加納虹輝、逆境でも「いけそうな感じはあった」エペ団体金をもたらした粘り強さの秘密
7月30日、ついにその瞬間は訪れた。1960年のローマ大会で初めて日本のフェンシングチームがオリンピックに参戦して以来、悲願としていた金メダルを獲得した瞬間である。61年越しの快挙を成し遂げたのは、男子エペ団体チーム。決勝のロシア・オリンピック委員会(ROC)戦で勝利を確定させたのは、団体戦で決着をつける重要なポジション「アンカー」を任された加納虹輝(23、JAL)だ。
個人戦で敗れた悔しさを団体戦で晴らす
「団体戦最後の相手は、今大会の個人戦で負けたセルゲイ・ビダ選手だったので、絶対にリベンジしようと決意していました。ビダ選手は僕が近距離に強いことが分かっていたので、ギリギリまで引きつけてカウンターを狙う作戦できたんですが、僕は個人戦の経験からビダ選手が何をしてくるのか分かっていたので、わざと近い距離に入ってカウンターを誘い、そこにカウンターをあわせる戦術で戦いました」
結果は加納が思い描いていた通り、ビダが狙っていたカウンターをそのまま返し、個人スコア8-3の大差で個人戦での雪辱を果たした。
フェンシング日本代表がこれまでオリンピックでメダルをとったのは、08年の北京大会と12年のロンドン大会。両大会ともフルーレ種目での銀メダルだったが、今回は初めてフルーレ以外の種目でメダルを獲得したことになる。特に世界で一番人口が多く、最もメダルを取るのが難しいと言われていたエペでの金メダル獲得は、日本フェンシング史上初の快挙であるとともに、世界に日本のエペの強さを知らしめた大事件となっただろう。
勢いに乗っていた19年、勝負の20年がコロナで一変
加納が初めて世界の頂点に立ったのは、19年に行われたワールドカップ(カナダ)。早稲田大学4年生だった加納は日本人2人目の個人優勝という快挙を達成し、更にはアルゼンチンで行われたワールドカップで団体優勝にも貢献。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで翌20年の東京オリンピックに挑戦するはずだった。
しかしコロナの影響を受け、東京オリンピックの延期が決定。3月に1度目の緊急事態宣言が発令された時は、加納を含む日本代表の選手全員が自宅待機を余儀なくされた。当時、加納はその時の状況をこう語っている。
「自宅待機にはなりましたが、トレーナーからは色々なメニューを教えてもらっていたので、それを自宅でやってみることにしたんです。まずやれることをやるしかありませんから。最初に自重トレーニング、更にチューブトレーニング、ダンベルを使ったトレーニングなど、色々なメニューをこなしていました」
NTC(ナショナルトレーニングセンター)で練習が再開できるようになったのは6月になってから。幸いにも自宅でのトレーニングが功を奏し、ブランクによるけがもなく、順調に練習を再開することができた。そして今年3月、東京オリンピック前最後のワールドカップ(ロシア)が開催されたが、個人で28位、団体でも5位で終わるなど、19年の勢いは完全に止まってしまったかのように見えた。
五輪前、異例のウクライナ合宿
「このままではまずい」。チームにそうした雰囲気が漂い始めた時、男子エペ日本代表チームは4月、オレクサンドル・ゴルバチュクコーチ(愛称:サーシャ)の故郷であるウクライナで合宿を開始した。オリンピック前は自国で練習するのが通常のため、極めて珍しいことだと言える。その時のことを加納はこう話す。
「ウクライナに行っていたのは、現地の選手と一緒に練習するためだったんです。もちろん個人戦、団体戦の練習もバランスよくやっていたんですが、ウクライナは強豪国だったので、オリンピック前にそうした海外の選手と剣を交えたのは刺激になりました。日本代表の戦術も、今のウクライナ出身のコーチであるサーシャが指導してくれた『剣をしっかりと捉えて、守りながらカウンターを狙う“ウクライナ式”』を元にしているので、そういう意味でもいい勉強になりました」
本来エペという種目は、どこを突いてもいい種目であるため、攻める行為そのものにリスクがつきまとう。それに比べて守っていれば、相手が攻めようとした時の出鼻にカウンターを合わせられたり、相手の剣を自分の有利なポジションに誘導することもできるので、どちらかといえば守りの方がリスクが少ない。特にゴルバチュク氏がコーチに就任してから、日本代表は守りに重点をおいたカウンター戦術をメインにしており、これが功を奏し、体格で不利な日本人がエペにおいて結果を出せるようになった。
それに加え、1年前から団体戦の練習も本格的に始めたという。
「五輪の1年ほど前から、団体戦の練習を集中して始めました。例えば僕らが毎回必ず(団体戦ルールの)5点取らなければいけなかったり、わざとハンデをつけたり、必ず取りにいかなければいけないシチュエーションを作ったり、逆に僕らが守り抜くという練習をしたり。様々な場面を想定しながら練習していました」
団体で銀メダルを獲得した男子フルーレはロンドンオリンピック前の練習でも、同じようにあらゆる場面を想定して練習が行われた。当時のフルーレチームは試合時間残り2秒、1秒という場面を設定して、考えるよりも先に体が動く練習をしていた。ロンドンオリンピックで太田雄貴さんが残り1秒で同点にした“奇跡の1秒”も、偶然起こったのではなく、実は練習した上で必然に起こっていたことなのだ。この“様々なシチュエーションを想定して行う練習”が、不利な状況においても逆転につなげる日本代表の粘り強さにつながっている。
43-44という場面でも、冷静に相手の剣を捉えた
東京オリンピックにおいてその粘り強さが発揮されたのは、逆転勝利をおさめた1回戦のアメリカ戦と2回戦のフランス戦だろう。特に大金星と言えたのは、2回戦で戦ったフランスとの一戦だ。フランスは前回のリオデジャネイロオリンピック(男子エペ団体)でイタリアを破って金メダルを獲得した世界ランキング1位の強豪国で、特にアンカーのヤニック・ボレルは世界大会で何度も優勝するほどの実力者。前回のリオ大会で優勝を決めたのも、このボレルだった。
「フランス戦の最後の試合は2点リードされて回ってきたのですが、不安な気持ちはありませんでした。もちろんボレル選手も実力者ですが、2点差というのはそこまで大きな点差ではありませんでしたし、過去に2度、団体戦で勝っていてこともあったので、いけそうな感じはありました」
身長196cmとフェンシング選手の中でも巨体のボレルは、持ち前のパワーとアタック力が特徴の選手。対して加納は身長173cmと小柄だが、小回りがきく特性を生かして、ボレルがアタックにきたところに、カウンターのタイミングで剣を捉えながらインファイトに持ち込む作戦に出た。
フェンシングの団体戦は先に45本先取した方が勝利となる。フランス戦の最終局面では、43-44の状態から加納が1点を取り、1本を争う勝負となった。最後はボレルがアタックにきた剣を加納が捉え、接近戦で最後の1点をもぎ取った。
「最後は狙っていました。もうやるしかなかったですし、やはりリーチですと大柄なボレル選手に負けてしまうので、剣を捉えて突きにいくと決めてマッチポイントを取りにいきました」
世界ランキング1位のフランスに勝利して勢いに乗った日本代表チーム。準決勝ではリオデジャネイロオリンピック金メダリストのパク・サンヨン率いる韓国チームに勝利し、前述した通り、決勝でROCを下して金メダルを勝ち取った。
常日頃からの努力が大舞台で生きる
日本フェンシング史上初の金メダル獲得という快挙を成し遂げた日本代表チーム。ではなぜその結果に結びついたのか。加納自身はこう振り返る。
「やはり早い段階から下半身の強化を徹底していたことです。フェンシングは一日で1回戦から決勝まで全て終わらせてしまうので、後半になるほどしんどくなって足がつることもあります。ただオリンピックではそんなこと一切なく、無事戦い抜くことができました」
筆者が加納の取材を続けていくうちに感じたのは、加納自身のフェンシング競技に対する“不断の努力”だ。
NTCでの練習はもちろんだが、コロナ禍で自宅待機の間もバイクを使って下半身強化を徹底し、バーベルなどのトレーニング器具がなければ、プッシュアップバーで可動域を広げた上半身トレーニングを実行する。更に公園でもフットワークのトレーニングを行うなど、限られた環境の中でできることを探し、最大限の努力をしてきたのが加納だ。
今年24歳になる加納は、これからのパリオリンピック以降も戦い続けていく。追う立場から追われる立場へ。日本エペチームの時代は、金メダルを獲得した今この瞬間から始まっている。