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特集:パリオリンピック・パラリンピック

水泳飛込・榎本遼香(上) パリオリンピック内定!東京大会と筑波大院での経験生かす

ブダペストであった水泳・世界選手権の女子3メートル板飛び込み決勝の演技を終えて撮影に応じる榎本遼香(撮影・瀬戸口翼)

水泳の飛込競技で、東京オリンピック5位入賞した榎本遼香(はるか)選手が、2023年4月から地元・宇都宮市の栃木トヨタ自動車に所属する。シーズン中はトレーニングと試合に集中し、オフには講演会や子どもへの指導をする予定。4月2日からは、国際大会派遣選手選考会(東京)があり、7月には福岡で水泳・世界選手権に出場。今夏のパリオリンピック代表に内定した。筑波大学大学院の博士後期課程に通いながら、2度目のオリンピック出場を決めた榎本選手に意気込みなどを聞いた。前後半のうち、前半はこれまでの歩みや東京オリンピックを振り返ってもらった。

※最初の記事公開は2023年3月。パリオリンピック内定を受けて一部修正しました。

節目節目でやめそうになったが…飛込が好き

――プロフィルと競技歴を教えてください

筑波大学大学院の博士後期課程に通いながら、所属は栃木県スポーツ協会で、飛込競技をしています。21年の東京オリンピックでは、シンクロで5位に入賞しました。

昨年22年のハンガリー・ブダペストで開かれた水泳・世界選手権に日本代表として出場しました。競技歴は中学1年生から始めて今年で14年目です。飛び込みを始める前は、幼稚園の年中の頃から器械体操をしていました。そこで練習を見てもらっていた作新学院の教員がいて、飛び込み部の顧問の先生でした。ずっと気に懸けてくれていて、「飛込競技やってみる?」と声をかけられたのがきっかけです。

節目節目では、やめそうになった出来事がたくさんありました。中学の時は(声をかけ、育ててくれた)恩師が亡くなりました。その恩師に頑張る姿を見せたい、というモチベーションで続けてきました。高校生の時は、自分が病気(高校3年の時、肺の腫瘍〈しゅよう〉を切除)になったけれども、目標を達成していなかったので続けました。東京オリンピックが決まっていた中で、そこまでは挑戦してみようっていうのがずっとあったんです。なんだかんだ飛込が好きで続けているって感じです。

東京オリンピックには魔物がいた

――東京オリンピック女子3m飛板飛込シンクロ競技で5位入賞でした。そこで得たものと課題は

先輩からは「オリンピックには魔物がいる」っていう話を聞いていました。すごく怖いけど面白いっていう。大舞台からくるプレッシャーのことなんだろうと。

シンクロには魔物はいなかった。平常心のままペアでやれました。

でも、個人競技(女子3m飛板飛込)になったら、やっぱりいて。オリンピックという枠に自分をはめ込めればよかったんですが、オリンピックと自分を切り離してしまって。いつも通りの自分でいなきゃいけないという思いが強すぎました。選手村とか、お祭りのような雰囲気の中にいて、ちょっと自分が浮かれているのかなっていう感覚があった。

なので、いつも通り練習しなきゃ、いつも通りトレーニングしなきゃ。と、今まで作ってきた自分に無理やりはめようとしていた。もしかしたら、現場の空気感をそのまま肌で感じて楽しんだら、もっとあの時間がつらい時間じゃなかったんじゃないかなと思っています。

東京オリンピックの女子シンクロ板飛び込みで演技する榎本遼香(手前)、宮本葉月組(撮影・諫山卓弥)

個人種目は緊張してプレッシャーがすごかった

シンクロのときはやっぱり、なんかすごく純粋にあの空間が楽しかったし、まぶしかった。その空間が楽しかったです。それに比べて個人競技は緊張して、プレッシャーがやっぱりすごいありました。

個人競技は、海外の選手たちが勝ち抜いてくるところを見て、しっかりしなきゃって思いましたが、一つの技がうまくハマらない状況で。余計に焦りもあったのかなと思う。なんか、分からなくなっちゃってましたね。

ワールドカップが5月にあって、その後ぐらいからちょっとはまらなくなってきて、2カ月以上わからないままで、オリンピックを迎えたっていう感じでした。

東京オリンピック・女子板飛び込み準決勝の榎本遼香の演技(撮影・諫山卓弥)

「飛込競技」を検索する人に価値のある情報を届けたい

――大学(体育専門学群)・大学院で学んだことは

修士に進んだきっかけは、自分が現場で競技をしていることが研究のテーマにもなる。勉強してもいいな、と進学しました。

筑波大に入って、論文を書くようになって、「飛込競技」で検索ワードを入れると、けがの予防とかの論文は出てくるんですが、競技に関する良い指導とか、有効なトレーニング方法の論文が一切出てこなくて。

私自身そういうのに興味がある学生だったので、その状況がすごくもったいなくて。せっかく、「飛込競技」を検索する人が一人でもいるんだったら、そういう人に届くような状況にしたいなって思いました。

博士まで行かないとなかなかそういう良い論文は出ません。「飛込競技」というワードで、もっと議論できるといいなという思いがありました。(大学の)卒業論文で全然深めることができなかったので、大学4年間では限界があるのかなと、大学院に進みました。

今は博士課程の1年になります。うまくいけばあと2年だと思います。

――自分がめざしていたこと、情報を届けることができていますか?

12月の学会に論文を出して、それが通りました。審査員の先生からのコメントの対応も全部終わり、掲載予定です。論文が一つ出来て、ようやく「榎本遼香」「飛込競技」っていうワードを入れると論文が一つ出てくる状況になります。論文は3m飛板飛込のシンクロ競技という、二人で同時に飛ぶ競技について、シンクロするってどういうことなのかを書きました。それを探求した内容です。

東京オリンピック・女子シンクロ板飛び込みの演技を終え、得点を確認して涙を流す宮本葉月(左)、榎本遼香(撮影・諫山卓弥)

競技と学業の両立、コロナ禍でのZoomが大きい

ーー競技と学業両立のために工夫していることは

かなりきつくって、オリンピック時には休学しました。でも、やっぱり勉強して、課題に向き合ってクリアして卒業するっていうのが大事なことです。教授とかなり細かく、スケジュールを調整して、いつ学会発表をするか、そのために論文はいつ仕上げるのか。隙間の時間を使って勉強してきました。コロナ禍になってZoomが利用できるようになって、場所も時間も問わない感じで。それが両立できる、大きな要素だなと感じてます。

でも昨秋ぐらいからだんだん、コロナ禍以前に戻そうっていう流れが出てきました。つくばまで宇都宮から通いました。遠いです。対面授業にちょっと焦ってます。

オリンピック前の練習がつらくなった時、救ってくれた言葉

――学問をどう競技にいかせていますか?

専攻がスポーツ運動学。この学問が選手の感覚や、コーチが選手に伝える表現の仕方とかっていうのを学んでいます。実は、オリンピック前のことですが、せっかく夢だった出場内定が決まったのに、練習に行くのがつらくなって。久々に泣きました。好きで飛込競技をやってたのに、いつのまにか、「しなきゃいけないもの」になってました。

オリンピック選手として「こうあるべきだ」とか、特に東京は賛否両論があったので、世間からの意見が直接選手に届くような状況でした。

「競技をしていていいんだろうか」っていう迷いとか、したいものだったのが、「しなきゃいけないもの」にかわった。自分のやる気がないのかな、周りのプレッシャーに負けちゃってるんじゃないかな、って自分の問題だと思ったんです。

その時、担当の教授が運動学の用語で教えてくれたんです。「学問として、そういう人間の心の移り変わりが、スポーツをする上ではある」。私だけの問題じゃないとわかりました。誰にも起こり得ることだと。私はたまたまはまっちゃったと。

理解できたのが、すごく心の救いになりました。「パトスカテゴリー」っていうスポーツ運動学の言葉があるんですけど、誰にでも起こりうる事なんだなって言うのを知ることができました。

オリンピックを巡って現場で起こったことを、そのまま学問につなげられているっていう感覚がありました。

【後編はこちら】パリオリンピック内定の水泳飛込・榎本遼香(下) 東京大会後の苦悩、乗り越えた先に

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