早大で日本一3度「やばいっす」連呼の訳、九州産大女子ラグビー部監督・豊田将万2
2021年4月から九州産業大学女子ラグビー部の指揮官に就任した豊田将万(まさかず)監督(35)。選手時代はやはり早稲田大学での印象が強い。1年生の時からFL(フランカー)やNo.8(ナンバーエイト)として活躍し日本選手権でのトヨタ自動車撃破(05年度)に貢献しただけでなく、1、3、4年時に全国大学選手権優勝を経験し、特に4年生の時はキャプテンも務めた。連載の2回目は清宮克幸、中竹竜二両監督の指導を受けた早大時代も振り返ってもらった。
バスケットでも才能
3歳から福岡の「かしいヤングラガーズ」で競技を始めた。スクール時代の成績は芳しいものではなかったが、身体能力は高く、箱崎青松中学校時代はバスケットボール部にも所属し、堤啓士朗、寒竹隼人、山下泰弘といった後のBリーガーとともに福岡県選抜にも選ばれるほどの実力だった。
バスケ強豪校の福岡大大濠高や福岡第一高からも誘われたが、豊田は「中学校時代は弱かったですが、高校では強いところでラグビーがしたい」と東福岡高に進学した。中学3年生の時、東福岡が「花園」こと全国高校ラグビー大会(01年度)の決勝(●17-50啓光学園=現・常翔啓光学園)に初めて進出した姿を目の当たりにしたことが大きかった。
東福岡高時代は監督代行だった川内鉄心氏、現在、監督を務める藤田雄一郎コーチ、ニュージーランド留学から帰ってきた谷崎重幸監督(現・新潟食料農業大学監督)の指導を受けた。1年生の時からレギュラークラスとして試合に出場して全国大会の準優勝に貢献、2年生の時とキャプテンを務めた3年生の時もベスト8という成績を収めた。
「藤田先生には大きいだけの選手でしたが我慢して指導して頂いて、(川内)鉄心さんには積み重ねの大事さを教えてもらい上達の道に導いてもらい、谷崎先生にはニュージーランドスタイルでのびのびとラグビーができた。まだ、土のグラウンドでしたし厳しいこともありましたが、いろんな指導者に出会えた、充実した3年間でした」(豊田)
清宮監督に誘われ早大へ
東福岡高からは法政大学や同志社大学に進学する選手が多く、豊田は漠然と「そういったところに進学できればいいかな」と思っていた。ただ2年生の時、サニックスワールドユースでバックスのFB(フルバック)としてプレーしていた姿を見た早大の清宮監督に声をかけられたという。「まさか早稲田大学に行けるとは思っていなかったので、最初は誘われている認識はなかったです(苦笑)」
晴れて早大スポーツ科学部に合格し、練習に参加すると清宮ラグビーに衝撃を受けたという。「東福岡もある程度、システムがあったが、早稲田では細部までいき渡っているシステムがあって、その通りにすればトライになると腑(ふ)に落ちる内容ばかりでした。たまたま1年生から使ってもらいましたが、システムを覚えるのが必死で、余裕はなかった」
1年生の時は佐々木隆道(現キヤノンコーチ)がキャプテンの代で、関東学院大学に41-5で快勝し、大学日本一に輝いた。「ラインアウトのキャッチとボールを持って前に出ることしかやっていなかった。自分ができていない部分は隆道さん、ジャガーさん(松本允)に助けられていて、2人甘えていました」
さらに続く日本選手権では「清宮マジック」を実感する。社会人には何度か出稽古していて豊田は「僕のアタックも通用していなかったし、社会人とはやりたくなかった」と話す。ただ、清宮監督が丁寧に落とし込みや佐々木主将のキャプテンシーもあり、トヨタ自動車と対戦する3日前にはチームとして「絶対勝てる!」と思うようになっていたという。
清宮監督の指示通りにプレーするとアタック、ディフェンス、ラインアウトは社会人相手に通用し、劣勢と予想していたスクラムも後半、通常通りの組み方に戻したほどだった。「本当に衝撃でした。清宮マジックでしたね! 清宮監督も4年生もすごかった。この試合ほど秩父宮ラグビー場が揺れたことはなかったです。今、思い出しても鳥肌が立つくらい。鮮明に覚えています!」と今でも興奮した面持ちで話した。
自主性尊重、キャプテンに
翌年からの3年間、豊田は中竹監督に指導を受けた。清宮監督がトップダウンで監督自ら引っ張るスタイルだったが、中竹監督は自主性を重んじるスタイルで、選手たち自身で考えてというスタンスだった。2年生の時は大学選手権の決勝で関東学院大に敗れて準優勝に終わる。豊田は「中竹監督のことを就任当初はなめていましたね。最初の頃は、あまり話せていなかった。2年時は試合には出させてもらっていましたが、チームにも貢献できず、そのときの4年生に申し訳なかったですね」と悔しそうな表情を見せた。
3年になると、最上級生はLO(ロック)権丈太郎キャプテン、FB五郎丸歩、PR(プロップ)畠山健介の代だった。「負けからスタートだったので、チームみんなでどういうラグビーをするか考えて、中竹監督もFWで勝つというスタンスをハッキリ言ってくれた。僕も『このままじゃダメだ』と心を入れ替えて臨みました」。決勝では慶應義塾大学に勝利し、再び大学王者に輝いた。
そして4年で豊田はキャプテンに指名された。啓光学園高出身のFL上田一貴やNECでプレーしているPR瀧澤直ら他にもキャプテンができる選手がいたので、「正直、キャプテンになるとは思っていなかった」という。
ただ、豊田主将の代は関東大学ラグビー対抗戦で帝京大、明治大に敗れるなどなかなか波に乗れなかった。豊田は「キャプテンという仕事自体は大変ではなかったですが、早稲田大学は優勝して当たり前。隆道さんや権丈さんは、こういう重圧と戦っていたのかと……。対抗戦で2敗して、解決方法が見つからなくて苦しみました。逃げたくなる感じで、寝られない日もありました」と振り返った。
重圧から解き放たれ「やばいっす」
大学選手権の1回戦で関東学院大に勝利し波に乗った早大は、決勝で豊田主将が2トライを挙げる活躍もあり帝京大学に20-10で対抗戦のリベンジを達成し連覇を達成した。優勝直後のインタビューで、アナウンサーの質問に対して豊田主将は「やばいっす」を連発してしまう。
「優勝しないと弱いと言われる」早大、そして決勝のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた豊田主将は「4年生の時はどの試合後もホッした感情しか湧かなかった。あとあと相手に配慮がなかったと反省しましたが、ただ当時、決勝が終わって他のことなどどうでもよくなってしまった。開放感、終わったという気持ちが強かったんです」と正直に吐露した。
豊田に大学時代、一番、印象に残っている試合を聞くと、意外な答えが返ってきた。勝利した試合ではなく、3年生の時の日本選手権での東芝に負けた試合だった。前半は5-21で折り返し、自身も2トライと気を吐いたが、24-47で敗れて2年前にトヨタを破った再現はならなかった。
「1年時のトヨタ自動車に勝った試合は自分の役割に集中していて、勝てる、勝てないという手応えはなかった。ただ3年時、東芝戦は、真っ正面から社会人と戦い、局面では負けておらず、負けるはずがない試合でしたが、見返すと廣瀬俊朗さんがキャプテンの東芝は試合巧者でした。そこがなおさら悔しくてよく覚えています」(豊田)
豊田は4年生の時こそ苦しんだが、終わってみれば大学選手権で優勝3度、準優勝1度という輝かしい成績を収め、さらにU21日本代表、セブンズ日本代表などで国際舞台も経験するなど大きく成長した4年間となった。
卒業後の進路として選んだのは、決して強豪ではなかった地元・福岡のチームだった。