野球

関西大・定本拓真、マウンドが遠かったラストシーズン 信じた「1ミリの可能性」 

敗退後、スタンドへあいさつする定本(撮影・小俣勇貴)

明治神宮野球大会、準々決勝。関西大学は1-2で明治大学に敗れた。ベンチで仲間の勇姿を見届けた後、荷物の片付けを黙々と手伝う4年生がいた。背番号15を背負う定本拓真(三重)だ。降りしきる雨のなか、何を思ったのだろうか。この秋、公式戦に一度も登板することはなく、静かに大学野球を引退することになった。

期待値の高かったがゆえに抱えた悩み

高校時代はエースとして3年春のセンバツ(第90回記念選抜高校野球大会)でベスト4進出の立役者となった。準決勝では後に春夏連覇を果たす大阪桐蔭高と、延長十二回まで渡り合った。

関西大に入学してからも期待値は高かった。1年秋にリーグ戦初登板し、2年秋には4勝をマーク。3年秋には最優秀投手に輝くなど、投手陣の柱となっていた。

第90回選抜高校野球大会準決勝の大阪桐蔭戦で力投する定本(撮影・朝日新聞社)

だが、定本自身は確かな手応えを得られていなかった。

「期待をしてもらっていたのに、なかなかその期待に応える活躍ができませんでした。リーグ戦によっては開幕してから出だしは良くても終盤に調子を落とすこともありました」

4勝した2年秋の翌シーズンの3年春はわずか1勝。最優秀投手となった3年秋も2勝にとどまった。4年春は1勝。圧倒的な結果が欲しかった。

練習には人一倍取り組んだ。やれることもきっちりこなし、努力を重ねてきたつもりだった。それでも、納得できるような結果が伴わない。磨き上げた最速152kmのストレートを武器に、最後のシーズンにかけようと思っていた。その矢先だった。

1年秋に頭角を表し、投手陣の柱へと成長した(撮影・小俣勇貴)

「絶望」の中に見いだせた希望

9月5日。フィールディングの練習中に、右ひざに激しい痛みを覚えた。診察すると膝蓋骨(しつがいこつ)骨折と分かった。全治は2カ月ほどの見込みと言われた。9月8日にボルト2本で骨を結合する手術を受けた。

「正直、けがが分かった時は絶望しかなかったです」

術後1カ月は膝をギプスなどで固定していたため、ひざ周りが硬くならないようにほぐすリハビリを徹底的にやった。ギプスが取れてからは、歩くリハビリ。足を上げる練習から、軽いスクワットやジョグへと強度をあげつつ、ネットスローで投げる感覚も維持してきた。

主治医からは明治神宮大会出場を決めたとしても、投げるのは厳しいと告げられていた。ただ、定本は希望を捨てていなかった。

「1ミリの可能性だけを信じよう」

そう言い聞かせて、リハビリに黙々と取り組んできた。仲間がかけてくれた言葉が前を向かせてくれた。

「僕を神宮大会に連れて行ってくれると言い続けてくれたんです。それもリハビリの励みになりました」

チームは関西第二代表で明治神宮大会行きを決めた。定本はベンチ入りを果たした。

初戦の東京農業大北海道オホーツク戦は登板なしに終わったが、勝利に晴れやかな表情だった(撮影・小俣勇貴)

見つめた仲間の躍動

11月18日、東京農業大学北海道オホーツクとの1回戦。試合中、ブルペンに入って肩を作った。ただ心底、マウンドに立つことは難しいことは覚悟していた。だから、仲間の背中を押そうと必死に大きな声を出して盛り上げた。チームは4-1で初戦を突破した。

初戦の終盤、淡々と肩を作っていた(撮影・小俣勇貴)

2日後の20日。明治大学との一戦では、4年間、共にマウンドを守り、投手陣を支えてきた鷲尾昂哉(4年、登美ケ丘)が強力打線を相手に8回2失点と力投した。被安打3、13奪三振。ライバルでもある右腕の奮闘を定本は目に焼き付けるように見つめていた。しかし、味方打線が相手投手を打ち崩せず、敗れた。

学生野球のラストシーズンは、完全燃焼とは言えない形で終わった。試合後、エース左腕の金丸夢斗(2年、神港橘)とクールダウンのキャッチボールを終えて握手を交わした。関西大学として1972年以来となる「大学日本一」は、後輩に託した。

明治大に敗退後、後輩の金丸(左)と握手をかわした(撮影・小俣勇貴)

変わらぬ期待 「これからもっと伸びる」

だが、定本の野球人生はここで終わりではない。試合後の取材で、早瀬万豊監督はこう話した。

「(今の4年生は)段々と力をつけてきた選手ばかりで、これからもっと伸びていくと思います。卒業後、4人が社会人で野球をやらせていただきますが、これからもっと伸びていってくれるはずです」

その4人の中には鷲尾はもちろん、定本も含まれている。

次のステージでこそ、期待以上の姿をマウンドで披露する――。目標と希望が、定本を前へと誘う。

in Additionあわせて読みたい