野球漬けの日々が事故でどん底に突き落とされ パラリンピック競技に出会う 森宏明1
今回の連載「私の4years.」は、ノルディックスキー距離座位の日本代表として北京冬季パラリンピック(2022)に出場した森宏明(26)です。朝日新聞社員としてスポーツ事業部に勤務する傍ら、アスリートとして様々な大会に出場しています。5回連載の初回は、人生を大きく変えた高校時代の交通事故と、パラリンピック競技との出会いについてです。
高校では主将に…「将来は駒澤大学、社会人リーグでプレーしたい」
東京都板橋区出身で、荒川河川敷がすぐそばにある環境で育ちました。小学校2年生で地元の軟式少年野球チームに入ってからは休む間も無く野球漬けの日々を送っていました。
中学校でもさらに上のステージを目指したいと思い、学校の部活ではなく硬式野球(シニアリーグ)の強豪クラブチームである東練馬リトルシニアの門をたたきました。最終学年では仲間と共に日本リトルシニア野球選手権大会での準優勝を経験します。
中学校卒業後は、実家から自転車で通学できる距離にあった淑徳高校へと進学し、そのまま硬式野球部へと入部。1年夏の公式戦から試合出場を重ねました。
高校2年の7月、3年生が最後の大会を終えて引退した直後、1、2年生だけの新チームが発足したタイミングで主将を任されました。
今まではチーム事情によって投手、捕手から内外野、あらゆるポジションを守ってきたいわゆるオールラウンダーでしたが、今後は野球選手としてのキャリアを真剣に考えていくうえで、投手を専門的に取り組んでいくことに決めていました。それは「駒澤大学に進んで野球を続け、社会人リーグの実業団であるSUBARU硬式野球部でプレーしたい」という自分の目標が明確になっていたからです。
足下は燃えるように熱く、下半分に力が入らない
秋の大会に向けて他校との練習試合を重ねていたそんな2013年8月下旬、交通事故で両足を切断する大事故に見舞われました。その日は他校をホームグラウンドに招いての練習試合だったということもあって、かつて一緒にプレーしていた野球部OBの先輩たちが手伝いに来ていました。練習試合を終えた夕暮れ時に事故は起こります。
車がグラウンド敷地外の公道から猛スピードのまま敷地内に入ってきました。様子がおかしいなと思った次の瞬間、車のヘッドライトが、自分の方に向かって走行していることが分かりました。
とっさに思いきり後方へと下がり、約20cmの段差に乗りましたが、背後にはグラウンドの管理棟があったため、もう逃げ場がありませんでした。暴走車は私と管理棟を挟むかたちで衝突。事故の瞬間、コンクリートの段差を削りながら車体が跳ね上がってくるのがスローに見えたと同時に、すさまじい音が辺り一面に響きました。
気がついたときには、車のバンパーと管理棟の外壁に腰から下まで挟まったまま突き上げられるかたちで上体はボンネットへ乗り上がっていました。足下は燃えるように熱く、体から下半分に力が入らないことはすぐに分かりました。
「きっと、骨砕けただろうな」
「極限まで痛いときは熱いって感じるんだ」
「ああ、これ本当に起きたことなんだ」
数分間、車と建物に挟まれた状態でだんだんと遠のく意識を必死に保ちながらこれが現実であることを徐々に認識していきました。直後に、事故車両からガソリンが漏れ出していることが分かると、その場にいた人たちの判断でギアをニュートラルに入れ、人力で押して車を建物から引き離しました。
その瞬間、挟まれていた身体がズルズルと地面に倒れ込んだと同時に「足が千切れている」と周囲はパニックに陥りました。
「うそだろ?」
その現実をすぐに受け入れることはできませんでした。ただ、もう二度と野球ができないだけでなく、自分の足で地面を踏むこともできないということは一目瞭然でした。
ただ地面にはいつくばることしかできず、声にもならないほどの声で泣き、なんで人生はこんなにも残酷なんだ、自分が何をしたんだと嘆き、そこで悲しみのピークを迎えましたが、不思議なことにその状況を真上で見ているかのような乖離(かいり)した自分が存在する感覚にも陥りました。
救急車を待つ時間が永遠のように感じた
事故発生から何分が経過したでしょうか。もう衰弱しきって悲しみの感情すらも無くなっていました。
ただ、救急車を待つ時間が永遠のように感じたことを覚えています。損傷した箇所は出血がひどく、それによりだんだんと意識が薄れてきていました。
このまま意識が飛んだらどうなるか分からないような局面まできていました。足は骨ごと引き千切れて、皮膚一枚だけでつながっているような状態です。
事故から数十分後、あたりが薄暗くなってきた頃に救急隊が駆けつけました。凄惨(せいさん)な事故現場で、レスキュー隊員の方も顔が青ざめていました。
皮膚一枚だけで繋がったままの足ごとストレッチャーに乗せられ、そのまま救急車で近くの救命救急センターへ緊急搬送されることになりました。搬送されているときには、「意識が飛んだら死ぬ」と本気で思っていて、自我を保とうと必死でした。
救急車はサイレンが鳴りやむとともに停車し、それから少し経って後方の扉が開き、ストレッチャーが救急隊の手によって運び出された後のことはよく覚えていません。
あらゆる苦しみを乗り越えた先に「自分はまだ生きている」
呼吸が詰まり、むせる瞬間に目が覚めると、気づけばそこはすでにICU(集中治療室)のベッドの上でした。腕には色んな管が繋がっている状態で、口には酸素吸入器が当ててあり、とてつもなくのどが乾いていたことを鮮明に覚えています。
傷の治療から始まる入院生活で、生活の場が学校の教室やグラウンドから病室へと変わりました。なんだか世の中から飛び出てしまったかのような感覚に陥り、これまでとはまったく別世界に生きているかと錯覚するほど時間の進みが遅く感じたのは後にも先にもこの時だけです。
事故後、数週間は人との交流も無くなり、なんだか頭の中がふわふわしてずっと夢の中にいるような感覚で、暗闇のなかで自分がどこにいるかも分からないといった精神状態でした。
事故前の自分が続けてきた野球がもうできない、幼い頃に描いてきた野球での夢や希望も一瞬で散り、それどころかもう自分の足で立つことすらできないというあまりにも残酷な現実に直面しました。
自分の人生すべてが一気に取り上げられてしまったような寂しさはありましたが、約半年間にも及ぶ治療とリハビリの過程で家族や友人たちが頻繁に病院へ通って励ましてくれました。いつもそばにいてくれたおかげで、あらゆる苦しみを乗り越えた先に「自分はまだ生きている」、そんな実感が湧いてきました。
第二の人生を歩む覚悟を持った自分は、もうすでに「野球人」である過去に未練はありませんでした。あらためて今の自分には何もない、まっさらな状態であることを知り、ここからまた再スタートを切ろうと考えていたように思います。
東京2020大会が決定 パラスポーツと出会う
ちょうどその頃に東京2020大会の開催が決まったというニュースを病室で見て、自分はこれまで野球だけではなくあらゆるスポーツに触れてきたし、東京出身なので、パラ競技をやるかどうかは別としてこの大会に関わりたいという気持ちが当初からあったように感じます。
2014年1月にリハビリを終えて退院して高校へ復学。それから約半年が経過した日のことです。当時高校3年生の夏休み前、日本パラリンピック委員会(JPC)主催の選手発掘事業の案内が学校にファクスで届きました。それを目にした担任の先生から「ちょうど夏休み期間だから行ってみたら?」と勧められてこのイベントに参加したことが、パラスポーツと出会うきっかけでした。
最初はアイスホッケーから声がかかり、代表の強化合宿に何度か参加しました。しかし、その時期は大学受験を控えていたり、実家の東京都から練習拠点の長野県まで毎週末通う難しさがあったりと、タイミングが合わず、本格的に競技に取り組むことができませんでした。
「競技をするラストチャンス」向かった雪山でスキーに魅了された
高校卒業後は明治大学に進学し、スポーツ施設でのアルバイトや学問分野の研究に熱中しながら学生生活を過ごしていました。
2017年の大学3年夏、だんだんと就職活動へ切り替わる時期に差し掛かっていました。あるときパラノルディックスキーで、当時日本代表監督をしていた荒井秀樹さんから突然自宅に電話がかかってきました。
「ノルディックスキーという競技があるんだけどまずは直接会って話をしないか」と電話越しの熱意に押され、「一回会って話を聞くぐらいはいいか」という気持ちで、その日に都内のカフェで会いました。そこでパラノルディックスキーという競技を知ることになります。
元々、スキー経験はほとんどなく、寒冷地や雪にもなじみがあったわけではなかったため、ノルディックスキーという未知の領域へ飛び込むことそのものに不安がありました。しかし、スポーツから数年遠ざかっていたことが、今もなお心のどこかで引っかかっていて、もしもこのタイミングで始めなければ、今後の人生で競技スポーツを取り組む機会はないのだろうとも感じていました。
「このまま競技にチャレンジしないで自分は納得がいくのか」「本当に自分がやりたいことは」…自問自答を繰り返し、これが自分にとってのラストチャンスだと思い、荒井さんとカフェで会話を交えた1週間後には、競技を始める決断をしていました。
そして冬のシーズンが始まる11月下旬、就活をいったんストップして北海道の旭岳へと向かったのは今考えると大胆不敵に思います。そこではじめてスキーで雪原を滑ったとき、雄大な自然や、あたり一面真っ白の幻想的な景色が目に入り、非日常的な体験に魅了されたことを覚えています。
競技を始めたのはちょうど2017-18シーズンで、まさに平昌パラリンピックの年でした。冬のシーズンをともに過ごした競技者の先輩で、スキー知識やパラ競技の世界を教えてくれたバイアスロンの佐藤圭一選手(セールスフォース・ジャパン)やクロスカントリーの新田佳浩選手(日立ソリューションズ)、また世代が近い川除大輝選手(日本大学)や岩本啓吾選手(土屋ホーム)が、大舞台で活躍している姿を目の当たりにした瞬間に、4年後には同じ舞台に立つ自分の姿を思い描いていました。
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