フェンシング

専修大・大谷謙介、先輩の加納虹輝に続き五輪エペ団体で2度目の金メダル獲得を

大谷は昨年の東京オリンピックでエペ団体が金メダルを獲得した姿を見た瞬間、夢が具体的な目標に変わった(撮影・前田大貴)

フェンシング・エペの大谷(おおや)謙介(専修大2年、岩国工業)が、夢だったオリンピック金メダルを明確な目標として定めたのが、大学生になったばかりの2021年。東京で行われたオリンピックで、日本代表エペチームが史上初となる金メダルを獲得した瞬間を見た時だった。そのメンバーの中には、大谷の高校の先輩でもあり、今はともに練習するチームメートでもある加納虹輝(こうき、JAL)がいた。

「あの時の感動は今でも忘れません。オリンピック決勝で難敵のロシアを破り、金メダルを獲得させたのが本当にかっこよかった。それで僕自身もオリンピックで金メダルを取りたい、特に加納先輩と同じく団体で取りたい、と思えるようになったんです」

加納虹輝、逆境でも「いけそうな感じはあった」エペ団体金をもたらした粘り強さの秘密

大谷曰く、オリンピックにおける個人戦と団体戦のメダルでは、意味合いが大きく異なるという。個人戦は予選もなく一発勝負になってしまうため、メダルを取ってもチーム全体の士気は上がらない。ただ団体戦で勝てばチーム全体の士気が上がるのはもちろん、国全体で盛り上がる。そんな団体戦はオリンピックの5年前から用意が始まる。「チーム全体で目標を目指して頑張っていきたいんです」と大谷は言う。

フェンシングは運命だと思った

大谷がフェンシングを始めるきっかけになったのは、小学3年生の頃に参加した山形県のドリームキッズというスポーツタレント発掘プロジェクトだった。厳しい体力テストをクリアした小学生が、将来のオリンピック選手を目指して様々なスポーツを体験できるというもので、大谷も当時、柔道やカヌー、リレーなど、多くの競技を体験してきた。

ただ、どの競技も半年と経たずにやめてしまったが、フェンシングだけは剣を振り回せることがすごく面白く感じた。元々チャンバラが好きだった大谷にとって、剣を気兼ねなく振り回せるフェンシングは夢のような競技だった。そうした相性の良さもあってか、小学3年生から6年生まで月に2回、どんなことがあっても通い詰めたという。

小学生時代から指導を受けている市川コーチ(右)は、普段は優しかったが、練習中に大谷が駄々をこねると叱られることもあったという(写真は本人提供)

ちょうどその時期に、ロンドンオリンピックの強化選手として練習していた元ナショナルチームの市川倫子(みちこ)さんが県内にフェンシングクラブを創設し、縁あって大谷は小学6年生から中学3年生まで本格的な指導を受けた。

「市川コーチは非常に優しく指導してくださる方で、まずフェンシングを好きになることが第一という考え方でした。何事も押し付けることなく、自主性を重んじた指導をしてくださったおかげで、今の自分の根本となっている“自分で考え抜く力”を身に付けられたと思います。市川コーチに言ってもらった言葉の中で、今でも強烈に覚えているのは、『無駄な練習なんてない。なぜ今この練習をしているのかを常に考えるように』という言葉です」

一つひとつの練習を積み重ねることを学んだ大谷は、今でも市川コーチのことを尊敬していると話す。

世界で戦えると確信した直後にコロナ禍へ

高校は加納と同じ、全国屈指の強豪校でもある山口県の岩国工業高校に進学した。高校2年生の時に開かれた19年12月の男子エペジュニアワールドカップ東京大会で3位に入賞。これから一気に勢いに乗っていくと思われたが、20年には世界中で新型コロナウイルスが蔓延(まんえん)し、世界大会はもちろん、国内の大会や学校での練習も軒並み中止となった。

19年に開催された男子エペジュニアワールドカップ東京大会で大谷(右下)は3位となり、チームメートと喜びを分かち合った(写真は本人提供)

「コロナ禍では学校の授業も練習もなく、時間もあったので、自宅でトレーニングを本格的にしていました。当時は特に悲観的にもなることなく、師である市川コーチの言葉通り、練習を積み重ねることに集中することにしたんです。そこに岩国工業に来てくださっていたトレーナーさんもオンラインで指導してくださるようになり、今では当たり前になっている体づくりの習慣を身につけることができました」

専修大で感じた団体戦の意義・喜び

中止されていた世界大会は21年3月から再開。翌4月に大谷は専修大学へと進学した。専修大に入ってまず大谷が感じたのが、チームの結束力と、団体戦の盛り上がりがすごいところだという。専修大の団体戦は、他大と比べても元気が良く、ベンチ以外からも声が出るため、部活そのものがワンチームという感じだった。

大谷は大学で同期や先輩にも恵まれ、このチームで勝ちに行くことを決意。その年の10月に行われた関東インカレでは、団体戦で優勝を果たした。この経験を大谷は「非常に嬉(うれ)しかった」と話し、改めて団体戦で勝つことの意義を再認識した。

スポーツ推薦だった大谷は、経営学部での学びの他、スポーツ医学やスポーツメンタルなど、アスリートとしてパフォーマンスを高められる授業を受けられる。その中でも特に学びとなったのが、ケガを予防するためのスポーツ医学だった。

「実は以前から足首の捻挫が癖になっていたんです。練習中も、変に足首のことが気になって、うまくフットワークができない時もありました。そんな時にスポーツ医学の授業で、実際に先生から授業中に足首の捻挫予防のトレーニングを教えてもらえ、それを習慣にすることによって、捻挫への恐怖が消えたんです」

それまで足かせになっていた捻挫を改善してくれたスポーツ医学での学びは、今でも大谷の中で重要な学びになっている。

世界で戦っていくためにはフェンシング以外の知識も重要だと気づいた(左奥が大谷、撮影・前田大貴)

そして21年から世界大会が再開され、同年11月から大谷も世界を転戦。最初はウクライナやスイスに遠征したが、海外選手との身体能力の差や、独特の間合いの詰めかたが日本人とは異なり、普段の練習でやっていたことがまったく通じず、予選敗退となった。

このままではいけないと感じた大谷は、次、同じことにならないようにどうしたらいいのかを考えた。海外の選手の間合いに対応できるように、それまで以上に腕を前に置いたスタイルに変更。今年6月に行われたドイツやジョージアへの遠征で自身初となる予選突破を実現し、トーナメントでも2回戦まで上がった。

この遠征を経て、大谷はこれまでの日本人を中心とした戦術から、海外の選手に対する戦術を日本でも実践するという戦術にしなければいけないと痛感したという。次の24年パリオリンピックに向け、「金メダリストたちにあって自分にはないものを培っていきたい」と話す。

金メダリストにあって、自分にはないもの

東京オリンピックで日本代表が初めて獲得した金メダルは、大学生になったばかりの大谷に衝撃を与えた。そんな偉大な先輩たちと一緒に練習する中で、金メダリストたちにあって自分にないものをしっかりと認識した。「オリンピックで結果を出すためには、僕自身、まだ場数が足りていません。加納選手に追いつくために、もっと場数を踏みたい。世界戦に臨んでいきたいんです」

金メダルを取った偉大な先輩たちに追いつくために、大谷は世界での戦いを見据えている(撮影・前田大貴)

そんな思いを胸に、大谷はスポーツギフティング「Unlim(アンリム)」を開始した。これまで周りの人々から応援を受けながら競技に集中してきたが、より多くの人に自分の成長を見てもらいたいという思いから、スポーツギフティングに魅力を感じたという。支援金は大会への遠征費や用具の購入代などに活用する予定だ。

「学生から大人になっていくまでのプロセスを支援してくださった皆さまのためにも、オリンピックで結果を出せたらいいなと思っています」

フェンシング界を担う新たな世代は、着実に育っている。フェンシング日本代表史上、2度目のオリンピック金メダルをもたらすため、大谷の挑戦は始まったばかりだ。



in Additionあわせて読みたい