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特集:あの夏があったから2022~甲子園の記憶

青学大のヴァデルナ・フェルガス 「信じられなかった」甲子園での完封一番乗り

青山学院大学に進んだヴァデルナ。偉大なOB小久保裕紀と井口資仁の功績をたたえるプレートの前で(撮影・矢崎良一)

第104回全国高校野球選手権大会が、阪神甲子園球場で開幕しました。4years.では昨年2年ぶりに開催された舞台に立ち、その後、大学野球の道に進んだ1年生の選手たちに、コロナ禍の影響を受けた高校時代のことや、今の野球生活につながっていることを聞きました。「あの夏があったから2022~甲子園の記憶」と題して、大会の期間中にお届けします。第3回は、昨夏の甲子園で完封一番乗りを飾った青山学院大学のヴァデルナ・フェルガス(日本航空)です。

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半年前は甲子園どころか、エースになるとも……

近年は主に山梨学院、東海大甲府の2強で代表の座を争ってきた山梨県。昨夏、風穴を開け、2008年夏以来、13年ぶりの甲子園出場を果たしたのが日本航空だ。原動力となったヴァデルナは、シンデレラボーイのようだ存在だった。

ドイツとハンガリーにルーツを持つ父と、香港生まれで英国籍の母を持つヴァデルナ。甲子園のマウンドで衝撃的な快投を見せた。初戦の1回戦で、東明館(佐賀)をわずか5安打に抑え、大会一番乗りとなる完封勝利。2回戦は新田(愛媛)に7安打3失点ながら完投勝利。3回戦は智弁学園(奈良)に敗れたが、チームとしても20年ぶりとなる甲子園2勝を挙げ、ヴァデルナは一躍脚光を浴びることになった。

甲子園での完封勝利は「状況自体が信じられない」と驚く(撮影・朝日新聞社)

「実感とかは全然なかったですね。完封した試合も、試合前のブルペンでは全然状態が良くなくて、手応えもないままに投げていたら、『あれ? 抑えちゃったな』という感じでした。でも、あんまり覚えていないんですよね。あの状況自体が信じられないというか、半年前までは甲子園どころか、自分がエースになれるとも思っていなかったんで」

ヴァデルナはそう振り返る。実は「背番号1」を与えられたのは甲子園に来てから。山梨大会までは10番を背負った。チームは全試合継投で勝ち上がってきた。

2年冬は、一般受験の大学進学も選択肢に

日本航空は前年秋、県大会で準優勝して関東大会に進出しているが、このときヴァデルナは登録メンバーに入っていない。けがでもしていたのかと本人に尋ねると、「普通に実力がなかっただけです」と恥ずかしそうに言う。「ストライクが取れないから、試合でほとんど投げさせてもらえませんでした」

日本航空の豊泉啓介監督は、「事実です」と苦笑する。身長188cmと体格に恵まれた左腕。期待しないわけがないが、「投げさせる場所がなかった」と言う。練習試合はA、B、Cの3チームに分けていたが、A、B戦で四球連発では試合を壊しかねないし、C戦になると相手も選手数が少ないチームが多く、死球でけがをさせてはいけないと気を使う。起用法が難しい投手だった。

体力、筋力が伴わず、なかなか投球フォームが安定しない。「しっかり体を作れ」と根気強く言い続けたが、いよいよ進路のことも考え始める2年生の冬頃には、正直、諦めムードもあった。学業の成績は良かったので、「勉強に切り替えて、一般受験で大学に行くか」と面談で話したこともあったという。

甲子園では自らを援護する2点適時打も放った(撮影・朝日新聞社)

認めてもらえた上田西との一戦

状況が一変したのは翌春の3月だった。選抜高校野球大会出場が決まっていた上田西(長野)との練習試合で、先発投手に起用された。豊泉監督は「ダメならいつでも代えられるように」と初回からリリーフを準備させていた。一回、いきなり2ランを浴びて失点。「やっぱり無理か」と豊泉監督は交代を考えたが、躊躇(ちゅうちょ)した末に続投。すると立ち直り、以降は無失点に抑えて完投してしまった。ヴァデルナは「あれで認めてもらえました」と言う。

春の大会でベンチ入りすると、経験を積ませる意味もあり、先発を任された。それがチームに勢いをもたらした。準々決勝で「2強」の一角、山梨学院に11-0と圧勝。山梨2位で出場した関東大会。初戦で、選抜大会優勝の東海大相模(神奈川)を相手に先発すると、「いつ打たれるんだ、とビビりながら投げてました」と言いながら、最後まで粘り強いピッチングを続けて完投。5-3のスコアでジャイアントキリングを果たした。

3年の春から大きな成長曲線を描いた(撮影・河合博司)

あまりにも劇的な変化。いったい何が良くなったのだろうか?

「ストレートの球速が上がったことで、スライダーが生きてきた気がします。もともとスライダーは比較的コントロールできていたのですが、球速自体も上がって、いろんな使い方ができるようになりました」

コロナ禍で夏前の練習が限られ、体力が低下

東海大相模戦をスタンドで観戦していたのが、青学大の安藤寧則監督だった。当時はまだ無名だった長身左腕のピッチングに伸びしろの大きさを感じ、大会後、これまでは接点がなかった日本航空に出向き、青学大への入学を勧めた。一度は諦めかけた「大学でも野球を続け、将来はプロに行く」というヴァデルナの夢が、こうしてつながろうとしていた。

ただ、甲子園出場という夢はなかなか険しかった。夏の大会が直前に迫った6月、学内に新型コロナウイルスの感染者が出た。あれよあれよという間に感染は広がりクラスター状態となる。運動部は寮が共同ということもあり、部活動をしている生徒への広がりは深刻だった。ヴァデルナも発熱があり、検査の結果は陽性。すぐに隔離された。

野球部員の感染は比較的少なかったが、対外試合から日常の練習まで、一切の活動が自粛となった。ちょうど全国高校総体(インターハイ)の時期と重なり、出場辞退を余儀なくされる競技が相次いだ。その様子を見て、野球部員たちも危機感を募らせていった。

夏の山梨大会に出場することはできたが、練習を再開したのは開幕直前。例年なら練習量を増やす追い込みの時期を無為に過ごすしかなかった。体力低下と暑さのため、グラウンドに出て動くだけですぐにバテた。投手にとってスタミナは死活問題。ヴァデルナは監督と相談し、まずは体力を回復させるためのランニングメニューを増やした。

コロナ禍の影響で練習再開は夏の大会直前だったが、甲子園で2勝を挙げたヴァデルナ(右、撮影・朝日新聞社)

「監督からも、『何があってもコロナを言い訳にするのは絶対にやめよう』と言われて、僕らも『限られた時間の中でも出来る限りのことはやろう』と部員みんなで言い合っていました」と一番苦しかった時期を振り返る。

「いつも試行錯誤しながら投げていた」

練習試合も組めないまま、ぶっつけ本番で突入した夏の山梨大会。「とにかく怖かった」という初戦の甲府一戦を3-2でサヨナラ勝ちすると、勢いに乗って勝ち上がり、甲子園出場を決めたのだった。

甲子園での活躍を受け、大会後にいくつかの大学から誘いがあったが、最初に声をかけてくれた青学大に進んだ。けがもあって春のシーズンは何もできずに終わったが、安藤監督からは「焦らず、しっかり下半身を作ってから」と、高校時代と同じように土台となる体作りを徹底されている。

「今の自分の状態では、この秋の公式戦でバリバリ投げるというのは難しいかもしれません。でも、今年のうちに何か手応えをつかんで、来年以降につなげていきたいと思っています」

青山学院大学ではまず体作りに専念している(撮影・矢崎良一)

ヴァデルナは明るく言う。あの夏があったから、今、こうして大学で野球を続けられている。そして、あの夏につながった春の成長。それを導いた冬場の葛藤と努力。「いつも試行錯誤しながら投げていた」という高校時代。そのすべてが、今の確かな手応えとなっている。

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