ラグビー

特集:駆け抜けた4years.2022

同志社大初の共同主将・田村魁世 両親への恩返しのため、誰よりも努力し続けた4年間

同志社大学のSH田村魁世。伝統校で初の共同主将としてチームを引っ張った(撮影・同志社スポーツアトム)

ラグビーは「自分自身を1番成長させてくれるもの」。そう語ったのは共同主将として、1年間紺グレの陣頭に立ったスクラムハーフ(SH)田村魁世(4年、桐蔭学園)。高校3年間、花園(全国高校大会)の舞台を経験した実力者だった彼は、入学前から注目される選手だった。高校の同期は全国大学選手権を制した帝京大学のプロップ細木康太郎主将らタレントぞろい。多くの選手が関東のラグビー名門校に進む中、将来を見据えて選んだ同志社大学への進学が彼自身を大きく成長させた。誰よりも努力し、フィールドに立ち続けた田村の4年間を振り返る。

恩返しを誓った高校時代

田村は6歳のとき、ラグビー好きの父の影響で競技を始めた。当初ラグビーに魅力を感じなかったが、1年間野球を経験したことでラグビーの面白さに気づく。「全然スポーツをやっている感じがなくて」。体の動きが少ない野球が物足りず、徐々に人とボールが動き続けるラグビーの虜(とりこ)になった。

大きな転機が訪れたのは、中学3年生のとき。「高いレベルでラグビーがしたい」という思いから、強豪チームである横浜ラグビースクールに移籍を決断。そこではじめて全国の舞台を経験する。中学日本一を決める太陽生命カップ2014で優勝を成し遂げた。「そこがここまでラグビーを続けてきたターニングポイントかなと思います」。次のカテゴリーでも「日本一」を勝ち取りたい。優勝の味を噛(か)み締めラグビーに対する熱は、より一層高まった。

桐蔭学園高校3年の時は全国高校大会準決勝で大阪桐蔭に敗れた(撮影・小林一茂)

太陽生命カップでの活躍もあり、高校ラグビー界の名門である桐蔭学園高から声がかかった。実家からは片道2時間半の道のり。寮もあったが、成長期だったこともあって往復5時間かけて通学することを決めた。その時、父親が転勤で単身赴任に。母親が田村を支えてくれた。毎朝6時の電車に乗り、最寄り駅に帰り着くのは23時ごろ。3年間、送迎してくれ、弁当を持たせてくれた。また、父も試合会場に駆けつけ頻繁に相談に乗ってくれたという。「ずっと親に支えられてきたので、活躍して恩返ししたい」。ラグビーで結果を残して、両親に感謝の気持ちを届ける。その思いは今も変わっていない。

努力に勝る天才なし

「文武両道ができる大学で関西のラグビーを盛り上げたい」という思いから同志社への進学を決めた田村。しかし、入学後はすぐに肩の怪我(けが)により長期離脱を余儀なくされる。一方、同期のウィング和田悠一郎(4年、東海大仰星)は1年生からAチームの試合で活躍。常に最前線で活躍してきた田村にとっては苦しいシーズンだったが、焦らずリハビリに励んだ。

座右の銘は「努力に勝る天才なし」。復帰後は高校時代からこだわり続けてきた練習量を武器に、ひたむきに踏ん張った。「いくらスキルがあってスペックが高いメンバーがいたとしても、貪欲(どんよく)に毎日努力して積み重ねていったら、そういう高いレベルの人たちに勝てる」。ライバルとの競争の中で、1つしかないSHの座を勝ち取るために誰よりも自主練習に打ち込んだ。

その成果はすぐに表れた。和田やセンター稲吉渓太(4年、東福岡)らとともに、U20日本代表に選出された。「本当に僕でいいのかなという感じだった」と話すが、この経験がさらに田村を成長させる。「オフフィールド、ラグビー以外の意識の高さに驚いた」。海外への遠征や大会を通して、周りの選手の意識の高さを肌で感じ、自分を見つめ直すきっかけとなった。

SOの経験もあり試合をうまく組み立てた(撮影・同志社スポーツアトム)

日本代表で自信をつけた田村は、2年生から紺グレのスタメンに定着。本職のSHに加え、高校時代にも経験があったスタンドオフも務めた。「まずはチームが勝つことが優先」。SHで経験を積みたいという思いが大きかったが、チームの状況を考慮し司令塔を引き受けた。人羅奎太郎(現・花園)とハーフ団を形成し、同志社を2019、20年度の2年連続で大学選手権出場へと導いた。

誰もがショックを隠せなかった

20年12月、大学選手権に向けて練習していたある日、部内に衝撃が走る。「陽性者が出てしまった。」とヘッドコーチに告げられた。日本一を目指し、努力してきた選手たち。しかし、その夢は突然打ち砕かれた。チーム全員が新型コロナウイルスのPCR検査を受けた結果、複数の陽性者が確認され、「同志社大学が大学選手権の出場辞退」のニュースが報じられた。

「4回生には泣いているメンバーもいた」。最後に集大成を見せられない状況に田村自身も同情した。寮は閉鎖され、寮から提供される食事も停止。そんなときに支えてくれたのは、ファンやOBたちから届くメッセージと物資だった。連日、寮に届いた山積みの段ボール箱に感銘を受けた。「同志社ラグビー部が色々な方に応援していただいていると改めて感じた」。結果を残して必ず恩返しする。先輩たちの思いを継承し、心に誓った。

例年は学年の話し合いで決める主将も、今年はクラスターの影響でコーチ陣からの指名で決まった。3年生からリーダー陣のミーティングに参加していた田村は「びっくりしたとか驚きはなかった」という。ロック南光希(4年、東海大仰星)とともに創部初の共同主将に就任し、約170名の大所帯を率いる覚悟を決めてグラウンドに立った。

さらなる進化を遂げ王座奪還へ 同志社ラグビー部を引っ張る2人の新主将

田村には理想とするリーダーがいる。それは同志社大学ラグビー部OBで、かつて大学選手権3連覇に導いた平尾誠二氏だ。大学入学前、各カテゴリーでリーダーを務めてきた田村は平尾の本と出会い、リーダーに対する価値観が変わった。「自分が先頭に立って従わせるのではなく、色んな選手たちをうまく巻き込んで主体性を出していくのが本当のいいチームを作るリーダー像」。田村は、平尾が考えていた周りの選手をうまく生かす「フォロワーシップ」をチームの中に取り入れた。

時には大きな声を出しチームを鼓舞した(撮影・同志社スポーツアトム)

「同志社大学ラグビー部の日本一は目標ではなく、使命であり責任である」。関西リーグ優勝、王座奪還、日本一。長年遠ざかっている幾多の目標を託され、田村はラストイヤーを迎えた。昨年の大学選手権で天理大が優勝した試合をテレビで見た田村の闘志は熱く燃えていた。「天理を倒せば絶対に日本一になれる」。悔しさを忘れることなく、まずは関西王者・天理大を倒すためブレークダウンの強化に取り組んだ。

春のトーナメント戦、早速その練習の成果が出る。「まず試合ができることに感謝して、最後の試合だと思って臨もう」。どん底から這(は)い上がってきたチャレンジャー精神で、天理大との決勝へと勝ち進んだ。例年劣勢だった接点で相手を圧倒し、6年ぶりの白星。自分たちの取り組みが間違っていなかったことを証明する。しかし、田村はこの結果に満足することはなかった。「あくまでこれは通過点」。秋のリーグ戦で優勝し、「日本一」になることだけを考え気を引き締めた。

最後まで仲間とともに戦いたい

春の関西王者として臨んだ秋シーズン。しかし、厳しい現実を突きつけられる。リーグ序盤で近大に敗れ、もう負けが許されない中で挑んだ京産大戦。田村は肩の怪我で負傷退場を強いられ、チームも敗れた。本来であれば休んで手術する重傷だったが、田村は仲間と決めた目標を諦めたくなかった。「やっぱり主将という立場と4回生という集大成の立場で、このチームで結果を残したい、最後までこのチームをグランドに立って引っ張っていきたい」。試合に出られないときも精神的支柱として、選手たちに指示を与える姿があった。

2021年11月12日、同志社にとって嬉しいニュースが飛び込んできた。関西リーグから大学選手権への出場枠が4枠に。「元々3枠で出られない立場だったので奇跡」。田村がそう語るように、結果的に同志社に追い風となった。暫定4位だった天理大との最終節を前に選手権出場が決まり、日本一への挑戦権を獲得。だが、チームは天理大に春のリベンジを許し4位に転落した。満足のいく結果が出せないまま、大学選手権へ突入する形となった。

関西リーグ4位だったからこそ、「もうミラクルを起こそうぜ、みたいな感じだった」。大学1年生の時、仲間と誓った「日本一」。田村にとって大学最後の試合である大学選手権は帝京大に敗北を喫し、ベスト8で幕を閉じた。「本当の目標は日本一だったんですけど、東京で試合ができたっていうのはチームメートに感謝しかないです」と、ここまで共に戦った仲間への思いを口にした。 一方自身の気持ちについては、「この悔しさを絶対に忘れてはいけないし、これが次のステージ、社会人になっても活(い)きてくると思うので、この試合は絶対に忘れない」と負傷を抱えながら不完全燃焼で終わった選手権を振り返った。

全国大学選手権の帝京大戦でパスを出す。24-76で敗れた(撮影・西畑志朗)

「努力は絶対にしてほしいし、日本一になるには必ず努力が必要。人一番努力して練習することが日本一への一番の近道だと伝えたい」というメッセージを残し、4年間過ごした京田辺のグラウンドを後にした。
春からは社会人となり、新たな挑戦が始まる。「もう一段階ラグビープレイヤーとして成長できるようにしたい」。両親とお世話になった人への恩返しのために、卒業後も第一線で活躍する田村から目が離せない。

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