野球

連載: プロが語る4years.

身近にすごい選手たち、遠かったプロの世界 中日ドラゴンズ・京田陽太1

2021年の昇竜ユニホームを披露する中日ドラゴンズの京田陽太(提供写真以外すべて撮影・朝日新聞社)

今回の連載「プロが語る4years.」は、中日ドラゴンズの京田陽太内野手(26)です。2017年には新人王を獲得し、選手会長となった2020年はチームでただ一人全120試合に出場、今季はさらなる飛躍が期待されます。4years.野球応援団長の笠川真一朗さんがこれまでの野球人生に迫ります。4回連載の初回は、石川県で育った幼少期から青森山田へ進んだ高校時代までです。

インタビューは昨年の暮れ。筆者と(提供・笠川真一朗)

僕との出会いは大学時代。同じ東都大学野球連盟に所属していた。僕が立正大学3年生の頃に、「こんにちは!面白い人ですよね!うわさは聞いてますよ!京田です、よろしくお願いします!」。グラウンドで唐突に声を掛けてくれた。「もちろん知ってるよ!大ファンです、ありがとう」と照れながら1年下の日本大学の京田に返した。愛想が良くてハキハキとしゃべる。ユニホームの着こなしや立ち姿から雰囲気があふれ出ている。まぎれもなく特別な選手だった。それからは試合をする日やSNSなどでの会話が増え、僕はひとりの対戦相手の選手ではなく、ひとりの野球選手として彼を尊敬していたし、大事な球友だ。僕がお笑い芸人をしていた頃、京田の奥さんがライブを観に来てくれた日もあった。僕は卒業してからも京田のプレーを観に神宮球場に行き、プロ野球の世界に進んでからも彼の姿に刺激をもらっている。

野球はジャージーでやるもんだ

京田は1994年、石川県能美郡(現能美市)生まれ。幼い頃から父に公園に連れられ、野球を楽しんだ。小学2年生から地元の少年野球チームに入団したが、最初はチームに入りたくなかったと言う。「ジャージーで野球をやるのが当たり前だったんで、ユニホームを着たくなかったんです(笑)。『こんなの着て野球をしたくない!』と駄々をこねていましたね」と当時を振り返る。しかし、友達に熱心に誘われてチームの練習に通い始めた。ポジションは最初から遊撃手。学年が上がるにつれて捕手や投手なども務めたが、本人は「やっぱりショートが1番。昔からショートが好きでした」と遊撃手へのこだわりは人一倍強かった。「周りに比べて身体能力が高かったとか技術があったとか、そういう自覚は一切なくて、純粋に野球が楽しかったですね」と言う小学校時代。ただ、ただ、野球というスポーツの楽しさに触れる毎日を送った。

中学生になると白山能美ボーイズに入団。ちょうど京田が中学生になるタイミングで新設された硬式野球チームだ。きっかけは「まだ何もない新しいチームでやってみたいって思ったんです。あとは水本(弦)の影響ですね。水本は小学校時代から地域でズバ抜けて上手だった。水本がこのチームに入ると聞いて同じチームで野球がしたいと思いました。めちゃくちゃ大きな存在だったので」とふたつの理由を語った。

第94回全国高校野球選手権(2012年)で春夏連覇を果たし、優勝旗を持ち列へ戻る大阪桐蔭の水本弦主将

水本は甲子園で春夏連覇した大阪桐蔭高(2012年)、亜細亜大学と主将を務め、現在は東邦ガスでプレーしている。京田にとっては友人でもあり、ライバルでもある。そんな水本の存在が大きかった。ボーイズの全国大会では準々決勝まで進出したが、「当時からプロに行きたいとは思っていましたけど、自分がそんな存在になることは想像もできませんでした。それよりも甲子園に行きたいってその頃は思ってましたね」。

甲子園目指し青森山田へ進んだが……

そして、青森山田高に進学することを決意。京田が入学する前年まで6年連続で夏の甲子園出場を果たしていた。強さだけでなく充実した施設も魅力的だったと言う。そして京田は全国屈指の強豪校で1年春から遊撃手の座をつかむ。「最終的にベンチに入って、レギュラーが取れたらいいなと思うくらいで。両親からも『3年間、試合に出れなくてもいいから、とにかく最後までやり切ってこい』と言われていました(笑)。本当に実感がないまま試合に出ていましたね。レギュラーの先輩がけがをして、たまたま僕が代わりに出て結果が出て。ツイてるなと思いました」

青森山田高時代、甲子園出場はかなわなかった

京田はこの1年生の夏の大会で忘れられない経験をした。準決勝の光星学院(現・八戸学院光星)との試合。初回に二遊間を抜ける打球が飛んだ。その打球に対して京田は二塁手との距離感を気にして打球を最後まで捕りに行かなかった。躊躇(ちゅうちょ)したのだ。はたから見れば、ただ打球に飛び込まなかっただけの話なのかもしれない。しかし当時の青森山田の五十嵐康朗部長はその試合が終わった日から引退するまで、京田にあることを伝え続けた。

今でも忘れられない一言

「お前のあのプレーで青森山田と光星学院の立場が逆転した。これからも言い続ける。ひとりで野球をやってるわけじゃないぞ」。1年生の京田にとっては重たい言葉だったかもしれない。しかし五十嵐さんの言葉は今でも忘れない大きな糧になった。「僕のあの躊躇したプレーで3年生の夏を終わらせてしまいました。そういう消極的なプレーはちゃんと見てる人にはわかるんです。3年間で五十嵐さんにほめられたことは一度もないです。でも技術的なことで強く言われたこともない。取り組む姿勢について厳しく教えてもらいました」と尊敬する恩師との思い出を振り返った。

高校1年の夏、青森山田は光星学院に敗れ7年連続の夏の甲子園を逃した

あの頃の青森県は光星学院がとにかく強かった。京田は高校時代の3年間、一度も甲子園に出場していない。「(光星学院は)めちゃくちゃ強かったですね。どこかで絶対に当たる相手。光星に勝たないと甲子園には出れないという意識は常にありました」。光星学院には当時、世代ナンバーワン遊撃手と言っても過言ではない選手がいた。北條史也(現・阪神タイガース)だ。

第94回全国高校野球選手権で1大会4本塁打を放った光星学院の北條史也

「意識しましたね。同じポジションであれだけの活躍を甲子園でしていた。高校生くらいになると自分の能力がある程度わかってきましたし、他人と比較して自分の足りないところもわかってきます。僕は甲子園には行きたいなと思っていましたが、『プロに行く!』みたいなことはあんまり考えていなかったです。体も細かったので。間近で北條を見ていた分、自分にはまだ早いなと思いました」。京田は当然のように大学進学を決めた。

プロが語る4years.

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