野球

特集:2022年 大学球界のドラフト候補たち

本田健悟「松田を超えるぞ」を胸に 名古屋大2人目のプロ目指し、悲願の1部昇格へ

本田は2019年の松田に続く名古屋大2人目のプロ野球選手を目指している(撮影・松永早弥香)

2019年10月、松田亘哲(25)が中日ドラゴンズから指名を受け、名古屋大学初のプロ野球選手が誕生した。松田が「きっと『松田を超えるぞ』というぐらいでいると思う」と話していた1年生は4年生になり、そして今、最速151km右腕の本田健悟(明和)はまっすぐにプロを目指している。

名古屋大初のプロ・中日ドラゴンズ松田亘哲 後輩たちへ「松田を超えろ!」
左で最速148kmの名大・松田亘哲、高校はバレー部だった男がプロを目指す

高校でケガ、能力のなさにコンプレックスを感じ

愛知県春日井市出身の本田が野球を始めたのは保育園の年長の時。兄が野球の練習をしていたその端で、父とキャッチボールをしたのが始まりだった。小学校ではショートもやったが、ピッチャーの方が楽しかったという。小さい頃は地元・中日の川上憲伸さんの姿を必死に追いかけていた。自分もいつか……。そんな夢を抱いていたものの、中学校、高校と年齢が上がっていくにつれ、現実の厳しさを知らされた。

だが「野球が好き」という気持ちは変わらなかった。愛知県内屈指の公立進学校で野球も頑張っている、という理由で明和高校に進学。野球部では一人ひとりの意識が高く、考えて野球に取り組んでいる姿に刺激を受けた。

高校時代を振り返り、本田が真っ先に口にしたのは高2のケガだった。春に肘(ひじ)を痛めて2~3カ月野球ができず、その間に仲間との差がついたことに焦りを感じていた。シーズン中に復帰できたものの、肘をかばいながらの投球が続いた。高校では県大会2回戦が最高で、高校最後の試合も完全燃焼ではなかった。「自分に期待していたところがあったと思うんですけど、うまくいかなくて2番手や3番手とかで、自分の能力のなさにコンプレックスを感じていました」。やり切った気持ちはなかった。

高校時代に肘を痛め、不完全燃焼な日々を過ごしていた(撮影・松永早弥香)

その一方で走ることが好きだった本田は、将来、スポーツメーカーでシューズ開発の仕事を視野に入れ、人体工学が学べる名古屋大学工学部機械・航空宇宙工学科を志望。高3の夏に野球部を引退した後は野球に費やした時間を全て勉強に注ぎ、塾の開校とともに勉強を始め、閉校するまで塾で勉強する日々を過ごした。「野球ばっかりだったのがそのまま勉強ばっかりになって、最初は勉強しているのがすごい新鮮で、勉強を好きになりました」

そこからめきめきと成績が伸び、前期で名古屋大学工学部に合格。だが第一希望の機械・航空宇宙工学科ではなく、第二希望の電気電子・情報工学科での合格だった。「やっぱりうれしさ半分、悔しさ半分」と当時を振り返る。

名古屋大初のプロ野球選手に学び

高校時代は野球中心の生活をしていたが、大学でも部活動をすることに迷いがあった。特に入学前に肘の手術をしたため、春の段階ではまだリハビリ中だった。まだ決心がつかない状態で野球部の見学に行き、真剣に野球に取り組んでいる部員の姿や、当時4年生だった松田の言葉が心に響いた。「松田さんは『入部してよ』とかではなくて、体の使い方や、どういうことを意識してやっているのかなど、本当に野球の話ばかりでした。その体の使い方もすごくきれいで、自分もこういうふうになりたいなと思いました」。そこからはもう、迷わなかった。

松田は高校時代はバレー部でリベロ。大学で野球を再開し、初めて硬式球を握った左腕のピッチャーだった。4年生の春には148kmを出し、名古屋大初のプロ野球選手を目指していた。名古屋大は当時、愛知大学野球リーグ3部(現在は2部)に所属していたこともあり、話題を呼んだ。そんな松田が練習前にひとりでウェートトレーニングやストレッチをしている姿を見て、本田も早く来て一緒にするようになったという。また一緒の接骨院に通い、肘に負担をかけない投げ方を学んだ。学食や部員行きつけの「台湾料理 味味 名古屋大学店」などに一緒に行っては、野球談義に花を咲かせた。

4年生だった松田に話を聞いた際、「来シーズンは今の1年生がメインのピッチャーになるんですけど、僕がやってるのをそばで見てて、『教えてください』と声をかけてくるような子でした。彼はきっと『松田を超えるぞ』というぐらいでいると思うんで、それでいいっす。『松田を超えろ!』です」と言っていた。その話を本田に伝えると、少しはにかんだ。「『松田さんを超えろ』とか言ってましたね。練習中も一緒にやりましょうと声をかけたり、いろんな話を聞いたり、自分から行ってました」

その2019年のドラフト会議で、松田が中日から育成選手としての指名を受けた。学内で行われた松田のドラフト会議のパブリックビューイングに本田も立ち会い、松田が指名された瞬間、「本当になっちゃったんだ」と鳥肌が立ったという。

指名直後、名古屋大野球部のみんなに祝福される松田(前列中央)。この日のことを本田(最後列の左側)は今も鮮明に覚えている(撮影・松永早弥香)

ドラフト会議の3日後、名古屋大は愛知淑徳大学との3部リーグ優勝決定戦で勝利し、続く名古屋経済大学との入れ替え戦を勝ちきり、2部昇格をつかんだ。本田は7月から投げられるようになり、入れ替え戦の2戦目に登板。1-2で敗れたものの、素直に楽しいと思えたという。「小中高はあまりうまくもなかったのでプロになる夢は段々諦めていたんですが、入れ替え戦で投げさせてもらい、力がついたというよりは、単純にこれを仕事にしたいなと思うようになりました」

「言うことを聞かない」強さ

だが2年目を前にして新型コロナウイルスが猛威を振るい、春シーズンは試合どころか練習すらできない日々が続いた。秋は規制こそあったがリーグ戦が行われ、改めて野球ができる喜びを感じた。

実のところ、本田が服部匠監督にプロを考えていることを打ち明けたのは3年生になる直前だったという。理系部員の多くは大学院に進むため、服部監督は本田も大学院だと思っていたが、本田から「野球を続けたい」と言われ、それも社会人野球ではなくプロ野球を希望していると知り、驚いたという。「言うのが遅いよ、と叱りました。社会人野球の練習に参加させていただくにしても、受け入れ先がもうないような時期です。だからなんとかお願いしていくつかのチームに参加させていただきました」と服部監督は苦笑いを浮かべた。本田は社会人野球の練習に参加し、「野球で生きていく覚悟」を選手たちの姿から学んだ。

服部監督(左)は本田の1年目を振り返り、「ずば抜けていいピッチャーではなかった」と言うが、今は「プロに届くくらいになった」と本田の成長の早さに驚いている(撮影・松永早弥香)

3年生の春には149kmと球速が伸び、秋季リーグ開幕戦で148kmをマークしたものの、名古屋大はコロナ規制で11試合中3試合しか出場できなかった。その悔しさも胸に4年目にかけていた本田は、春季リーグ戦直前にコロナに感染。自宅療養を経て復帰したのは開幕1週間を切っていた。万全ではない状態で迎えた4月2日の愛知大学との開幕戦、服部監督は「100球が目安、多く投げても120球」と本田に伝えていたという。

試合は六回で4点をあげ4-3で逆転、しかし七回で同点となり、九回で決着がつかずタイブレークに。140球を超え、服部監督は交代を伝えたが本田は「投げられます」と言い切った。十回、十一回と毎回交代を伝えたが本田は頑として譲らず、主将で捕手の神谷岳(4年、浜名)からも説得するように伝えたが、結局13回、192球を投げ切り、時間切れ引き分けとなった。服部監督は「頑固というか、言うことを聞かないというか……。体、気持ちの強さと同時に責任感の強さを示した試合でした」と振り返り、その後の6試合は全て完投勝利。67回投げ、6勝0敗1分、防御率0.54の数字をたたき出した。

本田の活躍もあり、春季リーグ戦は8勝2敗1分で2位。名古屋大が1部だったのは、愛知7大学野球連盟を経て愛知大学野球連盟となった昭和28年(1953年)頃のこと。服部監督は今年で退任することもあり、学生たちのこの秋にかける思いは強い。

万全ではない状態で春季リーグ戦が始まったが、本田はエースとして力を見せつけた(写真提供・名古屋大学硬式野球部)

変化球も生きるよう、ストレートを強化

本田はストレートだけでなく変化球でもカウントがとれることが武器だが、150km級の選手は全国に多くいるのが現状だ。「まとまっているけど、突き抜けているのがないのが課題だと思ってます」と本田は言い、その上で「まずはストレートで差し込めることが大前提になるだろうし、武器としてそこがないと他の球も生きてこないと思う」と、勝負の秋を前にしてストレートの強化に取り組んでいる。大学では希望していた人体工学こそ学べなかったが、自分で勉強してフォーム改善に生かすなど、学びを野球に応用している。

松田の姿を見て学んだことがもうひとつある。松田はギリギリまで単位を残していたが、その苦労を見ていた本田はすでに必要な単位を取り終え、あとは卒業研究だけという状況だ。1年生の時は授業で全体の練習に間に合わない時もあったが、自分で時間を見つけて練習を継続し、4年生になり研究室に入ってからも時間をうまくやりくりしてきた。論文は可視光通信を用いた情報伝達をテーマに選び、「研究自体はひとりでやっているんですけど、野球との両立は問題ないと思います」と言い切った。

本田の両親からは当初、一般就職を勧められたが、今は本田の夢を応援してくれている(撮影・松永早弥香)

3年生の秋季リーグ戦では別件で来ていたスカウトの目に留まり、4年生での春季リーグ開幕戦では2球団だけだったが次第に増えていき、今は全12球団の東海地区担当者に認識されるまでになった。あとは秋季リーグ戦でどれだけ結果を出せるか。服部監督は言う。

「松田の場合は話題性もありましたし、左腕で期待込みのところはあったと思います。その意味で本田はさらなる武器が必要になるんですが、春投げている姿を見たら(プロに)とってもらえるくらいのレベルには届いたのかなと。これから二人三脚でサポートしていきます」

一度は諦めた夢。その夢をたぐり寄せる一球を。本田健悟は静かに闘志を燃やしている。

in Additionあわせて読みたい