ラグビー

特集:駆け抜けた4years.2023

早稲田大・井元正大 4年で対抗戦デビュー、「8人で押す」スクラム意識の変化が転機に

早稲田のスクラムを支えた井元(中央手前、すべて撮影・斉藤健仁)

早稲田大学のPR(プロップ)井元正大(4年、早稲田実)は、大学3年生まで公式戦にほとんど出場したことがなかった。だが最上級生となり、ラグビーの大学選手権で準優勝だったチームのスクラムを支えた。身長165cmとFWとしては決して恵まれた体格ではなかった井元が、どのようにしてアカクロジャージーをつかみ、チームの勝利に貢献したのか。

大学でも競技を続けると決めたのは「花園」後

早稲田実には初等部(小学校)から通っていて、水泳や空手をやっていた。中学時代、友人に誘われてラグビー部に入部。当時からフロントロー一筋だった。高校3年の時には、79大会ぶりに「花園」こと全国高校ラグビー大会に出場。当初、井元は「レベルは低かったかもしれませんが、全国大会に出場できたというやりきった感もあり、半分くらいは高校でラグビーを止めよう」と思っていた。

花園の期間中、早稲田大に進学する東福岡のSO吉村紘と早稲田実の主力選手らが顔合わせをした。そのとき井元は呼ばれず、高校の監督も井元が大学でラグビーを続けるとは思っていなかったようだ。ただ花園で早稲田実は、2回戦でベスト4に進出した流通経済大柏(千葉)に0-53で大敗。主将だったPR葛西拓斗が明治大に進学すること知っていた井元は「大学で続けて、やり返したい!」という気持ちが勝り、早稲田大でもラグビーを続ける覚悟を決めた。

「花園」を終えてから大学でもラグビーを続けることを決めた

全国の強豪校から選手が入学してくるため、井元は大学1、2年時はずっと下のチームにいた。先輩がけがをするなどうまくいってもCチームで、大学1年の最後は、グラウンドに出て練習しない、体作りをするEチームで終わってしまった。

当然、Aチームと練習をする機会はなかった。早稲田大ラグビー部に所属しているのに、主将だったSH齋藤直人(東京サンゴリアス)らは「まだテレビで見ているような選手で、大学選手権で優勝しても早稲田大強いな、と自分事ではなかったですね」と振り返る。

スクラムは「歯磨き」と呼ばれるまでに

転機となったのは2年生の夏の終わり。ラグビー部の第2寮に入ったことだった。上のチームにいる選手ばかりの寮生と一緒にウェートトレーニングすることができるようになり、入学時に75kgだった体重が、最終的には95kgを超えた。ベンチプレスは40kg増の140kg、スクワットも40kg増の220kgを上げることができるようになった。

体もできてきた大学3年の春、けが人が出たこともあり、当時の副将だったPR小林賢太(東京サンゴリアス)の控えとして、17番をつけて試合に出られるようになり、春季大会で数分だったが初めて公式戦にも出場した。しかし「17番で出ていることに満足していた。17番でいいや」と満足していたことを大田尾竜彦監督に見抜かれ、再びCチームまで下がってしまった。努力を重ねてBチームまで上がったものの、大学3年時も対抗戦に出場することはかなわなかった。

4年になると、井元はコンスタントにAチームで練習することができるようになった。一つ上の学年で試合に出ている選手が多く「自動的にAチームに上がった。実力ではなかった」と話す。ただスクラムに対する取り組みは「劇的に大きく変わった」。昨季までスポットコーチだった元日本代表PR仲谷聖史氏が、フルタイムのアシスタントコーチに就任した影響が大きかった。

昨季は「週末にスクラムを組んでいる」状況だったが、今季は「歯磨き」と呼ばれるように習慣となり「少しでも毎日、スクラムがある」という環境になった。

「自分が自分がという意識ではなく、周りに寄り添うというか、スクラムのマインドが変わり、8人で押すという形ができてきた。 例えばFL(フランカー)の選手だと『どうせ押されるから』とスクラム後に意識がいっていたが、FLの選手もスクラムにフォーカスして、8人で押すという意識に劇的に変わった」

ライバルの明治大相手にも、ひるまずスクラムを押した

昨年9月、念願の対抗戦初出場

HO(フッカー)だった川﨑太雅(3年、東福岡)がPRに転向したことで、ポジションを奪われたときもあった。だが井元は昨年7月、静岡ブルーレヴズへの出稽古で存在感を示して再び1番を奪い返した。昨年9月、関東対抗戦の初戦・青山学院大学戦で初めてアカクロを着てピッチに立った。

「対抗戦に初めて出たときはすごく緊張もしましたがうれしかったですね!早実でもアカクロを着ましたが、大学では140人の重圧があり、いい意味でプレッシャーもありジャージーの重みが違う。出ていない選手のためにも下手なプレーはできないですから」

最終学年の青山学院大戦で対抗戦デビューとなった井元(右端)

思い出に残る試合を聞くと、2戦目の筑波大学戦を挙げた。雨の中の試合だが、早稲田大はスクラムで有利に立ち、ペナルティーを奪うと、PGで得点を重ねたことが功を奏して23-17で勝利。「苦しい試合展開でしたが、(PGで)刻んだ結果、勝利でき、自分がちゃんとチームに貢献できた気がしました」と振り返った。

大学入学時の目標の一つとして掲げていた、ライバル明治大学との「早明戦」。対抗戦では21-35で敗れたが、再戦となった大学選手権準々決勝では明治大に27-21で勝ち、雪辱を果たすことができた。

大学選手権では1番ではなく17番を背負うことになった井元は、大田尾監督に呼び出されて「後半に勝負をかけたい。チームを勝たせるために裏(控え)でいってもらう」と言われたという。

「(春から)ずっと1番を守ってきたのに、17番でどう頑張ればいいのかと難しい気持ちになったが、自分のやるべきことをやって。チームの勝利に貢献できました。スクラムで2度ペナルティーを取れたし、スクラムからWTB(ウィング)松下怜央(4年、関東学院六浦)がトライを挙げたのはうれしかったです」

松下が挙げたトライの起点になったスクラム

春からアメリカのテキサス州に留学

振り返れば大学1年の入部式、井元は「アカクロを着て他大学を圧倒するスクラムを組みたい」と宣言したという。「大学選手権の決勝(帝京大学戦)は悔しかったが、ある程度実戦できたかな。帝京大以外にはスクラムを選択して勝負できるチームになれた」としみじみ話した。

4年では最後まで試合に出ていたが、メンバーが発表される時は「メンバーに入っているかどうかという恐怖心が抜けなくて、毎週、ヒリヒリといい緊張感を持ってできた」という井元。特に今季、自らを支えたのは3年の春の終わりにあったCチームとDチームによる練習試合での経験だった。

「1年生も多かったDチームまで落ちましたが、そのチームのキャプテンとなり、『本当にやるしかない!』と思った試合でした。4年になり最後まで、あらがい続けることができた僕の原点となりました」。大田尾監督も「今年にかける思いの強さ、自分のやれることをやり切る姿。今年の早稲田を支えてくれた」と感謝した。

卒業後は家業を継ぐためにアメリカ・テキサス州に留学する予定だ

改めて4年間を振り返り、「『荒ぶる(日本一になったときだけ歌うことが許される第二部歌)』を取れるところまで来たので取りたかったですし、ちょっと心残りではありますがやり切った感はあります」と語気を強めた。

文学部で英文学を専攻していた井元は、リーグワンの下部にあたるトップイースト・ディビジョン1のチームから誘われたものの、社会人でラグビーを続けず、春からはアメリカ・テキサス州に留学予定だ。なぜテキサス? と聞くと「母方の祖父が自動車部品の工場を経営していて、そこを継ぐ予定」と話した。英語を習得することや大学で勉強することだけでなく、アメリカの自動車メーカーとの人脈作りも期待されてのテキサス留学だという。

最後に後輩へのエールをお願いすると、「早稲田大の格好いいところは、上のレベルで戦っているチーム、選手に何か譲らないものを作って、考えて勝つところだと思います。強い帝京大や対抗戦のライバル、関西リーグの強豪に考えて勝って、来季こそ、『荒ぶる』をつかみ取ってほしい!」と期待を寄せた。

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