東洋大学・齋藤良明慈縁 初の大学選手権に導き、歴史築いた主将「ご縁と運のおかげ」
2022年度の大学ラグビーで台風の目となったのは関東大学リーグ戦の東洋大学だった。29シーズンぶりとなる1部での戦い。開幕戦で昨季王者の東海大学を下し、その勢いのまま3位に。部の歴史で初めて大学選手権に出場した。計11カ国出身の選手たちをまとめたのがLO/FL齋藤良明慈縁(らみんじえん、4年、目黒学院)だ。「東洋大に来て良かった!人生が変わった」という齋藤の4年間に迫る。
観客の前でお辞儀をしている写真が好き
リーグ戦5勝2敗と堂々とした戦いを見せて3位に入り、創部64年の歴史で初めて大学選手権に出場した東洋大は、初戦で早稲田大学(関東対抗戦3位)と対戦。19-34で敗れ、激動のシーズンを終えた。「チームの調子は良かったと思いますが、それ以上に早稲田さんがいいプレーをした。もっとセットでプレッシャーを与えたかったし、細かいタラレバはいろいろありますが、悔いはないです」とキッパリ言った。
齋藤は早稲田大戦の試合直後、観客の前で、全員でお辞儀をしている写真が好きだ。2部だった大学1年時は、関係者や家族しか見ていなかった。大学2年、3年時はコロナ禍で無観客の試合がほとんどだった。「見ている人にプラスのエネルギーを与えたい」と思っていた齋藤は、初の大学選手権という舞台で6500人を超える観客を前に戦い「それが達成できるチームになった」と感慨深さを感じていた。
スポーツは向いてないと思っていた
「ラミン」と呼ばれる齋藤は、セネガル人の父と日本人の母の下、山形で生まれた。ラミンは亡くなった父の兄の名前、ジエンは父の名字で「ラミンジエン」と名付けられた。幼少期から世田谷区で育ち、小学校は特にスポーツはしておらず、「走り回っていた」。中学で陸上部に入り、走り幅跳びを専門としたが、身長は170cmほど、体重は60kg台で、特に目立った選手ではなかった。
「スポーツは向いていないな」と思っていた齋藤は、車やパソコンに興味があったため母の郷里である山形の工業高校に進学し、枝豆農家をしている祖父母の手伝いをしようと思っていた。
中学3年で進路を決める際、高校の先生がクラスに来て、説明会を開いた。齋藤のクラスには偶然、目黒学院でかつてラグビー部のコーチをしていた先生が来て、「ラグビーをやらないか」と声をかけられた。ラグビーは2015年ワールドカップで日本代表が南アフリカ代表に勝利したというニュースをチラッと見た程度だった。
齋藤は快諾し、目黒学院に進学してラグビー部に入った。高校時代は身長こそ185cmくらいまで伸びたが、まだまだ痩(や)せていたため、けがも多く、「FWの第1列とSH以外全部やった」とポジションも定まっていなかった。高校2年時、チームは「花園」こと全国高校ラグビー大会に出場したが、齋藤は給水係で少しピッチに立っただけ。目立った選手とは言いがたかった。
1年秋からレギュラーに定着
大学進学は、目黒学院の竹内圭介監督が東洋大出身で先輩が進学していたこと、人工芝や寮、食事などの設備が整っていたこと、齋藤が入学する1年前から指揮官を勤め始めた福永昇三監督から「一緒にやろう!」と誘われたことが決め手となった。
齋藤を筆頭に、同学年にはPR山口泰雅(目黒学院)、NO8梅村柊羽(関商工)、SH神田悠作(東筑)、SO土橋郁矢(黒沢尻工)らリーグワンで競技を続けることになった選手が揃(そろ)い、全体練習の前後にも個人の練習を欠かさなかった。
「運命的な出会いでした。2年から試合に出ていましたし、一人ひとりポテンシャルも気持ちもあって、かみ合った。4年になったら自分たちは強くなると思っていました」
齋藤は左肩をけがしていたため、大学入学後はリハビリからのスタートだった。だが本人は「けがをしていたから良かった」と話す。大学に入ってから5カ月ほどはフィジカルトレーニングに精を出して、10kg以上体を大きくし、90kgを超える体を作った。「大学では、ほとんどけがをしなくなりましたね」
夏合宿から復帰した齋藤は、三洋電機時代にLOとして活躍し、日本一を経験した福永監督から接点、ラインアウトディフェンスなどの指導も受け、秋の公式戦からLOのレギュラーとして定着。「大学はずっと成長しっぱなしでした!」と胸を張る。
2年時は2部の優勝にも貢献し、3年時は中心選手となった。「4年間で一番集中していた」という中央大学との入替戦に26-21で勝利。4年時は監督から指名され、キャプテンとなった。
「東洋が来たぞと知らしめようと」臨んだ東海大戦
昨年9月11日、関東リーグ戦初戦の東海大戦。「大学生らしく、東洋大が(1部に)来たぞということを知らしめようと1年間、準備してきました」と齋藤は振り返る。
大学2年時に2部で優勝したときは、コロナ禍のため入替戦が行われなかった。「悔しい思いをした先輩たちの思いを背負って戦うことを、一番に戦った。間違いなく、全員が一つのチームになっていました」。齋藤を筆頭とした4年生たちが躍動し、27-24で接戦を制した。
その後の2戦はやや調子を落としたが10月16日、昨季2位の日本大学戦で、ラストプレーに逆転を決め、そこから再び勢いに乗った。「プレッシャーにうまく対応できる選手が増えてきた」。最終戦でライバルの立正大学を下し、初の大学選手権出場を決めた。
キャプテンとして齋藤は、福永監督が掲げる「人としてかっこいい男になる」というモットーをグラウンド内外で実践し続けた。些細(ささい)なトレーニングも手を抜かずにやり切り、選手への声掛け、掃除や整理整頓を積極的に行った。
ただ、どうしても「日本一になる」という目標に対して、別の方向を向いたり、練習に遅刻したりする選手がいたという。そんな時は神田やHO石山愁太(4年、日本航空石川)が後輩を的確に指導してくれたという。「2人はエネルギーを出してくれて、頑張ってくれました。自分ひとりだと精神的にまいっていたかもしれません。キャプテンをやっていて誇れるチームでした。自分がすごいのではなくチームがすごかった。助けられてばっかりだった」
地上波で流れるようなチームに
勝ち進む自信があった大学選手権だったが、初戦の3回戦で敗退。齋藤は、初出場で日本一になるのは難しいことだと感じた。後輩たちに向けては「春季大会で早稲田大だけでなく、優勝した帝京大、明治大と対戦する。一生の財産になるので楽しんでほしい。そして大学選手権に連続出場して、ベスト4以上にいって、地上波で流れるようになってほしい。チーム、仲間を信じて全力でやれば、おのずと目指しているところにいけるから頑張って」とエールを送った。
今後はリーグワン・ディビジョン1の静岡ブルーレヴズで、ラグビーを続ける。「社会人になっても、見ている人にエネルギーを与える選手になりたい。頑張っていくプロセスのなかで、日本一を経験したり、日本代表になって海外のすごい選手と対戦したりしてみたい」と目を輝かせた。
東洋大ラグビー部で過ごした充実の4年間は「感謝しかないです。自分はいろんなご縁と運のおかげでここまで来られた。ラグビーを誘ってくれた先生、目黒学院で育ててくれた監督やコーチ、東洋大に来て一緒に戦ってくれた仲間、先輩、後輩、監督、コーチに感謝の気持ちでいっぱいです」。しみじみと振り返った。