順天堂大・村竹ラシッド、初の世界陸上から日本インカレへ 濃密な3年目に得たもの
110mHの村竹ラシッド(順天堂大3年、松戸国際)は、6月の日本選手権で2位に食い込み、7月の世界陸上(アメリカ・オレゴン)で初めて世界の舞台に立った。その後、ゆっくり休む間もなく、9月9日からの日本インカレに出場。2年ぶりの優勝を飾り、チームの総合優勝に大きく貢献した。自身のキャリアの中でも、最もタフで濃密な時間だった夏を改めて振り返ってもらった。
「8点を獲ることが自分の仕事」
日本インカレにおいて、前々回はルーキーで初出場ながら優勝し、昨年も3位に入った。しかし、村竹自身3回目となる今回の日本インカレが過去2回と異なる心境だったのは、上級生になって芽生えてきた自覚や責任感が作用したのだろう。
「前回までは正直、自分のために走っていたところが大きく、あまりチームのためにという意識はありませんでした。でも、今回は一番長く一緒にいた先輩たちが4年生となって、インカレにかける思いを間近で見てきましたし、自分は絶対に8点(1位)を獲(と)らなければいけない立場。対校戦への思いは一昨年や去年より何倍も強かったと思います」
今までにない連戦をこなしてきた今シーズンは、それだけ疲労も蓄積していたが、「対校戦なので、そんなことは言っていられない。とにかく勝つことだけを目標にして、体に鞭(むち)を打って臨みました」と振り返る。「できるだけ力をセーブしながら、でも、次のラウンドでいいレーンで走りたいので、1着にこだわった」と、初日の予選を13秒56(-0.5)、翌日の準決勝を13秒62(+0.5)で、いずれも組1着で突破。決勝は藤原孝輝(東洋大2年、洛南)に前半から大きくリードを許したものの、「焦りはなかった」という。
「スタートは藤原君が予想以上に良くて、僕もいい手応えではなかったです。でも、差せる感覚はありましたし、中盤ぐらいで後半に差しに行こうと思って、8台目で差せることを確信しました」
持ち味の後半で一気に抜け出した村竹は、13秒36(+0.7)の好タイムでフィニッシュ。2年ぶり2度目の日本インカレ制覇は、「8点を獲ることが自分の仕事。負けるわけにはいかなかった」という使命感によってつかんだと言えるかもしれない。喜びを感じられたのは、むしろチームが遂げた2年連続30回目の総合優勝の方だった。
「4年生が最後にいい思いができて、涙を流している先輩もたくさんいましたし、そういう姿を見て、順大で総合優勝できたことやそれに貢献できたことが本当に良かったです」
最高のコンディションで日本選手権へ
村竹にとって、今シーズンの最大の目標は7月の世界陸上出場だった。そのためには6月の日本選手権にピークを持っていくこと。「週3、4回のウェートトレーニングと走ることをひたすら繰り返した」という冬季練習を順調にこなし、「想像以上にいい形でシーズンインを迎えることができた」と話す。
実際、4月の日本学生個人選手権を皮切りに、織田記念、5月のセイコーゴールデングランプリと初戦から3連勝。学生個人では追い風2.2mの参考記録ながら、13秒30をマークし、セイコーでも13秒34(+0.1)と内容も充実していた。世界陸上の参加標準記録(13秒32)には届かなかったものの、村竹は確かな手応えをつかんでいた。
腰の違和感から5月の関東インカレは大事をとって回避したが、「気合いの入り方が違った」と、心身ともに絶好調と言える状態で日本選手権を迎えられた。「絶対に通らないといけないけれど、前半はしっかり走って、後半は落ち着いて刻むことだけを意識した」という11日の予選で13秒27(+0.5)。自身も驚く自己ベストと世界陸上の参加標準記録突破だった。
準決勝の「中盤に加速しすぎてバランスを崩し、転倒する寸前だった」という危機を乗り越え、翌日の決勝は13秒31(-1.2)で、順天堂大学の先輩でもある泉谷駿介(住友電工)に次ぐ2位に入った。念願の世界陸上の代表の座をつかみ、「冬季からずっと気が張りつめていたので、ようやく安心できました」と語った言葉は心からの本音だった。
世界陸上で浴びた世界の洗礼
一つの難関をクリアした村竹は、決戦の地・オレゴンに乗り込んだ。「応援してくださっている人たちの期待に応えたい気持ちはありましたが、『国を背負って』というような思いはありませんでした」と、いい意味でいつもの村竹らしく振る舞い、現地では「見るものすべてが新鮮で楽しかった」と振り返る。
ただ、迎えた大会2日目の予選でスタートラインに立った時、「自分が小さい頃からテレビで見てきた世界陸上。この舞台で本当に自分が走れるのか」という思いが頭を巡り、「現実感がなくて、レースに集中できなかった」と明かす。案の定、「重心が低すぎて、腰が低かった。攻めていこうという意識が裏目に出た気がします」と、1台目からハードルに引っかかり、そこから最後まで立て直すことができなかった。13秒73(+0.2)の6着で、初めての世界大会は「あっさり終わっちゃった」という感覚だった。
「今年の目標が世界陸上に出ることだったので、その先にあるものを見据えていなかったことが今回の結果につながってしまった気がしています」
いくつもの挫折を糧にトップ選手へと成長
400mHの元日本記録保持者で、かつてオリンピックや世界陸上といった大舞台で活躍した山崎一彦監督は、2年前の春に順天堂大に入学してきた村竹を「指導しやすい選手でした」と回想する。
「インターハイで勝っていますが、彼のいた高校は強豪校ではなく、普通の部活動だったようですから、逆にこちらとしてはやりやすかったです。体にしても技術にしても伸びしろがたっぷりあって、知識も含めて、すべてを吸収してくれていると思います。でも、自分で考えて判断できるし、しっかり会話もできるのが彼のいいところです」
村竹のハードラーとしての長所も、「もともとハードルの入り方や空中動作が良かったですが、大学に入ってから筋力がついてきて、跳んだ後の動きが良くなり、インターバルが走れるようになりました」と分析する。
高校3年生でインターハイ、国体、U20日本選手権の“全国三冠”に輝き、順天堂大に進んでからは1年目に日本インカレ制覇など、村竹の競技人生は一見、順風満帆に思える。ただ、栄光の陰には挫折や苦い経験があったことも述べておく必要があるだろう。
高校2年生のインターハイは、決勝でトップに立ったものの、隣の選手と腕が接触してリズムを崩し、人生初の最下位となる8位に終わった。昨年の日本選手権では、予選で13秒28(+0.5)と自己ベスト(当時)をマークして東京オリンピックの参加標準記録(13秒32)を突破したにもかかわらず、決勝は人生初の不正スタートで失格。そうした悔しさや屈辱を糧に成長し、村竹は必ず1年後に最良の結果を残してきたのだ。
会場が去年と同じで、決勝も去年と同じレーンだった今年の日本選手権は、スタート前に1年前の記憶が頭をよぎったという。しかし、「今まで練習を積み重ねてきましたし、冬季もこれまでで一番、練習をしてきた自信があったので、去年の失敗ごときにひるんでいられない」と強い覚悟で号砲を待った。
ラストイヤーは海外レースにも挑戦してみたい
初出場を果たした世界陸上は予選敗退に終わったが、「柔軟性や重心を引き上げる動作など、体の根本的な部分から直さないといけない」と、世界で戦っていく上での課題が明らかになった。オレゴンでの経験は、必ずや来年の世界陸上(ハンガリー・ブダペスト)で生かしてくれるはずだ。そして、2024年にはパリオリンピックと世界大会が続く。
「来年は準決勝まで行って、パリで決勝まで行けたら最高です。でも、日本選手権で決勝まで行くというような次元の話ではないので、これまで以上にいろいろなことに取り組まないといけないと感じています。大学最後の年になる来年は、対校戦のこともしっかり考えたいですし、海外の試合に出てみたい思いもあって、やりたいことがいろいろあってまだ整理できていないというのが正直なところです」
時に足踏みしながらも着実にステップアップを遂げてきた村竹。オレゴンで世界の扉を開いた先に、さらなる異次元の世界があったことを肌で感じ、競技への探求心がますます高まっている。今年の熱い夏は過ぎたが、村竹の熱い戦いはまだまだ終わらない。