アメフト

特集:駆け抜けた4years.2022

同志社大DL・富田龍之介「アメフトをやめたい」とまで思った大けがも乗り越えて

富田は大けがを乗り越え、ラストイヤーの秋に復帰した

昨秋、同志社大学ワイルドローバーは関西学生リーグ1部Bブロックで1勝2敗し、5位決定戦へと進んだ。神戸大学との5位決定戦には10-22で敗れたものの、10年連続で出場していた入れ替え戦を回避。スローガンに掲げた「change」の通り、歴史を塗り替えた。なかでも富田龍之介(4年、佼成学園)の活躍が光った。

富田はラストシーズン、ディフェンスライン(DL)として同志社大のディフェンスを引っ張った。秋季リーグ3戦目の京都大学戦では何度もクォーターバック(QB)サックやロスタックルを決め、攻撃を阻止。京大オフェンスを封じ込め、確実にオフェンスへとつないだ。13-10で第4クオーター(Q)残り1分になると、京大が最後の反撃に出た。ノーハドルを用いたテンポのいい攻撃で自陣まで攻め込まれ、窮地に立たされる。だが、富田が京大QBに向かって力強いタックルを決めた。相手QBはボールを落とし、そのボールを主将・髙島瑞生(4年、同志社国際)がリカバー。最後は同志社オフェンスが時間を使い切り、試合が終了した。富田のタックルが勝利を引き寄せ、悲願とも言える入れ替え戦回避を成し遂げた。

日本一のチームに挑むために同志社大へ

富田が同志社大のアメフト部に入部したきっかけは、高校の先輩である影山勉(現アサヒビールシルバースター)に誘われたからだ。「自分の技術やプレーがどれだけ関西の1部リーグで通用するのか知りたかった」。関西学院大学や立命館大学といった日本一のチームに挑みたいという思いから同志社大への入学を決めた。

高校時代の先輩に誘われて同志社大に進み、体作りから始めた(右が富田)

試合に出場するようになったのは2年生の頃。下級生の頃は、体を鍛えることに精一杯でアメフトに集中できない日々が続いた。徐々に体が大きくなるにつれてプレー中に相手を分析できる余裕ができ、3年生ではスターティングメンバーとして出場できるまでに成長した。

「秋はお前がいないと勝てない」と言われて奮起

順調に力をつけていた富田だったが、試練が訪れる。3年生の最終戦である京大戦で前十字靭帯(じんたい)を断裂。高校2年生の時にも同じ怪我(けが)を経験しており、その時は1年間アメフトができなかった。「試合の翌日に病院に行って診断を受けた時には正直アメフトを辞(や)めたくなりました」

競技へのやる気が起きず、練習に身が入らない日々が続いた。そんな時に声をかけてくれたのが主将の髙島とクオリティーコントロール(QC)の板野彰人(4年、広島城北)だった。「『秋はお前がいないと勝てない』と言われ、自分が必要とされていることを知った。そこから京大にリベンジしてやるという気持ちが起きて、またアメフトに熱が入った」

気持ちを切り替えリハビリに励み、4年生の秋シーズンに復帰。京大戦にも間に合った。誰よりも強い気持ちで挑んだ京大戦では、力強いタックルを何度も見せ、チームを勝利へと導いた。試合後、富田は「めっちゃ嬉(うれ)しいです。一生忘れない思い出となりました」と笑顔で語った。

富田(91番)は誰よりも強い気持ちで京大戦に挑み、力強いタックルで勝利に貢献した

大学4年間は「家族のおかげです」

大学でのアメフト生活を振り返り富田は話した。「4年間アメフトを続けられたのは、家族のおかげです。1人で関西に行くことに反対せずに支援してくれた両親に試合で活躍して恩返しをしたいと思ったから頑張れました」。4年間、彼を支え続けたのは、家族の存在だった。4年生のラストシーズンには、関東から試合を見に関西まで足を運び、両親が最後まで見守り続けた。リベンジへの思いや、家族への恩返し。様々な思いが富田を突き動かし、大きく成長させてくれた。

家族への感謝を胸に、これからもアメフトと向き合っていく

大学卒業後も富田はアメフトを続け、「負けたままでは終われないです」と闘志を燃やしている。続けて、「将来は母校に戻ってコーチとして貢献したいです。母校がクリスマスボウルで負ける姿を見て悔しかった。次はコーチとして日本一になりたいと思いました」

大学で叶(かな)えられなかった日本一を今度こそ。熱き男はこれからも前に進み続ける。

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