慶應大から巨人2位指名の萩尾匡也 高2の夏に村上宗隆から教わった、勝負の厳しさ
私は巨人ファンの方がうらやましい。こんなすばらしい選手を、ひいき球団で応援できるのだから。11月6日に幕を閉じた東京六大学野球秋季リーグで、戦後16人目となる三冠王(打率4割、4本塁打、17打点)に輝いた慶應義塾大学の萩尾匡也(4年、文徳)のことだ。10月のドラフト会議で読売ジャイアンツから2位指名を受けたスラッガーは、プレーだけでなく、その人柄も魅力的なのだ。
雰囲気が重たい場を和ませてくれる
東京六大学野球では現在、試合後に両チームの監督と選手2人ほどが指名されて横に並び、それを記者が一斉に囲む。記者会見のような形式で、取材が行われている。この形式は取材時間の制限もあるため「みんなが聞きたがっているような質問をしなければ……」といった具合に記者同士が牽制(けんせい)し、なかなか雰囲気が重たい。
そこへ萩尾が来ると、ユーモラスを交えたコメントで場を和ませてくれる。本人がそういったことを意識していたかは分からないが、私としては非常に助かっていた。それに、萩尾は自分が発言していないときは、監督や同席した選手のコメントをうなずきながら聞いているのだ。この気遣いは、なかなか大学生でできるものではない。
象徴的だったのは閉会式終了後、首位打者になった萩尾が、最優秀防御率に輝いた早稲田大学の加藤孝太郎(3年、下妻一)との合同取材に臨んだときの一幕だ。「抑えられちゃいましたね」などと加藤をたたえつつ、やはり場を回して明るくしてくれていた。早慶戦で連敗し、目前だった優勝を逃した直後だというのに。試合後にベンチ前で突っ伏し、目を腫らしていた姿からも、チームの主力として人一倍の悔しさを抱えていたことは想像に難くない。こうした聡明(そうめい)さ、謙虚さは、萩尾の球歴も関係していることだろう。
動揺した高校2年夏の九州学院戦
熊本県大津町出身。4姉弟の末っ子で、元々は8学年上の兄の影響でバスケットボールをしていた。藤崎台県営野球場で見たプロ野球の福岡ソフトバンクホークスと北海道日本ハムファイターズの試合に魅せられ、小学4年から野球を始めた。中学時代は、ボーイズリーグに所属して投手、外野手として活躍。学業もオール5で、県内屈指の進学校、済々黌(せいせいこう)高校に進むことも考えていた。
悩んだ末、選んだのは私立の文徳高校だった。高校近くのアパートに引っ越して野球に懸けた。母親が実家とアパートを行き来して、食事面などの生活を支えてくれた。入学直後の紅白戦で本塁打を連発し、1年春から4番に座った。当時、甲子園まであと一歩のところでの敗退が続いていた文徳の平井洋介監督(現・同校女子ソフトボール部監督)は、「実力が飛び抜けていた。(甲子園の)壁を破るには、絶対に必要な選手だと思っていた」と、学年のリーダーも任せた。「人懐っこくて、先輩にもすぐに可愛がられていた。人一倍、二倍も練習するような子だったので、1年生からレギュラーでも、誰からも文句は出なかった」と振り返る。
高2の夏、萩尾にとって忘れられない試合が訪れる。打撃戦になった熊本大会の準決勝だ。文徳は八回裏に逆転を許したものの、九回表に1点を返した。8-10で、なお2死三塁。一発が出れば同点の場面で打席に向かった。相手バッテリーがマウンドに集まった。タイムが解けて、いざ勝負。そのときだ。相手捕手の声が聞こえた。
「絶対打たせないからな」
独り言とも、自分への挑発ともつかないその言葉に、動揺した。心が整わないまま遊ゴロで凡退し、試合が終わった。声の主は九州学院の主将だった村上宗隆(東京ヤクルトスワローズ)だった。後にプロ野球で三冠王になる先輩に、このとき勝負の厳しさを教わった。
座右の銘は「笑門来福」
この敗戦後、主将を任された。秋の県大会は同校初の優勝を飾り、春の県大会も優勝した。夏は21年ぶりの甲子園出場の最有力候補だった。だが、初戦の2回戦でまさかの敗退。「普通にやれば優勝できる」。そんな気持ちがあった。試合後、泣き崩れた。ショックは大きかったが、膨らんでいた夢のために再出発を切った。東京六大学野球への挑戦だ。父が六大学でのプレーを勧めてくれた。面接では対策を重ね、慶應義塾大のAO入試に合格した。
地道に木製バットに対応し、2年春にデビュー。初打席で本塁打を放った。3年春にレギュラーをつかんだが、また壁にぶつかった。我慢して起用を続けてもらったが結果が出ない。「能力のある選手がそろっているのに、試合に出続けなければならないのがつらかった」。チームは優勝して全日本大学選手権への出場権を得たが、自分はメンバーから外された。ふがいなさがあふれ、寮で人目もはばからずに泣いた。そのときに救ってくれたのは、同部屋だった先輩の言葉だ。前主将の福井章吾さん、前副将の前田寛太さん。
「技術は十分に足りている。もっと楽しんで野球をやれば良いんだよ」
そういって励ましてもらうと、心がすっと晴れた。レギュラーを取り返す気持ちで、一層練習に打ち込んだ。その頃から、座右の銘は「笑門来福」。3年秋は打率3割台の好成績をおさめた。4年春は5本塁打、17打点の打撃2冠。野球を楽しむ気持ちをプレーに乗せ、今では笑顔が萩尾の代名詞になっている。
自分の結果より、チームの勝利。それが萩尾の信念だ。三冠王を達成したものの、早慶戦に連敗して目前で優勝を逃し、「勝ちにつながる一打のためにやってきた。最後に迷惑をかけて申し訳ない」と涙を流した。プロで目指す選手像もぶれない。「自分の数字が出ないと生き残れない世界だけど、チームの勝ちに貢献することを第一にするのは変えずにやっていきたい」。この言葉がきれいごとに聞こえないのは、彼の人間性だろう。大学最後の早慶戦での悔しさも糧に、プロではさらに輝けるはずだ。挫折にくじけず成長を続けてきた萩尾なら、きっと。