野球

連載: プロが語る4years.

日本大学の誰もが認める努力家、つかんだプロへの道 中日ドラゴンズ・京田陽太2

日本大学で大きく成長した京田陽太(撮影・朝日新聞社)

今回の連載「プロが語る4years.」は中日ドラゴンズの選手会長、京田陽太内野手(26)です。応援団長の笠川真一朗さんがこれまでの野球人生に迫る4回連載の2回目。1年生から遊撃手のレギュラーとなり、東都大学野球では2部から1部復帰に貢献、25季ぶりの1部優勝もつかんだ日本大学時代です。

1年生から別格の守備

進学先に選んだのは青森山田高での恩師・五十嵐康朗さんの母校でもある日本大学だった。「4年間ここで成長してプロに行け」そう送り出されたが、京田は「自分の立ち位置を見てみると厳しいなと。当時はそんなレベルでした」と振り返る。

周囲の選手から見れば京田のレベルは1年生ながら突出していた。当時、京田の1学年上で僕と龍谷大平安高時代のチームメートだった松下拓司(現・佐川印刷軟式野球部)に話を聞いた。「京田が来るから遊撃手を諦めて外野手にコンバートした。自分なら逆シングルで捕球する打球を京田は一歩先に入って正面で捕る。守備に関しては別格だった。足が使えて肩も強い。動きに無駄がない。練習量も多いし、質も大事にする。勝てないと思った」。初めて京田を見たときの印象だ。誰から見ても「この選手は違う」そう思わせる実力と姿勢があった。

松下(右)は京田の入学を機に自ら外野手に転向した(松下拓司提供)

しかし、本人は自分のレベルに焦りを感じていた。「1年生の頃は木のバットに慣れなくて苦労しました。どの面においてもスピード感がまるで違うし、高校野球との違いを実感しましたね。プロがどうとか以前に、試合に出ることに必死でしたよ」

京田は大学野球の世界に慣れながら試合に出続ける。1年春からレギュラーをつかむと卒業までその座を譲らなかった。下級生の頃は練習の準備や片付けなど雑用も多く、なかなか練習に時間を割けなかった。その京田を救った先輩がいた。当時3年生の石田竜也(日大鶴ケ丘、現・日大野球部コーチ)だ。「京田は試合に出ないといけない選手。野球人としての格が違った。だから練習をさせてあげたくて誘った」。石田は京田に声をかけ守備の自主練習に取り組んだ。「実際に一緒に練習をして京田のすごさを改めて実感した。取り組む姿勢がまるで違う。『ここまでやらないとうまくならないんだな』とこちらが勉強になって、守備の色んな事を教えてもらった。入学した時点で他の選手より飛び抜けているのにそんな選手が努力をする。京田が周囲に与える影響は大きかった」。先輩である石田も京田の姿に刺激を受けた。

石田コーチ(右)と京田。3年の時、1年の京田をよく練習に誘った(石田竜也コーチ提供)

「壁当ては歯磨きと一緒」

試合で送球ミスをするとショートの定位置に大量のボールを転がして、それを打球を捕るようにして一塁に置いたネットに向かって投げ続ける。壁に向かってひたすらボールを投げ続けて転がってくるボールに対して同じリズムで打球に入る。簡単な球に対して足をしっかり使う。守備はとにかく練習したが、壁当てに関しては4年間どんなことがあっても継続した。「壁当ては歯磨きと一緒です。毎日絶対にやる習慣。やらないと気が済まない。続けるのは大事なことです。守備に関しては昔から自然と突き詰めていた。それは自信を持って言えます」。球界を代表するほどの守備力にはそれを裏付けるこれまでの過程があった。ノックを見ていてものすごく楽しい選手で僕は試合前から目が離せなかった。

入学した当初の京田を当時、1学年上だった学生コーチの平野晋也(京都外大西)はこう振り返る。「最初は『このクソガキ、自分のことしか考えてへんな』って正直思ったよ(笑)。だから京田に対して厳しく言うことがけっこうあった。でも悪いやつじゃないのはわかってるし、誰よりも練習するし、周囲を納得させられる選手だった。その上で厳しく接していたけど、あいつは『はぁ?』みたいな顔をしてくる。誰よりも負けん気が強いし、反骨心があった。それでも学年が上がるにつれてチームのことを考えてくれるようになったし、人間的な成長をものすごく感じた。後輩にも教えるのが上手でみんなから好かれていた。京田はそういうやつや。ほんまに厳しく言い続けたから嫌われてるかもしらんわ(笑)」

学生コーチの平野さん(左)は1年下の京田に厳しく接した(平野晋也さん提供)

取材の日にこのことを京田に伝えた。「いやいや、平野さんには感謝してますよ。最初は確かに反抗していましたけど(笑)。でも僕が変わるきっかけになった先輩です。最上級生になったときに平野さんに言われ続けてきたことを実感しました」

3年生で念願の東都1部復帰

京田は3年春まで東都2部でプレー。その春にリーグ戦で優勝し、入れ替え戦も制した1部に復帰し、秋から神宮球場でプレーすることになった。「下級生の頃は試合に出るのに必死。でも徐々に『このまま2部で卒業するのはな……』と思うようになりました。でもそう思ったのは一つ上の先輩たちが好きだったからです。結束力もあって熱い人が多かった。この人たちと1部に行きたい。そういう思いが芽生えてきて、それは僕にとって大きかったですね。1部昇格が決まったときはうれしくて涙が出ました」。京田は懐かしむように当時の心境を振り返った。

京田は大学生活の中で人間的に変わったことも話してくれた。「とにかく視野が広がったんです。周りを見られるようになりました。それまでは自分のことさえしっかりしていればいいやと思っていましたが、勝つためにはそれだけじゃいけないので。こっちから人に歩み寄れば人も集まってくれる。人間観察が好きになりました。今でも仲良くやってる仲間はたくさんいます。これはうれしいことですよね」

プロへの気付きを得た大学日本代表

長所である守備と走塁に磨きをかけて人間的な成長も実感した。課題は紛れもなく打撃だった。4年生になるまでに6度のリーグ戦を終えたが、打率3割を超えたのは1度だけ。4年春の打率は.261と物足りない成績だった。それでも夏に大学野球の日本代表に選ばれた。京田は「この夏にプロへの思いが一気に強くなりました」と振り返る。「阪神の大山(悠輔、白鴎大学)、巨人の吉川(尚輝、中京学院大学)。他の選手もそうですけど、『これじゃ自分はまだまだ足りない』と痛感しましたね。打者としての力強さに欠けていると思いました。それから自主練習も守備メインから打撃メインに切り替えました。全部バッティング。フォームからスイングの軌道からタイミングの取り方も自分のバッティングを一度ゼロまで壊しました」

打撃をゼロから作り直す

並々ならぬ覚悟を持って決断した。そこで京田の大きな力になったのがJR東日本から臨時コーチとして指導に来ていた片岡昭吾氏だ。今年、日大のコーチから監督に就任した。「『一から教えてください』と志願しにいきました。僕はそれまでボールに対して軽く合わせるタイプでした。ふわーんと。非力な感じがあったというか。そこで僕が取り組んだのは、簡単に言うとボールに対して強く振る、強くたたく。それをテーマにひたすらバットを振り続けてましたね。そこが大きなターニングポイントでした。1部に上がればスカウトがたくさん見に来る。前年の秋にそれを実感しました。その中でドラフトを目指してプレーする選手たちが刺激になりました」

京田は燃えていた。それでも自分のバッティングを4年生の大事な時期にゼロまで壊すことに恐怖や不安は無かったのか。僕はそこが気になった。それを京田にぶつけると「怖かったですよ。でもそのままにしていたら何の意味もない気がして。だからこそ『これでダメなら仕方ない』と思えるくらい練習しました。本当にめちゃくちゃ練習しました」。

2016年秋、日大は東洋大にサヨナラ勝ちし25季ぶり23度目の優勝を飾った(撮影・朝日新聞社)

一歩間違えれば自分の人生が変わるかもしれない状況に、自ら突っ込んでいく京田の根性には胸を打たれた。大きな決断をする以上、それに見合った努力を積み重ねる。そしてその努力は結果という形で花が咲いた。最後の4年生秋のリーグは打率.328、盗塁は自己最多の11、ベストナインを受賞し、チームは2004年の春以来となるリーグ戦優勝を果たした。「やっと打撃でチームに貢献できました。優勝はすごくうれしかったですね。変化を恐れずに挑戦してよかったと思いました」

身近にすごい選手たち、遠かったプロの世界 中日ドラゴンズ・京田陽太1

プロが語る4years.

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