声機を手に「岡本、ナイスタックルー」と声をかける。先輩たちの試合を見ていると「指導者が怒鳴る時があるだろう。ああいうのは恥ずかしいと思わないと」など話しかけられた。曲がったことや反則ぎりぎりの汚いプレーを嫌った。技術がない岡本さんは、愚直に密集に突っ込みタックルを繰り返すことで教えを体現しようとした。
部員たちは当時50歳の日比野監督を親しみを込めて「ひびじー」と呼び、オールドルーキーの岡本さんも「おかじー」と呼ばれた。

日比野弘さん(2005年、撮影・朝日新聞社)

教師になって35年目の岡本さんは「日比野魂を受け継いでいます」と言う。ラグビー部の指導では夏合宿でMVPを表彰し、選手のよさを引き出すような声かけを心がけた。恩師から学んだ目の前のプレー、一つのことに打ち込む大切さを伝えてきた。

英国への研修留学が決まっていた日比野監督は1985年度で退任し、監督と選手の関係は1年間だった。
最後と決めていた2年目、岡本は先発の座をつかむ。関東大学対抗戦の開幕戦と2試合目にロックで出場。日比野監督の後を継いだ故・木本建治監督が、素人でも骨惜しみをしない岡本さんのプレーを高く評価した。シーズン後半は控えに回ったが、ラグビーにのめり込むきっかけの国立競技場での試合も早明戦などでメンバー入り。大歓声が渦巻くグラウンドへ駆け出した興奮は今も忘れない。
岡本さんの活躍をロンドンで知った日比野さんの喜びはひとしおだった。

ラグビーを始めて2年目に東大戦など公式戦にも出場した(岡本さん提供)

卒業後、兵庫県の教員になった岡本さんはラグビー部がなかった初任校の生野高ではラグビー愛好会を作った。母校の加古川西高などでラグビー部を任された。多忙で日比野さんと会う機会は数えるほどだったが、折に触れ連絡を取り、結婚の時は仲人をお願いした。

来る者は拒まずに救われ

岡本さんが早大ラグビー部に入った当時、一つのグラウンドで練習する部員数は限界で、入部を規制する動きがあったと後から知った。日比野さんの「来る者は拒まず」の考えに救われた形だった。岡本さんの教え子が関東のラグビー強豪校に入学できたのに、入部を断られたことがあった。岡本さんはすぐ監督に手紙を書き、「ワンプレーでいいので見てやってください」とお願い、何とか入部にこぎつけた。

岡本さんも日比野さんと出会った時の恩師の年齢50歳を超えた。たまたま見た鉛筆画展で心を動かされた。絵心はなかったが、ラグビーと同じように直感で鉛筆画を習い始めた。初めて描く人物画は日比野さんと決めていた。2018年、恩師に相談すると複数の写真が送られてきた。思い出の菅平で撮影された1枚を元に少しでも恩を返せればと必死に描いた。4カ月ほどかかった。
郵送されてきた絵を見た日比野さんは、教え子の思わぬ才能に驚き、大切にした。

完成した日比野さんの絵を持つ岡本さん(本人提供)

この11月26日から東京・国立新美術館で開かれる展示会に、陸上競技を題材にした岡本さんの鉛筆画が初めて飾られる。今月に入り、吉報を届けようと横浜に住む日比野さんへはがきを送った。筆まめな恩師から返信はなかった。

「(生徒たちを)ラグビーを好きにさせているか?」

何年か前、電話口で日比野さんからもらった言葉が心に残る。指導する明石城西高のラグビー部はこの秋、最後の全国大会予選を合同チームで戦った。3年生の引退とともに1人だった2年生もやめ、部員はゼロになった。岡本さんにとって初めての経験だ。少子化もあり高校ラグビーは強豪とその他で二極化が進む。

あきらめるわけにはいかない。だ円球の魅力を伝え、ラグビーを愛する若者を一人でも増やすことが、恩送りだから。

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