野球

早稲田大の今井脩斗内野手、大けがと開幕ベンチ外から仲間に支えられて三冠王

2人でとった三冠王。早稲田大の今井脩斗(左)は占部晃太朗と最後に記念撮影した(本人提供)

東京六大学野球秋季リーグ戦で早稲田大学の今井脩斗(しゅうと、4年、早大本庄)内野手が三冠王に輝いた。打率4割7分1厘、14打点、3本塁打。東京六大学では戦後15人目の快挙で、あきらめていた野球を続ける道も開けた。夏場までは注目されていなかった強打者に話を聞くと、同期2人への思いがあふれた。

3カ月のブランクを取り戻したい

「まさか自分が三冠王になれるとは思ってもみませんでした。今でも信じられません。ただ、三冠王になれたのは、自分のために動いてくれた仲間がいたから。あの2人には感謝しかありません」

最後の雨の早慶戦までフルスイングを貫いた(撮影・以下は全て朝日新聞社)

あの2人。1人は学生コーチの占部晃太朗(4年、早稲田佐賀)だ。

時計を昨年の6月に戻す。今井は持ち味であるパワーに磨きをかけようと、ベンチプレスで120㎏のバーベルを持ち上げていた。前年の2年秋に代打で4試合を経験。コロナ禍で8月に延期された春のリーグ戦ではスタメン出場を目指していた。ところが、あろうことか手を滑らし、バーベルが胸に落下。胸骨を骨折する全治3カ月の大けがとなり、今井の大学3年目のシーズンは終わった。

それでも切り替えは早かった。

「何日かは『やってしまったな』と後悔してましたが、すぐに『野球ができない期間を活(い)かそう』と。トレーニングのことを勉強したり、自分の内面と向き合えた時間になったと思います」

しかし、3カ月以上に及んだブランクは大きかった。なんとかして取り戻したい……そこで相談したのが、学生コーチの占部だった。「無理を承知で、自分のために自主練習の手伝いを、打撃投手をしてほしいとお願いしたんです」。誰よりも早くグラウンドに入り、練習の最後までサポートをする学生コーチは、拘束される時間が長い。だが占部は今井の頼みを快諾し、さっそく2人きりの打撃練習が始まった。それから毎日夜9時になると、静まり返った室内練習場に乾いた打撃音が響いた。

14mの真剣勝負

今年の秋のリーグ戦が終わるまで続けられた2人きりの打撃練習は、いつも試合形式で行われた。1番から9番まで全て今井が入り、打球方向で結果を判断。仮に1死からヒット性の打球を打ったら、1死一塁の状況で次の打席に立つ。イニングは九回まで。練習が終わり、ボールを拾い集めると、いつも深夜になっていた。

マウンドからホームまでの距離は、通常の18.44mより約4m短くした。占部は高校3年夏、第99回全国高校野球選手権大会に4番・三塁手の主将で出場した経験を持つ。元投手ではなかったが、14mの距離で全力投球をした。変化球もインターネット動画で覚え、だんだんと球種が増えていったという。占部は「絶対に打たせない」と投げ、今井は「絶対に打ってやる」とバットを振った。

占部は創部8年目の早稲田佐賀高を初の全国選手権へ引っ張り、甲子園で安打も放った

「14mの真剣勝負」は、打者にとって生命線ともいえる動体視力を、そして反射神経を鍛えた。

「秋のリーグ戦では150㎞のストレートも速く感じませんでした。変化球もしっかり見極められた。占部に投げてもらった変化球をたくさん見てきたので、変化の軌道がイメージできたからだと思います。あと、たとえ打てなくても、次の打席に引きずらなくなりました。占部との試合形式の練習では、たとえ打てなくても次の打者も自分なので、すぐにリセットしなければいけません。それを重ねたことで、自然にメンタルが安定した気がします」

三冠王という栄誉を手にした陰には、占部と二人三脚で取り組んだ「14mの真剣勝負」があった。

誰よりも今井の打撃を買っていた小宮山監督

もう1人は主将の丸山壮史(まさし、4年、広陵)である。「もし丸山が小宮山(悟)監督に頭を下げてくれなかったら、僕の秋のシーズンはなかったと思います」。三冠王や初のベストナインを手にすることも、野球は大学までとあきらめていた中、社会人野球の名門・トヨタ自動車からオファーが来ることもなかっただろう。

レギュラーの座を手中にしていた今春は、ひじの故障で出遅れたが、最終週の早慶1回戦で初スタメン。2回戦でも5番に座った今井は、秋も打線の中軸として期待されていた。小宮山監督からは夏の練習で「右方向へも強い打球が打てるようになれば、秋は首位打者を獲れる」と、予言めいた言葉をかけられていたという。それなのに、秋の開幕カードの立教大学戦、今井の名はメンバー表にもなかった。

ベンチ外になったのは、自分がチームに貢献できるのはバットと、守備より打撃を優先したためだった。3日連続で守備練習の時間にデータ班との打ち合わせをしていたことが、小宮山監督の目には「苦手な守備をおろそかにしている」と映った。期待が大きかった分、落胆も大きかったのだろう。何よりも「ワセダの選手としての姿勢」を重んじる小宮山監督は、今井に「伝統あるユニフォームを着る資格なし」と断を下した。

3年時の胸部骨折、一時社会人での野球継続を断念する引き金となった今春の右ひじ故障と、困難を乗り越えてきた今井だが、「ああ、これで本当に自分の大学野球は終わったなと思いました」。

立教大戦後、監督室をノックし、「もう1度、今井にチャンスをあげてください」と願い出たのが、丸山だった。「主将の顔に免じて」と、小宮山監督は次の東京大学戦から、今井をスタメンに復帰させる。打順は中軸ではなく8番だったが、最初の試合でいきなり3ランを含む5安打7打点をマーク。その後も丸山の恩に報いるかのように打棒がさく裂し、4カード目の明治大学戦からは4番に座った。

早大を支えた徳山、丸山主将、鈴木、岩本(後列左から)と、一緒にトヨタ自動車へ進む慶大の福井主将

「打撃に関してはプロレベル」。実は誰よりも今井の打撃を評価していたのは小宮山監督だった。その小宮山監督からは、秋のリーグ戦後、「これからは三冠王を獲ったことで厳しい目で見られることもあるが、三冠王を自信に前に進め」とエールをもらったという。

自分の強みを徹底的に磨き上げる

今井の三冠王への道のりは、早稲田大学本庄高等学院に入学した時から始まっていた。早大本庄は埼玉屈指の難関校として知られるが、野球は決して強豪ではない。

「そこで、現実的に甲子園に行くのは難しい中、何を目標にするか、考えたんです。僕は早大で野球をしたかったので、そのための準備期間、自分の武器を大学でも勝負できるものにしようと」

得意としていたのは、高校時代からバッティングだった。「当たれば飛びました(笑)」。今井は高校通算で15本塁打を記録している。通学に2時間かかり、平日の練習時間はせいぜい3時間と、打撃をレベルアップする時間は限られていたが、その分、頭を使った。「主体性を重視する野球部だったのもあり、どうすれば効率良く改善できるか、いつも考えながら練習してました」

今井(右端)は早大本庄高で甲子園に届かず、最後の夏は埼玉大会で熊谷商と引き分け再試合も

同期には早大で捕手から投手に転向し、主にリリーフとして活躍した山下拓馬もいた。3年夏は埼玉大会2回戦では延長十五回引き分け再試合を演じたが、3回戦敗退。今井の目に涙はなかった。「高校野球が終わった感傷的な気持ちより、いよいよ次は大学野球だなという思いが優っていました」。高校野球引退後は、ウェートで全身くまなくビルドアップし、スイングスピードを高めていった。

いざ早大野球部に入部すると、選手の能力は想像以上に高かった。「これから走・攻・守を平均的に高めていっても、太刀打ちできないと悟りました」。一方で、自分の武器である打撃は、こと飛ばす力においては、高校時代から名が知れた選手にも負けていなかった。長所を徹底的に伸ばそうと決意した今井は、最上級生でレギュラーになるビジョンを描き、高校時代同様に自分で考えながら改善を重ねた。最後のシーズンでずっと課題にしていた確実性が上がったのもその賜物(たまもの)である。

物議をかもした守備も嫌いではない

決してエリートではなかったが、最後のシーズンに三冠王を獲得。その裏には強みを磨き続けた道のりと、良き仲間のサポートがあった。

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