ハンドボール

特集:駆け抜けた4years.2023

戸谷崇志・青学大の守護神、全日本インカレへ牽引「ハンドボールは人生の教科書」

チームワークは戸谷が作り上げた(すべて撮影・青山スポーツ新聞編集局)

戸谷崇志。ハンドボールファンであればこの名前を一度は聞いたことがあるだろう。

「ハンドボールのまち」として知られる富山県氷見市出身。中学からハンドボールを始め、高校では強豪の氷見高校へ進学。ハンドボールの世界最高峰リーグ・欧州チャンピオンズリーグ(CL)に日本人男子選手として初出場した安平光佑(ポーランドのプウォツク所属、日本体育大学4年)、や窪田礼央(大同特殊鋼、日本体育大4年)といったメンバーらと共に2年生でインターハイ準優勝。

3年生の時に春の選抜・インターハイ・国体の全てで優勝し見事に3冠を達成。特にインターハイ決勝での戸谷のプレーは動画サイトで反響を呼び、「当たりすぎたキーパー」としても知られている。

当時の優勝メンバーは日体大学や筑波大学、明治大学といった関東学生ハンドボールリーグの1部リーグで常に優勝を争っている大学へと進学した。

だが戸谷が選んだ進学先は、2部リーグで優勝から遠ざかっていた青山学院大学。その選択の理由と戸谷の4年間について迫った。

高校時代の輝かしい成績、「黄金世代」中での葛藤

高校時代に3冠という華々しい成績を残した戸谷だが、本人は周りのすごさに後押しをされて成し遂げたという気持ちが強かった。

当時の氷見高校は黄金世代と呼ばれており、優勝を簡単に目指せるといっても過言ではないメンバーがそろっていた。戸谷はそのメンバーのおかげで3冠を達成できたという気持ちがあった。

大学では高校と違い、自分が周りを動かして成果を上げたいという気持ちが強かった。1部リーグの大学で日本一を目指すという選択肢もあった。だが、それでは高校時代と同じプロセスを踏むと考え、新しいチャレンジとして1部昇格を目標としていた青学大へ進学した。

頭を抱える戸谷

1部昇格を本気で目指すチームのはずが…ギャップ大きく

大学入学後に感じた高校との違いは、ハンドボールへの取り組み方だったという。

氷見高校ハンドボール部は自主性が強いチームとして知られているが、当初は大学も自主性が強く大した変化はないだろうと考えていた。

だがその考えは大きく違った。

大学生にはプライベートの誘惑がたくさんある。また学年を重ねていくごとに進路を考えなければいけない瞬間も訪れる。そんな中で「ハンドボールだけに打ち込んでいて大丈夫なのか?」と考えるプレーヤーが多く、1部リーグのチームでさえもハンドボールだけに打ち込んでいる選手は少なかった。

そんなギャップに戸谷は驚いた。また、当初は青学大ハンドボール部の印象は最悪だったという。1部昇格を目指しているチームとは思えぬ雰囲気で、最上級生の遅刻は当たり前であり、下級生は練習中、上級生への忖度(そんたく)が多かった。

そんなチームを見た戸谷は当初サークルと勘違いした。戸谷は1部昇格を本気で目指していると聞いて入学したが、実際の状況とのギャップに困惑した。

主将に就任、感じたチームビルディングの重要性

戸谷は3年の秋季リーグから主将に就任。4年生の秋に出場した全日本インカレまで務めたが、この1年間は「キツかった」と振り返る。

3年の秋季リーグは、青学大に入学してから最高の3位。主将就任後の最初のリーグ戦だったこともあり、このまま流れに乗ってチームを変えてゆき、最終年は1部昇格をもくろんだ。

だが簡単にはいかなかった。大学生は3年生の終盤になると就活の時期がやってくる。そのため同期が練習に参加しなくなることが増えていった。

戸谷は練習に来ない同期にストレスを感じた。一方で練習に来る他の同期は、従来とは違うことをしようとする戸谷と就活にストレスを感じるという負の連鎖が起こった。

戸谷自身も就活のため、意思疎通がうまく行かずこの問題が解決しないまま4年生となった。

この意識のギャップを埋めるために戸谷は部員との定期的な面談を導入した。結果的に就活を有利にするために体育会部会に所属している部員など、1部昇格を目指すチームづくりと目的が合っていない部員は退部する形となり、チームが固まっていった。

青学大メンバーと過ごした4年間はかけがえのないものに

その結果、徐々に戸谷のやり方に賛同する部員の割合が増え、チーム全体が同じ方向を向いていき、戸谷が「いい雰囲気」と感じる中で4年の春季リーグ戦へと臨んだ。

実際、チームの調子は良く、3年の秋季リーグで惜しくも敗れた明星大学に17点差で大勝するなど、念願の2部リーグ優勝に向けて突き進んでいった。

だが、リーグ戦残り3試合で迎えた日本大学戦。日大は1部から降格したばかりで力があり、12点差の大敗を喫した。

試合前には戸谷の負傷が発覚し、結果以上に差が見えた試合となった。2部リーグは基本的に1週間おきに試合が設定されているが、翌週は相手チームの新型コロナ感染のため不戦勝に。

次の試合まで2週間の時間ができた。その間、けがの治癒に力を注ぎ、チームとしても日大戦で途切れた気持ちを入れ替えた。

そして迎えた最終節の関東学院大学戦。2位を争っていて、最終節で勝った方が入れ替え戦への切符を手に入れることができる。

そんな試合で見事に勝利を収め、戸谷は青学大に入学してから初の入れ替え戦へ出場した。戸谷は「この2週間が無ければ関東学院大戦も敗戦していた」と語る。

もし、この試合に負けていれば3位に終わり、入れ替え戦にも東日本インカレにも全日本インカレにも出場ができなかった。4年生を振り返った中で、一番のターニングポイントとなった試合だった。

そして東日本インカレも順調に勝ち進み、戸谷が目標としていた青学大ハンドボール部史上2回目となる全日本学生選手権大会への出場権を手にした。

全日本インカレでは惜しくも青学大史上初勝利を挙げることはできなかったものの、「楽しかった」と語る試合を最後にハンドボール部から引退した。

チームを作りあげた経験は何事にも変えられない

入学当初は最悪というイメージだったチームを、戸谷は変えることができたと自負する。主将就任当初、問題点と考えていた意識のギャップも徐々に埋まり、チームの雰囲気もよくなっていった。

試合前にはほとんどなかったコミュニケーションも増え、試合のクオリティー向上にもつながった。そして何より主将としてチームを作ってきた経験は何事にも変えられないものだという。

高校時代は強いチームで当たり前のように日本一を目指す生活だった。だが、大学では自分がどのように人を動かし巻き込み、どのように組織を変えて勝てるチームを作っていくかを考え続けた。4年間を振り返って「辛かったこともあるがこのような経験ができたことは良かった」と話す。

戸谷は感情を表に出す熱いプレーヤー

世界に羽ばたく同期に「刺激をもらっている」

氷見高校時代の同期は世界中で大きな活躍を見せている。

主将を務めエースだった安平光佑は日体大に籍を置きながらポーランドのプウォツクに所属し、欧州チャンピオンズリーグに出場。1月には日本代表のトップチームにも選出されスタメン出場を果たした。

また、3枚看板と呼ばれていたうちの一人、窪田礼央も日体大に在籍し、1月から日本ハンドボールリーグの大同特殊鋼に追加登録された。そんな活躍を間近で見てきた戸谷は彼らを尊敬している。

戸谷は大学に進学する際に自分の能力を突き詰めることをやめ、チームづくりに専念をしたが、彼らは自分の能力を高めることを、高校時代と変わらず突き詰め続けた。

そして高校時代と変わらず世代トップ選手として活躍し続けている。また自分よりも能力が高い人が、自分よりも努力をしているという光景を見続けてきた。そんな彼らに尊敬しつつ、「自分も今後の人生で何かを突き詰めたいと刺激をもらっている」と話した。

後輩へのバトン「コミュニケーション充実を」

青学大の次期主将は坂直哉が務めることが決まっている。坂は氷見高校時代からの戸谷の後輩である。

戸谷は坂に積極的なコミュニケーションをとってほしいと話した。戸谷は体育会らしい熱い言葉をちゅうちょなくかけることができる性格だが、坂は少しシャイな部分もあり戸谷とは違う。

また坂は相手が何を考えているのかということを直接聞くことなく、自分の中で考えるタイプの人間だ。

戸谷は「そうしていると大学生活が終わってしまうし、大学生活を終えて後悔のないような部活動をしてほしい」と語る。そのためには「自分で考えるならば積極的に聞いてほしい」とコミュニケーションの充実を求めた。

戸谷は中学時代から10年間ハンドボールを続けてきた。弱小校で過ごした中学時代だったが、日本一を目指す高校に入学するという無謀な挑戦をした。それでも守護神として3冠を達成するなど結果を残した。

大学に入学してからも2部リーグで下位に沈んでいたチームを入れ替え戦に出場させた。

そんな無謀だと思われる挑戦も実現させた突破力に自信を持っている。また、高校時代も大学時代も終わってから悔いが残るということはなかった。それだけ自分で頑張ってこられたという自負があったからだ。

今後も物事に対してそのような取り組み方をしてゆきたいと話す。戸谷は大学をもってハンドボールからは引退するが、今後の人生でハンドボールを通して学んだことを生かすだろう。戸谷にとってハンドボールはかけがえのない人生の教科書だ。

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