陸上・駅伝

上村純也、地元・栃木が活性化する陸上クラブを 山梨学院大での主将経験を糧に

上村(中央)は今年4月に陸上クラブチームを立ち上げ、新たな一歩を踏み出す(左は塩川、右は小林、写真は本人提供)

「自分を成長させてくれた4年間で、つらかったけど今でもあの時に戻りたいと思う」と上村純也(じゅんや、28)は大学4年間を振り返る。

山梨学院大学時代は箱根駅伝を4年連続で走り、大学卒業後は実業団のSUBARUへ。2019年に現役を引退してからは社業の傍ら、地元・栃木の陸上クラブチーム「石川走友会」でトレーニングコーチとして活動。今年4月からは「陸上を通じて栃木県を盛り上げていきたい」と、陸上クラブチーム「leap」を設立して活動する。「大学での主将の経験が今に生きている」と上村が話す大学4年間やその後について話を聞いた。

サッカー時代からコツコツ努力を積み重ね

上村は小3から中3までサッカーを経験。サッカーを始めた当時から「誰よりも強くなりたい」と、朝6時に起きては30分間壁当てをしてドリブルの練習をしていた。「強くなるには人一倍やるしかなかった」とコツコツと努力を積み重ねた。中学ではサイドバックでスピードを磨き、中3では50m6秒5の速さを身につけた。また中1から駅伝大会に出場し、長距離でも力をつけていく。その駅伝での走りが評価され、白鷗大足利高校(栃木)にスカウトされ、高校から陸上を本格的にやることを決意した。

入学してすぐに陸上の才能が開花する。1年目の10月に栃木県高校新人大会800mで優勝し、駅伝にも1年生から出場。チームの主力として活躍する。高3の時には1500mと5000mの2種目でインターハイに出場。1500mは16位、5000mは予選落ちに終わり、「緊張やプレッシャーに負けてしまい、不甲斐ない結果に終わってしまった」と全国での舞台の厳しさを痛感したという。

高3の時には初の都大路への出場に貢献した(前列左から3人目が上村、写真は本人提供)

その後の駅伝では躍動を見せた。全国高校駅伝(都大路)の予選となる県高校駅伝では1区区間2位、関東高校駅伝では3区区間2位とチームに貢献する走りで両大会とも優勝し、都大路初出場を決めた。「気を抜けば負ける選手がいたからこそ力がついた」と強くなれた要因を語った。そして都大路には初出場ながら6位入賞と健闘した。上村は「花の1区」を任され、区間20位。「1区は常にペースが乱れている状態で振り回されてしまった。冷静な走りができなかった」と苦しい思いを振り返った。

上田誠仁監督の優しさ触れ、山梨学院大へ

大学は山梨学院大に入学。きっかけは高3の関東高校競技会で5000m2位に入賞した時だった。視察に来ていた上田誠仁監督は上村のシューズがボロボロなのに気づき、「このシューズじゃ勝てないよ」と2週間後にマラソンシューズ3足を上村に贈ってくれたという。「上田監督の情のあるところに引かれて入学を決めた」と振り返る。また上村は母子家庭で、金銭的な理由で就職も考えていた。だが姉から「純だけでも好きなことをやってほしい」と一押しがあり、「家族のためにも誇れるものがほしい、そう考えた時に大きな舞台でもある箱根駅伝を走って恩返しをしたい」と覚悟を決めた。

すると上村はルーキーイヤーから関東インカレで1500mと5000mに出場し、全日本大学駅伝で3区を、夢の舞台でもある箱根駅伝でも4区を任された。だが箱根駅伝で山梨学院大は2区で途中棄権、襷(たすき)が途切れる。「頭が真っ白になってしまったが、気持ちを切り替えて走った」と振り返り、個人の走りに関しては「結果を残さないと意味がない、人一倍頑張るしかない」と勝つ意識が新たに芽生えた。1年目は「弱かったなって印象。トラックで結果を出してもロードではイコールにはならなかったと思った」と、満足のいくものではなかった。

チームの主力選手としてルーキーイヤーから活躍した(写真は本人提供)

箱根駅伝後、上村はオフの日でも毎日欠かさず朝練に取り組み、90分ジョグや20~25kmの距離走などと距離を踏んだ。2年目にはその成果が現れ、10000mは28分台へ。箱根駅伝予選会を総合4位で突破し、本戦では2年連続で4区に選ばれた。1、2区は20番での襷リレーとなったが、3区の井上大仁(現・三菱重工)が区間3位と快走し、順位を17位まで押し上げた。上村は「井上さんと襷リレーで笑顔を見た時に感動しました。その思いを持って走れた」と14位まで押し上げ、チームは9位でゴール。シード権獲得に貢献した。「次は区間一桁で走りたい」と目標を上げた。

3年生では学年の主任に任命され、10月には5000mで13分台へ。12月にも10000mで2度目の28分台をマークし、学生トップランナーのタイムをたたき出した。3年目の箱根駅伝では10区を走り、区間5位。「初めて箱根で満足した結果が出せました。でも区間3番を狙えた位置にいたので、そこは悔しさが大きいです」と初めて箱根駅伝で手応えを感じられた。

3年生での箱根駅伝では10区区間5位と好走した(写真は本人提供)

ラストイヤーは仲間の心強さと悔しさと

箱根駅伝での走りが評価され、4年生では主将を任された。「3年連続で箱根駅伝を走って、出る選手と出ない選手の温度差を感じた。全員で同じ方向を向いて練習に取り組まないと、チームの温度差はなくならない」と話し、1年生が掃除や買い出しを行っていたことを4年生が担当し、ミーティングでも下級生も意見が言えるようなフラットなチーム作りを心がけた。また上村は「練習や応援でも盛り上げたり、誰よりも走りました。自分よりもチームがプラスになることを考えて、全体を見て声掛けをしていました」とその背中を見て、チームの雰囲気も良くなっていったという。すると5月の関東インカレでは、大学過去最高のポイントを稼ぎ、チームの一体感が高まった。

しかし駅伝シーズンを前にした9月、上村はマイコプラズマ肺炎に感染し、約1カ月競技を離れることになった。「焦りはありましたが、補強や筋トレをして復帰に備えていた」と、ひたむきに取り組んだ。「自分がいない間は、副将の秦(将吾、大塚製薬)と主務がチームをまとめて頑張ってくれたので、感謝の気持ちでいっぱいです」とチーム全体で力を合わせていった。すると出雲駅伝2位、全日本大学駅伝3位とチームの成績も伸びていった。

上村は箱根駅伝前に復帰するも、直前にチームの選手が複数人インフルエンザに感染し、チームの状態は良くなかった。そして最後の箱根駅伝では4区を任され、区間16位に終わった。チームは17位でシード権を逃した。「力を出し切れず、期待に応えられなかったことがすごく悔しい。監督にも申し訳ない思いでいっぱいです」と悔しさをかみしめた。

主将として「結果を残せなかったことで、チームの役割を果たせなかった」と自分を責めた。だが最後お母さんに「お疲れさま。本当に頑張ったね」と言われた一言が嬉しかったという。「家族に対しての使命は果たせたかな」と大学4年間を振り返った。

実業団3年目で引退を決意

実業団は姉と兄が勤めていた縁もあり、SUBARUを選んだ。目標はオリンピック。大学までは人一倍やるという精神だったが、実業団に進んでからは筋トレの理論やスポーツ医学の論文を読むなど、専門性を追求していった。1年目の5月には東日本実業団選手権1500mで日本人3位。7月のホクレンディスタンス1500mで3分44秒66をマークし、日本選手権の標準記録を切った。だが2年目に出場した日本選手権1500mでは予選敗退。「入賞を狙っていましたので予選落ちは悔しかった。でも日本トップクラスと戦えたことは良かったです」

実業団時代はオリンピックを目標に練習に励んでいた(写真は本人提供)

その後は伸びやみ、「お金をもらっている立場で、結果を残せていない。このチームにいてはいけない」と実業団3年目で現役を引退した。実業団時代を「結果は残せない日々でしたが、学ぶ意識が増えて陸上の視野が広まりました」と振り返った。

石川走友会で芽生えた新たな夢

引退後は地元・栃木の陸上クラブチームである石川走友会の石川昌宏さんと縁があり、「石川監督には陸連の登録とかもしてもらい、その奥さんも人柄が良くて、面倒を見てもらっていて感謝の思いです」とトレーニングコーチとして活動している。「競技者よりも、楽しくやる。教えることが好きなのでそこで貢献できたら嬉しい」と目標を持ち取り組んでいる。

指導で気を付けていることは「伝えることよりも、伝わることを大切にしている」という。「コーチという立場で、指導が偏ってはいけない。バランスよくみんなに教えることを重視して伝わるように説明している」と意識がけを話した。指導の中でのエピソードとして体幹練習を教えた子が、1カ月後には体幹が入ってる動きになっていた、そのことに喜びを実感しているという。そして活動をする上で、「走友会で指導方法とか学んだことを経て、自分のやり方で新しいチームを作り、子どもたちの成長に携わりたい」と思うようになっていった。

石川監督(中央)とともに指導をする中で、上村(右)には新たな夢ができた(左は塩川、写真は本人提供)

地元・栃木で「陸上だけでなく人として成長できるように」

その思いを胸に今年4月、白鷗大足利高校時代の1つ下の後輩である塩川香弥さんと塩川と同い年の友人である小林淳輝さんの3人で陸上クラブチーム「leap」を結成する。

塩川は白鷗大足利高校時代から陸上を始め、上武大学で競技をし、現在は上村とともに石川走友会に所属している。「上村さんはさわやかイケメンで、みんなに優しいです。でも相手を思いやりすぎて言えない部分があると思うので、そこを自分で補えたらいいと思います。上村さんがいなければ、自分がいないと思っていて、尊敬している人でもあるので、一緒に栃木県を盛り上げていきたい」と話す。

小林は佐野東高校時代から陸上を始め、上武大学で競技をし、現在は石川走友会の練習にたまに参加しながら、栃木県の陸上クラブである「たぬまアスレチッククラブ」の駅伝部の監督を務めている。「陸上での指導の経験を生かして、上村さんの力になれればと思います。塩川は大学からの友人で、人生で大事な存在です。この3人で頑張っていきたいと思います。協力してくださる人がたくさんいるので、感謝を忘れずにやっていきたいです」を意気込んだ。

陸上を通して人の成長を促し、上村(中央)自身も更なる成長を目指す(写真提供・saya)

「leap」には飛躍の意味が込められている。栃木県を拠点で活動し、小中学生を対象に指導をしていくという。上村は「陸上だけでなく人として成長できるように育てていきたい。選手だけでなく、自分たちも成長していきたい。またOTT(大人のタイムトライアル)みたいな、TTT(栃木のタイムトライアル)のイベントを開催して、子どもから大人まで楽しめる地域活性化のイベントができたらいいです」と目標を語った。

上村は「大学での主将の時の全体を見る目であったり、モチベーションが上がるように声がけをしてきたことがいまの指導の原点だと思います」と大学時代の主将の経験が生きていると話す。「一人ではできなかった、いろんな人の支えがあって頑張れているので、感謝を忘れずにやっていきたい」と感謝を胸に新たな一歩を踏み出す。

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