パラスキー

連載:私の4years.

特集:北京冬季オリンピック・パラリンピック

「第二の人生」を考え明治大学に進学、事故4年後にパラスキー競技へ挑戦 森宏明2

大学時代、スイスのマッターホルンで(すべて本人提供)

今回の連載「私の4years.」は、ノルディックスキー距離座位の日本代表として北京冬季パラリンピック(2022)に出場した森宏明(26)です。朝日新聞社員としてスポーツ事業部に勤務する傍ら、アスリートとして様々な大会に出場しています。5回連載の2回目は、苦悩しながらの進学、そしてパラスキーとであった明治大学時代の4年間を中心に描きます。

野球漬けの日々が事故でどん底に突き落とされ パラリンピック競技に出会う 森宏明1

高校2年生の夏ごろまでは野球に熱中し、大学でも野球を続けたいと考えていた私は、交通事故によって両足を失い、思わぬかたちで野球人生の終了を余儀なくされ、絶望の淵に突き落とされました。

野球をプレーしていた当時を振り返ると、自分はとくに名のある選手でもありませんでしたが、チーム全体の状況や必要に応じてポジションを変える適応性や、試合でここ一番の勝負強さを発揮する意外性など、チームプレーに徹するなかでも自分の持ち味を大切にするプレーヤーでした。

しかし、「野球」という一つの世界でしか生きてこなかった17歳の自分は、人生の挫折を経験して「抜け殻のような状態」となっていることに気がつき、そこから半年間にも及ぶ長い入院生活のなかでやりたいことを探し始めます。

第二の人生を歩むための「目的」をさがして

事故後は、第二の人生を歩むための「目的」が必要でした。それは当時、自身の心のなかでモヤモヤとした感情を払拭(ふっしょく)するために、過去にすがるよりも未来への行動を起こして気持ちを昇華させることが重要だと考えていたからです。

しかし、あまりにも大きなアクシデントに直面したとき、自分は何に対して怒り、悲しみ、不安を覚えているのかといった心の整理が簡単にはつかず、混乱のなかで複雑に絡み合った心情と向き合うことや、それを第三者に共感してもらう難しさも同時に感じていました。

この気持ちの整理はたとえ時間が掛かったとしても、最終的に自分の中で腹落ちさせていかなければならない問題だと捉えていたように思います。

「自分の心を理解する方法があればいいのに」と、現実から目をそらして何かに救いを求めるかのように、今まで興味を持つこともなかった社会派映画などの芸術作品や、社会的テーマの新書や哲学書などを読みあさり、あらゆるものの考えに触れていつしか文学や社会学への強い関心を抱くようになっていました。

とくに印象に残る出来事として、入院期間中にはじめて手にとった画家の岡部文明さんの著書「ピエロの画家 魂の旅路」を読んだとき、自身の境遇と重なり衝撃的だったことを覚えています。

岡部さんは高校時代、ラグビーによる事故で車いす生活となったあと絵の世界に方向性を見いだし、愛と平和の象徴としてピエロを一生のテーマとして描き続けた方です。

この時期の私自身も、いま生きていることへの意味づけを知らず知らずのうちに行っているのだと気づきました。

2014年春、入院生活を終えて再び高校生活へと戻ったあとも自分の中で「人生を生きるうえでのテーマ」について考え、暗中模索の日々が続きました。このとき偶然にもアドラー心理学が社会的ブームになっていて、書店には関連書籍が数多く並んでいたことで目にする機会があり、そこで「勇気づけ」という概念を知ることになります。

この学問はオーストリアの精神科医であるアルフレッド・アドラーが提唱した「人は目的のもと生きていて、幸せになるには勇気を持つ」という思考から成る心理学でした。

第二の人生を歩むための「目的」を探しに大学へ。当時の友人たちと(右)

「社会学を探究したい」パラリンピックを研究テーマにしたが…

このとき私のなかに新しい視点が生まれ、まるで全てのピースがはまったかのように思考がクリアになりました。この先の人生では「広く社会を知り、そして社会に貢献するような活動をしていきたい」という漠然とした人生のビジョンを掲げ、さらに社会を深く知るきっかけが欲しいとまで考えるようになっていました。

「大学に進んで社会学を探求したい」

事故から約1年半が経過した2015年春、明治大学文学部心理社会学科へと進学して、さまざまな現代社会の現場に触れながら実践的に社会学をする学問領域を専攻しました。

学生時代はジェンダーに関連してセクシュアルマイノリティーである人が差別や偏見にさらされず、前向きに生活できる社会の実現を目指すためのイベントである東京レインボープライドへのフィールドワークや、環境社会学の一環として有機農業を学びながら農村指導者を育成する学校への実習などを通して、いま現実に起こっている社会課題について考える機会を多く持ちました。

実際に社会課題へと取り組むあらゆる団体の市民運動や市民活動に参加したことで、自分はまだこの世界の多くのことを知らないという現実に直面しました。

個人としては2013年9月に東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催が決定し、そこから始まった日本国内におけるパラリンピックムーブメントから捉えるパラスポーツと企業の支援、そして社会政策について、歴史から紐解き、今起こっている事象からその先の展開を結論付け、今後のアクションにどうつなげていくかをおもに教育、社会制度の観点から考えていくことを大学時代の研究テーマとしてきました。

そんな自分がまさかパラスポーツの世界に競技者として飛び込むことになるとはこのとき想像もしていませんでした。

競技を始めたころの森さん

初のワールドカップは「ほろ苦い」デビュー

事故から4年後の2017年夏、当時大学3年生だった私は、パラノルディックスキーの勧誘を受けたことで、葛藤の末に2017-18シーズンからスキー競技への挑戦を決意します。

今までのスキー経験はというと、中学生の頃に2泊3日の校外学習でスキー教室に行っただけという初心者の状態で、自分がこれから取り組む競技がどういうものかもよく知らず、始めた当初はリフトに乗って滑降するアルペン競技と勘違いをしていたほどです。

11月中旬の北海道旭岳で約10日間の合宿に参加し、そこで椅子型の「シットスキー」と呼ばれる競技用具に初めて乗り、それにスキー板を装着して雪上を滑りました。

まずは転び方と起き上がり方の練習からスタートしたことを覚えています。その後は、中4日ほどでワールドカップに参加するためカナダ西部のキャンモアへと向かい、国際レースに出場するという最速の大会デビューを果たしました。

しかし、慣れない寒冷地での生活が続き、さらに知らず知らずのうちに自分の限界を超える強度の運動で疲労も重なり、現地に着いた途端に熱発でダウン。体調を崩して大会前日まで寝込んでしまいました。病み上がりで迎えた初のワールドカップは、ほろ苦いデビューとなりました。

レースの結果は散々で、そううまくはいかないものだと競技自体の難しさを痛感することとなります。しかし、同時にスキーの楽しさや奥深さに魅了された自分は、ここから残りのシーズンでどれだけ上達できるかが重要だと捉えていました。

ひとつの物事に対して熱中する感覚はどこか懐かしさを覚え、その瞬間これまで止まっていた自分の時間が少しずつ動き出したような気がしました。

カナダでの初レースを終えて帰国してからは、やみくもにウェートトレーニングばかりするのではなく、まずはベースからと思い立ち、早速スキーに必要なトレーニング方法から取り組み直そうと決めました。

大学1年生から勤務しているアルバイト先は、母校の中学校の向かいにある高島平温水プールという板橋区のスポーツ施設で、そこが学生時代を通して自身のトレーニング拠点となっていました。

じつは競技を始める以前からこの施設に通い詰めて、趣味で筋トレに没頭していたという経緯もあり、スキー競技者となってからも変わらずにアルバイトとトレーニングという自身のルーティンを続けました。

大学卒業時、キャンパスでのクラス集合写真(右奥)

最終学年の春に明治大学体育会スキー部へ

そして最終学年となった2018年の春、私は明治大学体育会スキー部へと所属しました。

伝統ある体育会にパラスポーツ競技者である自分が入部できることはとても光栄なことでした。その年のパラノルディックスキー競技はカナダでの世界選手権と札幌でのワールドカップが控えており、シーズン中は海外遠征が中心でした。

一方で体育会スキー部としてはインカレでの総合優勝というチーム目標を掲げ、それに向けて活動をしており、日頃のトレーニングは別々という活動実態でありました。

冬のシーズン前に東京都中野区の合宿所に関係者が集まって納会が開かれたときのことです。成田収平総監督をはじめとするOBの方々や当時現役生だったスキー部のメンバーに温かく迎えられ、「目指す道は違うけれど、同じスキー部の一員だから」と言葉をかけていただいたときには、心の底から生きていてよかったと思いました。こうして自分は大学生活の4年間を走り抜けました。

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