水泳

連載:監督として生きる

筑波大学院で水泳を探究、監督デビュー時の後悔 新潟医療福祉大・下山好充監督1

下山監督(左)は水沼尚輝(右)や佐藤綾など、多くの選手を新潟医療福祉大学で指導してきた(写真は全て本人提供)

2019年、新潟医療福祉大学水泳部の女子はインカレでシード権を獲得しました。05年の創部から下山好充監督(49)がゼロからチームを作り上げ、今では水沼尚輝など日本代表選手も輩出、下山監督も日本代表チームのコーチとして活躍するまでになりました。そんな下山監督の全てを全3回にわたって紹介します。初回は下山監督が選手として、また指導者としてのキャリアをスタートさせた筑波大学時代、そして新医福大の監督に就任した当時のお話です。

最高の環境で最高レベルの学びを得た筑波大時代

自身も幼少期から水泳の世界に身を投じ、筑波大進学後も水泳部の一員としてインカレに選手として出場した。大学生活を振り返ると、まさに水泳漬けの毎日だった。そんな下山監督が、全く追いつけなかった同級生がいた。当時のインターハイチャンピオンでもあった中谷弘幸さん。その存在が、下山監督を指導者の道に導いたという。

「学生時代、どうしても彼に全く追いつけなかったんです。彼と同じご飯を食べて、同じ授業を受けて、同じ練習をしているのに、追いつけない。同じ時間を過ごしているのに、どうしてこんな差が開いてしまうのか。そういうことを現役時代からずっと考えていました。すると、だんだんどうしたら速くなるのか、ということに興味が湧いてきました。それで、大学院でとことん水泳について勉強したいと思い、大学院に進みました」

下山監督が学びたかったのは“水泳”だ。水泳に関係することは、何でも知りたかった。バイオメカニクス、運動生理学、心理学、トレーニングに関するあれこれ……。水泳に関わる学問であれば、全てを網羅したかった。そこで、筑波大の水泳研究室に入ることを決意。水泳部のコーチとして後進の指導に当たりながら、現場と研究を両立させてきた。

いつかは五輪選手を育てたい

元々、初心者を指導するのも好きだった。授業などで泳げない学生を泳げるようにするのも達成感があり、とても楽しかった。ただ、やはり指導者としてやっていくなら、頂点を極めたいという気持ちが徐々に強くなっていった。

「当時から、やるならとことんやって、やっぱりオリンピックに出る選手、オリンピックでメダルを獲る選手を育てたいという夢は描いていましたね」

筑波大という環境は、特にトレーニングの最先端を学ぶのに最適だった。一流の研究者が集まり、一流の施設と設備がそろっている。さらに部に入ってくる選手は、高校時代から全国大会で名を馳(は)せた選手たち。当然、トレーニングレベルも研究レベルも高くなる。最高の環境で、学びたいと思っていた水泳の全てを最高レベルで勉強ができたのである。

今振り返っても、現役時代から数えて筑波大で過ごした15年という月日は、下山監督の土台になっていると話す。

「私も当時は出過ぎた若いコーチというか、出る杭だったので、結構打たれましたね。でもそれがあったから、今がある。自分のやり方が正しい、と妄信するような勘違い野郎にならずにすんだのも、筑波大学時代に出会った先輩指導者の方々のおかげです。その分、ちょっと時間はかかっちゃったかな、とも思いますけどね。でも、そういう時間も今の私の指導に生きていると感じています」

部員ゼロからのスタート

下山監督に大きな転機が訪れたのは、05年のこと。新医福大で健康スポーツ学科が立ち上がるのに合わせて、水泳部監督就任の話が持ち上がった。

「ちょうど博士を取れたところでお声をかけてくださったんです。筑波大学でもちょうど助手の契約が切れるタイミングだったので、これもひとつのチャンスなのかな、と。これも縁かな、と思い切って新潟医療福祉大学でお世話になることを決めました」

筑波大学で博士課程を修め、下山監督は新天地の新潟で監督としての第一歩を踏み出した

新医福大水泳部のスタートは、まさにゼロからだった。部員もいなければマネージャーもいない。コーチは下山監督自身、ただひとりだ。指導も、勧誘も、全てひとりでこなした。そして、集まったのは7人の部員だった。翌年、日本中を駆け回ってスカウトしてきた全国レベルの選手が4人入学した。一般で入学した選手もおり、創部2年目には部員は13人となった。

「ゼロから自分で、全く新しくチームを作らなければならないわけです。当時はスタッフもいませんでしたから、自分でチームの方向性や強化方針、強化策、チームビルディングなども全て考えてこなしていかなければならない。とにかく、いろんなことを徹底してやりました。ただ、まあちょっと、やり過ぎた部分もありました」

思いが強すぎたからこそ、間違えてしまった指導法

最初の2、3年目までは、選手とのコミュニケーションを取るために、部員全員と交換日誌を毎日やっていたという。それこそ、選手のプライベートな部分まで把握して“しまった”のである。これが問題だった。

「それこそ監督、ヘッドコーチ、アシスタントコーチ、マネージャーに選手の相談役も、全部ひとりでやっていましたから。個別面談もしょっちゅうやっていました。そうすると、指導者が知らなくていいことまで知ってしまう。誰と誰が仲がいいとか、逆に仲が悪いとか。そういう、本来大人が関与しない方がいいことにまで、全部踏み込んでしまった。そうしたら、選手たちも逃げ場がないですよね。選手も人間ですから、私に対してグチのひとつやふたつもあったと思います。でも、そういうことも言わせないような雰囲気を作ってしまったというか……選手たちを管理し過ぎてしまったんです」

チームを一気に同じ方向を向かせるには、軍隊と同じように、徹底して管理をするのが一番早い。だがその弊害として、物事を自分で考えなくなってしまう。監督がやってくれるから、監督が言ってくれるから、監督が教えてくれるから。全て人任せで、自主性など芽生えるはずもなかった。世界で戦える選手は、自分で自分を律し、自分に何が必要なのかを考え、理解し、自ら行動できる人間だ。そういう選手を育てたかったはずなのに、全く逆の選手を育てる指導をしてしまったのである。

「チームを作る上で大切なのは、私が考えなければならない部分と、学生が考えた方がいい部分があります。その学生の領域にまで私が立ち入ってしまったのは、失敗でした」

ただ、それは指導者としての使命感からだった。せっかく縁があって新医福大に来てくれた選手を、何とかして強くしてあげたい、いい経験をさせてあげたい。選手たちに対する、下山監督の熱い思いがあふれ出してしまった結果だったのだ。

「逆に私の強い思いは、この創部2、3年目までにいてくれた選手たちには相当強く伝わっていたんだろうな、とは思います。2019年、インカレで女子はシード権を獲得したのですが、それを一番喜んでくれたのは彼らですから」

1期生だった選手はいつしか成長し、そのうちのひとりは地元の高校教員となり、新医福大に選手を送ってくれたのだという。「そういうのは指導者としてひとつ目標にしていましたし、うれしいですよ」と目を細める。

「この大学に入ってくれた選手の兄弟だったり、卒業した選手の教え子だったりが入学してくれるというのは、この大学に入れば安心、と思ってくれている証拠ですよね。いろいろあったけどこの大学に来て良かった、水泳部で4年間頑張って良かった。そう思って卒業してもらえることを、私たちが今一番大切にしていること。それが伝わってくれれば幸せですよね」

監督として生きる

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