陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

箱根から世界へ! 東海大OB・志田淳さん、東京パラ金・道下美里選手の伴走

東海大OBの志田さん(右)は東京パラで金メダルを獲得した道下美里選手のガイドランナーを務めました(写真提供全て本人)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は志田淳さん(しだ・じゅん、48)のお話です。高校2年生で陸上を始めて、東海大学では一般入部から3年連続箱根駅伝出場。実業団のNECでは世界ハーフマラソン選手権の日本代表にもなりました。現在はブラインドランナーの伴走を務め、東京パラリンピック女子マラソン(T12)で金メダルを獲得された道下美里選手(三井住友海上)の伴走(ガイドランナー)も務めました。

野球部から陸上部へ

東京都出身の志田さん。小学1年生から野球を始めました。「野球では1番ショートでした。野球でも結構走っていて、校内マラソン大会では1位。長距離は得意でしたね」。野球を通じてメンタルも鍛えられ、スポーツに対する考え方の基礎を学んだと言います。

高校でも野球部に入部しますが、2年生からは陸上部に入りました。「1番驚いたのは先輩後輩の上下関係ですね。野球部よりも緩いなと(笑)。野球部の時は話かけるのも怖かったです(笑)」というのが陸上部の第一印象でした。

高2で始めた陸上の長距離では、高3で迎えたインターハイ予選は都大会止まり。 最後に出たトラックレースは8月の東京都私学選手権5000m。真夏のレースで優勝を飾りましたが、「タイムは15分40秒を切るくらいでした。それが高校時代のベストですね。高校時代は時には練習でサッカーをしたり楽しみながらの部活でした。楽しかったから続けられたと思います」と高校時代を振り返りました。

東海大では一般入部から箱根出場

高校卒業後は一般入試で東海大学工学部へ。一般入部で陸上部の門をたたきました。「工学部で箱根を目指すのは珍しかったですね。ここで頑張れば箱根駅伝に出られる! そう思ったら練習が苦じゃなかったです。練習が楽しくて楽しくて、練習から自己ベストを連発していました。楽しむというのが大事ですね!」とメキメキと力をつけていきました。

2年生では箱根駅伝のメンバーに入り、アンカーの10区を走りました。「10区ということもあって沿道の人の多さに驚きました」。区間5位で箱根駅伝デビューを飾りました。

3年生になると花の2区を任されるまでに成長。「10区を走ったのが自信になり、関東インカレのハーフマラソンでも2位になりました。持ちタイムはチーム内でも目立ちませんでしたが本番に結構走れると新居(利広)先生(当時、東海大学監督)からも評価していただいてたと思います」とロードでの安定感と本番での強さが持ち味でした。

ただ花の2区はやはり特別だったそうです。「一般入部で花の2区を走った選手はあまりいないですし、とても緊張しました。ただ、本番前、少し調子を落としていました。それまで試合ではそれなりに結果を残していたのですが、2区の猛者たちと勝負するコンディションではなかったですね」。区間14位(当時15チーム中)で花の2区を走り終えました。

「僕らの時は早稲田大学の渡辺康幸さん(現・住友電工監督)、山梨学院のステファン・マヤカさん(現在は帰化されて真也加ステファンさん、現・桜美林大学監督)がとにかく強かったですね。早稲田よりも前に8秒差で襷(たすき)を受けたのですが、襷をつけている間にいつの間にか抜かれていて、気がついたら早稲田が前にいました(笑)。渡辺康幸さんは地面に足がついていないんじゃないか、空中に浮いているんじゃないかというくらい軽快な走りでしたね! あの領域はとてもじゃないけどいけなかったです」と、衝撃を受けるほどの猛者たちに挑んだ2区となりました。

3年生で花の2区に挑む志田さん

4年生の時には7区を任され、区間6位という成績。一般入部ながら3年連続で箱根路を駆け抜けました。

授業の方でも「工学部の勉強は実験の授業が多く、長引いて練習時間に間に合わないことも多かったですね。『サリチル酸メチルを合成しなさい』とか言われて試薬を何本か渡されて、蒸留し水分を飛ばして白い粉の状態にするとサリチル酸というのが出てくるのですが、それを作らないといけないのに間違えたらやり直しで(苦笑)。実験の部屋がちょうど競技場の隣だったので、『あー、練習に間に合わなかった』とよく眺めていました」ときっちり勉学にも打ち込みました。

「『挑戦』という言葉がぴったりの4年間でした。元々箱根に出られるレベルじゃなかったのですが、東海大に入ってから箱根を目指したいと練習からずっと挑戦でした」とチャレンジし続けた4years.となりました。

「挑戦」という言葉がぴったりだったと語る大学4年間でした(左が志田さん)

実業団で世界ハーフ日本代表に

大学卒業後、実業団のNECで競技を続けました。 1年目は環境に慣れずに苦戦した部分もありましたが、2年目からは少しずつ走れるようになっていったそうです。

3年目で迎えた東日本実業団選手権では20000mで優勝を飾ります。「当時20000mという種目がありました。トラック50周ということで(周回を)数えてられないですね(笑)。実はこの時、初めて『ゾーンに入る』という経験をしました。走っているうちに周りの声が聞こえているような聞こえていない状態で、自分が透明なトンネルを走っている感じでした。気がついたら先頭集団が3~4人に絞られていて、キツかったのは最後の1周でラストスパートをかけた時だけでした」と極限の集中力を発揮し、初タイトルを獲得しました。

世界ハーフマラソン選手権日本代表をかけて、全日本実業団ハーフと当時7月に開催されていた札幌国際ハーフが選考レースとなりました。

「10000m29分台だった自分が選考に絡むのはキツいかなと思っていましたが、あわよくばと狙っていました。格上の選手を相手に互角に戦えました。アトランタオリンピック日本代表の実井謙二郎さんと競り合って、上位にあがっていけました。たまたま世界ハーフの日が東日本実業団駅伝と同日開催でキャンセルする選手も出てきて、自分のところまで(代表が)回ってきました。陸上をやったからには1度は日の丸をつけて走りたいと入社時に宣言していたので、夢が叶(かな)ったと思いましたね」と有言実行となる日本代表に選ばれました。

世界ハーフは「お祭りみたいだった」と志田さんは振り返ります

迎えた世界ハーフでは「世界の名だたるランナーの中で自分が入って走っているんだと思うと、本当に気分が良くて、お祭りみたいな感じで、舞い上がって参加していました。ポール・テルガト選手(ケニア)は走りが軽く、『やっぱりすごいな』と思いました」。マラソンで当時の世界最高記録も樹立されたテルガト選手ら世界の強豪選手たちと走った経験は貴重なものとなりました。

世界ハーフ日本代表選手の皆さんと。志田さんは後列右から2人目。前列左には後のアテネ五輪女子マラソン金メダル・野口みずきさんの姿も

実業団での競技生活では「自分の実力を出し切れたか、何となく心残りがありました。トラックの10000mで28分台ですら走れていなかったですし。そこで満足してなかったので、実業団を引退しても走ろうと思っていました」。社業に専念しながら走り続けたことで、次の挑戦につながっていくのでした。

実業団時代は何となく心残りがあったと振り返ります(先頭でサングラスをしていないのが志田さん)

伴走で再び世界へ

実業団をやめてから約5年の月日が経った頃、陸上部の後輩から紹介され、アテネパラ金メダリスト(男子マラソンT11)高橋勇市選手の伴走をすることになりました。

「高橋勇市さんがすごく速くなったから伴走する人を必要としているとのことでした。勇市さんと初めて練習をご一緒した時に、『まずは一緒に歩いてみましょう』と2人で歩き出したんです。階段あるので気をつけてくださいと言ったら、『え? 階段ですか? 上り? 下り? 高さは? 幅は? 何段?』と矢継ぎ早に質問されて、衝撃を受けたんです。勇市さんが見えていないと分かったつもりで何も分かっていなかったんです。見えていない方に伝えるって本当に難しいと思いました」。そこが伴走の始まりとなりました。

「現役時代のゾーンに入ったお話をしましたが、ゾーンは極限の集中状態だと思っています。でも伴走者はその状態に入っちゃいけないんですよ。状況を的確に選手に伝えて、うまく合わせていく必要があります」。その後も高橋選手から伴走を依頼されるようになり、2008年・北京パラリンピックの伴走を務めることになりました。

パラで日本代表の伴走ということで「実業団をやめた後もあわよくば日本代表でもう1回と思っていたのですが、それがこんな形でもう1回実現できるとは」と振り返る志田さん。シドニー五輪マラソン日本代表の川嶋伸次さんが後半の伴走で、志田さんが前半の伴走を務めました。

アテネパラの男子マラソン(T11)で金メダルを獲得された高橋選手でしたが、北京大会からはT11 (全盲)とT12(弱視)のクラスが同じカテゴリーになったこともあり、必然的にハイレベルに。「前半からハイペースに飲まれてしまい、結果的にオーバーペースとなってしまいましたね」。クラスの統合や種目そのものがなくなることもあるのがパラの種目の難しさと志田さんは言います。

高橋勇市選手(写真中央)の伴走で北京パラへ(右が志田さん、左は川嶋伸次さん)

2012年・ロンドンパラリンピックでは和田伸也選手の伴走を務めます。「前半抑えて後半勝負という作戦で、ペースアップし、5位(マラソン)に入りました。T11のクラスの選手としては大健闘だったと思います」と、戦略通りの走りで和田選手の5位入賞をサポートしました。

東京パラ道下選手、金メダル獲得

16年からは道下美里選手の伴走もすることになりました。志田さんは日本ブラインドマラソン協会でコーチ・強化委員もしています。「リオの前の合宿で追い込み練習の時に、道下選手の伴走者が1人故障で走れなくなったんです。そこで急きょ伴走したのですが、その時の伴走が評価されまして、その後は道下選手の伴走をすることになりました」。リオ本番は故障されていた伴走者が復帰されたそうですが、志田さんはリオを終えて新たな東京という目標に向けて走り始めた道下選手の伴走を務めることになりました。

ちなみに、身長176cmの志田さんと144cmの道下選手。30cm以上の身長差がある上に、道下選手は1分に200回以上という超高速ピッチ走法。女性の伴走者でもそこまでのピッチはなかなか合わせることができないそうです。

「身長差があり、自分の腕振りをしてしまうと上に引っ張ってしまうので、ロープを持つ右手を下ろして腕を全く振らない状態で走っています。初めのうちはアンバランスでしょっちゅう故障していましたが、筋トレを取り入れて筋力をつけることで改善していきました」

1年間の延期の後、リオから5年分の思いを込めた東京パラリンピック。

「東京で開催ということで暑熱対策をやってきました。データをとってきっちり対策を練っていました。当日は見事に雨で低温でしたが(笑)。それでもどんな環境でも走れるように準備をしてきました」

前半は青山由佳さんが伴走し、後半が志田さん。道下選手は前半抑えて後半ペースアップするのが得意ということで、「後半勝負が見事にぴったり当たりました。間近で選手の頑張りを一番近くで見られるのは役得ですし、幸運ですね。国立競技場に入ってきた瞬間に鳥肌が立ちました」。更に、道下選手からレース後に「世界一の伴走者に伴走してもらいました」と言われたそうで、「グッときましたね。嬉(うれ)しかったですし、伴走者冥利(みょうり)につきますね」という歓喜の東京パラとなりました。

現在48歳の志田さんですが、まだまだ走りは健在。パリに向けても準備を進めています

大学で箱根を走り、実業団で世界も経験し、現在は伴走者として世界に挑む志田さん。

「伴走をやりたいと思ってたら、あまり構えずにジョギングから一緒にやってみるといいですね。気軽に一緒に楽しむことが大事です。東京パラをきっかけに伴走者が増えていったら嬉しいですね」と、伴走に興味がある方にも優しく背中を押します。

今後の目標について、「道下選手は明言していませんが、2024年のパリパラリンピックにいつ伴走してもいいように自分の強化はしておきます。パリの時には51歳になっていますが、まだマラソン2時間30分前後では走れますし、もっと記録を伸ばすべくやっていきたいです。45歳を過ぎてから毎年1回はどこかしら故障をするようになったので、今一度、食生活や日常生活を見直していきたいですね。筋トレである程度は故障を防げるので、どういうメニューをすれば、よりよくなるか今後も研究していきたいです」

いつ声がかかってもいつでも現状打破できるように、年齢の壁を乗り越えて、今日も志田さんは健脚を磨き続けます。

M高史の陸上まるかじり

in Additionあわせて読みたい