ラグビー

特集:駆け抜けた4years.2023

明治大・小林瑛人 伝統校で初の入部時からグラウンドスタッフ 主務も兼務し得た経験

入学時からスタッフとなり4年間を駆け抜けた小林(すべて撮影・斉藤健仁)

過去4年間で2度、大学選手権の決勝に進んだ明治大学。「紫紺」のジャージーで知られる名門に、学生コーチや主務などのスタッフとして4年間を捧げたのが小林瑛人(4年、明大中野)だ。「自分ができること」を常に考えて行動し、練習でも試合でも常に声を出し続けて、選手を鼓舞し続けた。中学2年から通い続け「一番、思い入れのある」という東京・八幡山の練習場で話を聞いた。

想定外だったインターセプト

大学1、2年はグラウンドスタッフ、3年から学生コーチとして伊藤宏明ヘッドコーチをサポートし、4年では主務も兼任した小林。大学選手権準々決勝の早稲田大学戦、試合前はいつものように、仲のいい選手の一人PR中村公星(4年、國學院栃木)の背中をたたいて、選手たちを送り出した。

試合は途中までは「ほぼイメージ通り」だったという。しかし後半19分、相手陣で攻めていたときに、早稲田大のSH宮尾昌典(2年、京都成章)のインターセプトから許したトライは「想定外」だった。

トライとゴールで逆転できる21-27で迎えたラストプレー、明治大主将WTB石田吉平(4年、常翔学園)が早稲田大の主将・FL相良昌彦(4年、早稲田実)にジャッカルでボールを奪われ、そのままノーサイド。「『TRUST』を掲げて全員で準備しましたし、石田を信頼していたからこそ、悔しいですがやり切れたという気持ちにもなりました」と小林は振り返る。

大学選手権はラストプレーでジャッカルされ、早稲田大に敗れた

中学時代から続く、明治との縁

小林は小学校1年から、玉川学園中学と高校でラグビーを指導する叔父の影響もあり、東京・世田谷区ラグビースクールで競技を始めた。中学校は当時、ラグビー部があった大田区立雪谷中学に進学。ただ部員が集まらなかったこともあり、中学2年から明大中野中学との合同チームを結成した。明大中野中学・高校のラグビー部は、大学と同じ八幡山グラウンドで練習しており、小林と明治の縁はここから始まった。

中学時代から明治大のラグビー部員を間近で見ており、「格好いい!」と紫紺のジャージーに憧れた。小林は東京都選抜に選ばれ、慶應義塾大のSO中楠一期(4年、國學院久我山)の控えとして全国ジュニアで3位も経験。高校はスポーツ推薦で明大中野高校に進学した。高校1年時、チームは「花園」に出場したが、ベンチ入りはかなわず、高校2年、3年は東京都予選で敗退した。

高校3年の時、明治大は22年ぶり13度目となる大学日本一に輝いた。その姿を目の当たりにし、「より明治大でラグビー部を続けたい」と思うようになっていた。例年、希望すれば明大の系列高校からラグビー部に入部することができた。ただ小林の年代だけは、入部する部員が多かった影響もあり、系列校の高校生に向けてもセレクションが行われた。

小林は2月末から1週間、大学生と一緒に練習をしたが、明大中野高から5人中2人しか合格できず、「自信があった」というものの、残念ながら入部することがかなわなかった。今では「人生で一番のショックだった」と振り返る。

すでに入学金も支払った後で、他の大学に進学するという選択肢もなく、途方に暮れていた。そんなとき、田中澄憲監督(当時)から「学生のスタッフとして入部するのはどうだ?」と誘われたという。

サークルでラグビーをすることも考えたが、「明治大の体育会のラグビー部が好きだった」という小林は「大学生活は4年間しかない。明治大ラグビーに携わりたい」と入部を決めた。

中学時代から「紫紺」のジャージーに憧れた

本人のために設けられた「グラウンドスタッフ」

コーチや学生コーチをサポートする「グラウンドスタッフ」という役職は、小林のために新たに設けられたという。アナリストや学生トレーナーは大学1年時から務めることが多いが、コーチをサポートする学生コーチは選手が途中からなる場合が多く、大学1年からグラウンドでコーチ陣のサポートをするスタッフになったのは、長い部の歴史でも初めてのことだったという。

授業がある日の全体練習は、朝6時半からのスタート。小林は4時過ぎに起き、都内の自宅から自転車で八幡山に向かい、準備した。練習後、授業を受けたり、勉強をしたりすると、体力的にバイトをする時間や遊ぶ余裕もなかった。

全体練習は90分間ほどで、マーカーを置いたり、片付けたりするタイミングが悪いと怒られることもしばしばあった。一つ下の学年には、系列高校向けのセレクションがなく、2年時には高校時代の後輩も入部した。「本当はラグビーをやりたかった」「グラウンドの選手が憧れだった」と葛藤を抱えることもあり、「自分は何をやっているんだろう……」と思うこともあった。

そんな中、支えになったのは先輩たちの言葉だった。「ありがとう!」「瑛人の声があれば頑張れるよ」など、当時主将だったHO武井日向(ブラックラムズ東京)、LO石井洋介(クリタウォーターガッシュ昭島)、NO8坂和樹(浦安D-Rocks)の声に励まされ、徐々にコーチ陣から任されることも増えていった。

学生コーチの先輩が卒業した大学3年、小林はグラウンドスタッフから学生コーチとなり、選手たちと一緒に寮に住むようになった。伊藤ヘッドコーチからはBKを任されるようになり、コーチ陣と話す機会も格段に増加。選手から相談されることも増え「コーチングが楽しくなっていった」と振り返る。

伊藤宏明ヘッドコーチ

「ルビコン」と言われるC,Dチームへの指導だけでなく、公式戦に向けた対戦相手の分析、そしてノンメンバーに対して相手チームがやってくるアタックを落とし込むことなどが、小林の仕事になった。

また小林のもとに、高校時代から全国の舞台で活躍してきた同期や後輩から相談に乗る機会も増えた。その頃になると「本当は選手をやりたかった……」という葛藤も徐々に消えていった。

今思えば「幸せな決断だった」

3年目を終えた時点で、ほぼ単位を取り終えており、最終学年になると、学生コーチと主務の兼任を決めた。チームに前例はなく、コーチ陣からは反対されたが、神鳥裕之監督から許可をもらった。「好きなチームだったので(学生の)代表として責任をもってやりたかった」

朝5時半に起き、学生コーチとして朝練習に参加した後、バスや宿泊の手配、サプライヤーへの連絡、備品の購入、OB会への連絡など、主務の業務に追われた。夜は対戦相手の分析や練習メニューを考えるだけでなく、BKのミーティングで仕切るなど夜10時、11時までラグビー漬けとなった。

しかし、大学4年時の関東大学対抗戦は帝京大学に敗れて2位だった。「帝京大にリベンジして優勝する」と気合を入れて臨んだ大学選手権は、準々決勝でライバルの早稲田大に敗れ、4年間に終止符が打たれた。「4年間で、2度決勝に行きましたが、一度も日本一になることができなかったことは悔しかったです」

入学したときから学生スタッフになったことは、今、思えば「幸せな決断だった」と胸を張る。「選手として公式戦に出られない下積みの4年間よりもいい体験だったと思いますし、もしかしたらチームへの貢献度は大きかったのかな。おごらない姿勢、やり続けることの大切さを4年間で学びました。悔いはないです」と笑顔を見せた。

入学時からスタッフになったことは「幸せな決断だった」

再び八幡山に帰ってきたい

2023年、明治大は創部100周年を迎えた。後輩たちへの言葉をお願いすると小林は「明治愛というか、明治だから勝たないといけない、やらなければいけないという気持ちが薄れているような気がしています。100周年になるので、根本から明治のためにどうするか考えてほしい。そうすれば自分が成長することにつながる」とエールを送った。

卒業後は保険会社に就職し、会社のラグビー部で再び選手として競技を続ける。一方で「コーチングも続けたい」という気持ちも強い。「将来、再び、コーチとして八幡山に帰ってきたいですね!」と言い、9年間の思い出が詰まった練習場を後にした。

将来、再び八幡山に戻ってくることがあるかもしれない

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