慶應義塾大・小林朔太郎 ユニバのスキー競技で3個の金メダル、次の夢はオリンピック
2023年1月、FISUワールドユニバーシティゲームズ(以下、ユニバ)のスキー競技で3個の金メダルを獲得した、慶應義塾大学の小林朔太郎(さくたろう、4年、長野原)。ジャンプやノルディック複合の国際大会に出場し、オリンピックでメダル獲得の夢を描いている。「ジャンプを始めてから今まで一度も恐怖心を感じたことがない」と話し、ジャンプが楽しいからこそ、尽きることのない探求心で自身のレベルを高めてきた。「いかに飛距離を出すか」というシンプルな課題を深く突き詰める日々を送っている。
ユニバで5個のメダル、帰国後に反響
2023年1月、アメリカ・レークプラシッドで4年ぶりに行われたユニバ。スキー競技で華々しい活躍を見せたのが、小林だった。
ノルディック複合の男子個人で快勝すると、クロスカントリーを先に行う10kmマススタートでも得意のジャンプで逆転して個人2冠を達成。中央大学・中澤拓哉(2年、飯山)とのチームスプリント銀メダルを経て、早稲田大学の祖父江凜(当時4年、飯山)、久保田真知子(3年、飯山)と臨んだスプリント混合団体でも金メダルに輝いた。
さらにスペシャルジャンプの男子ノーマルヒル団体に急きょ招集され、慶應大のチームメート・池田龍生(現・雪印)と銅メダルをつかんでいる。
「複合は1日おきに試合があり、ジャンプは複合の翌日だったので、忙しくてあまり記憶がありません」と言いながら、世界的な学生スポーツの祭典ならではの経験をしたことは収穫だったようだ。
「いつもの国際大会ならコンバインドやジャンプの日本チームで戦っていますが、ユニバではフィギュアスケートやカーリングなど、日本選手団みんなで盛り上がって勝ちましょうという、お祭り的な雰囲気があって楽しかったです。自分の中ではやることは一緒と、あまり意識せずに臨みましたが、優勝して帰ってくると、メディアや地元の人、周囲の人たちから『すごいね』と反響が大きかった。ユニバという大会のすごさがわかりました」
小学1年の時、初めてのジャンプで優勝
神奈川県で生まれ育った小林は、小学校入学前に両親の仕事の関係で群馬県草津町に移り住んだ。
「小学1年生の時、学校でアルペンとクロスカントリーのスキー大会があり、母が間違えて自由参加だったジャンプにも申し込んだ」ことがスキージャンプとの出合いだった。学校側からは「危ないけれど大丈夫ですか?」と心配されたが、あっさり優勝してしまう。
「体を動かすことが好きで、じっとしていたくない」と、神奈川県にいた頃は水泳、群馬県に来てからもゴルフや陸上など様々なスポーツに親しんだ。「どれもそれなりにできたけれど、一番好きだったのがジャンプだった」という。地元のスキーチームからスカウトされたこともあり、4年生から本格的にジャンプ競技を、やがてノルディック複合を始めた。
ただ、群馬県はジャンプの練習環境が整っているとは言えなかった。標高1200mの高地にある草津町は、クロスカントリーのトレーニングには適していたが、ジャンプ台は小さな20m級しかない。そのため、「その小さい台で飛ぶか、2週に1回ほど長野県や北海道に行ってトレーニングをする。あとは陸上トレーニングやイメージトレーニングで賄っていた」と振り返る。
それでも置かれた環境で最大限の努力を続け、着実に力をつけていった小林は、中学2年生で全日本スキー連盟の強化指定選手に選ばれる。「世界で活躍できる選手になる」という意識が固まり、オリンピックを意識するようになったのはこの時だった。
自分で考え、主体的に競技と向き合う
高校のスキー部もジャンプ台がなく、顧問は柔道部の先生が兼任していた。しかし、小林はそこでも練習方法を工夫したり、ジャンプ理論を研究したりしながら、インターハイや国体で優勝するなど全国区で活躍。2年時と3年時には、日本代表としてジュニア世界選手権出場も果たしている。
2019年春、慶應義塾大学への進学についても明確な考えがあった。
「強豪と言われる大学や練習環境が充実した大学は他にもあります。でも、僕はこれまで同じコーチに長く教わったことがなく、自分で考えてやってきたので、強豪校に入って実績のある監督の言うことに従ってジャンプをするという変化を受けたくなかった。自分で環境を作り、自分で考えてできる大学というところで慶應に決めました」
小林は、コーチングとはこうあるべきという理念を持っている。
「コーチに『今のジャンプ、どうでしたか?』と質問する選手が多いですが、コーチ頼りでは、コーチがいなくなった時に自分のジャンプが崩れてパフォーマンスを発揮できません。本来は『自分のジャンプがこうだったので、次はこうしたい。どうですか?』と聞くのが正解です」
ホームのジャンプ台がなく、常に見てくれる指導者もいない。そういう環境で主体性を持って競技に向き合ってきたからこそ、小林は「どの環境に行っても、どんなジャンプ台に行っても適応できる力が人よりあると思います」と胸を張る。
その言葉通り、大学ではスキー競技の研究に励みながら、スキー部では1年時からエースとして、インカレなどの舞台でチームを牽引(けんいん)してきた。
原動力は「好きで楽しい」という思い
小林にとってのスキー競技、なかでもジャンプの魅力は、「浮遊感」という言葉で表現できるかもしれない。
「生身の人間が時速100km近くで飛ぶ競技は他にないですし、空中にいることが面白い。ジャンプ台に見に来てもらうと、選手の助走時のゴーという音でスピード感やダイナミックさを感じられるはずです」
レベルが上がるほど勝つことが難しくなり、競技を始めた頃にあった純粋に楽しむ気持ちは薄れていくのが一般的だ。しかし、「どんなアスリートも自分の競技を好きで楽しめる人が一番強い」と信じ、「好きで楽しい」という思いは初めてジャンプを飛んだ小学1年生の頃から変わっていない。「これまでけがやスランプはほとんどなく、競技がうまくいかないと思ったことはありません」と話す。
そんな小林の今の目標は、「オリンピックの舞台でメダルをとること」。そのためには「今後も成績を出し続けることが一番。技術の向上はもちろん、メンタルの強さや良い意味での鈍感さ、根性も鍛えていかないといけません」と考えている。
草津町出身でノルディック複合と言えば、1990年代を中心にオリンピックや世界選手権、ワールドカップで幾度も世界一に輝いた荻原健司さんの名前が思い浮かぶ。当時はライバルたちから畏敬(いけい)の念を込めて「キング・オブ・スキー」と呼ばれ、引退後は政界に進出し、現在は長野市長を務めるレジェンドだ。
小林は荻原さんの功績を「素直にすごい」と感じつつ、「今後はジャンプやノルディック複合というワードが出た時に、荻原さんではなく、僕の名前が先に出るような選手になっていきたいです」と抱負を述べる。
ノルディック界の期待のホープは、これからも自身の信念を貫き、競技を心から楽しみながら、誰よりも高く遠くへ飛翔(ひしょう)し続ける。