陸上・駅伝

特集:箱根駅伝×東京五輪

東京国際大×伊藤達彦「箱根とともに成長した」一つひとつ段階を踏んで世界へ

20年1月の箱根駅伝2区で、伊藤は相澤に次いでそれまでの日本人最高記録を上回った(撮影・藤井みさ)

今年夏に行われた東京五輪には、箱根駅伝で活躍したランナーが多数出場しました。箱根を経たランナーたちは、その経験をどうつなげていったのか。各校指導者への取材から、選手の成長の軌跡とチームに与えた影響をたどる特集「箱根駅伝×東京五輪」。6回集中掲載の初回は、男子10000m決勝に出場した東京国際大学出身の伊藤達彦(23、Honda)について、大志田秀次監督にお話をうかがいました。

箱根駅伝2区の“ランニングデート”から五輪代表へ

伊藤達彦の東京五輪代表への快進撃は、東京国際大4年時の箱根駅伝から始まった。相澤晃(東洋大4年、現旭化成)と競り合い区間2位。実績で劣る伊藤も前に出て、一歩も引かない姿勢を見せた。2人の競り合いは“ランニングデート”と言われるほど見る側に強烈な印象を与えた。

驚かされたのは記録である。相澤が1時間05分57秒と史上初の1時間5分台をマークしたが、相澤は前年に4区の区間記録を出すなど期待が高かった。それに対して伊藤の1時間06分18秒は予想できなかった。従来の2区日本人最高(1時間06分45秒・19年・塩尻和也=順大、現富士通)を上回ったのである。

それから約1年。“ランニングデート”の再現が伊藤を東京五輪に大きく近づけた。

コロナ禍でレースが少なかったこともあり、実業団入り後の初対決は20年12月の日本選手権10000mだった。2人は箱根駅伝2区と同様交互に前に出て、引かない走りを見せた。勝ったのは相澤で、27分18秒75の日本新で優勝して東京五輪代表を決めたが、2位の伊藤も27分25秒73と東京五輪参加標準記録の27分28秒00を突破していた。従来の日本記録(27分29秒69)よりも高い設定で、自己記録と30秒以上の開きがあった伊藤が破った。これも予想できなかった。

5月の日本選手権10000m、27分33秒38で優勝し五輪出場を決めた(撮影・池田良)

それから半年。相澤は出場していなかったが、今年(21年)5月の日本選手権10000mに伊藤は快勝し、相澤に続き東京五輪代表を決めた。27分33秒38のセカンド記録日本最高(当時)と、これもハイレベルの記録だった。

東京国際大の大志田秀次監督は「相澤君というベンチマーク(比較評価の基準にできる対象、目標)を置くことができたのが大きかった」と見ている。「達彦もウチのエースになるべき選手で期待通りに成長しましたが、3年時の箱根駅伝で相澤君は4区の区間記録を出した選手です。2区で区間11位(1時間08分36秒)だった達彦にすれば、簡単に追いつける相手ではありませんでした。それでも同じレースを走れば対抗意識を持って挑んでいましたし、4月の3000mでは僅差の戦いができた(相澤8分10秒18、伊藤8分10秒39)。私も2人が一緒に走るときは『2人で引っ張っていけ』と言って送り出しました」

同学年に目標とする強力なライバルが存在したことで、伊藤の代表へ近づくスピードが加速したのだった。

身近な目標を一つひとつクリアすることで強くなった伊藤

今回の箱根駅伝に出場するチームのうち、東京五輪長距離種目の代表を輩出したのは以下の6大学である。
東京国際大:伊藤達彦(10000m)
早大:大迫傑(マラソン)
順大:松枝博輝(5000m)、三浦龍司(3000m障害)
法大:坂東悠汰(5000m)、青木涼真(3000m障害)
東洋大:服部勇馬(マラソン)、相澤晃(10000m)
駒大:中村匠吾(マラソン)

東京国際大から、五輪選手が誕生することを予想した関係者はいなかっただろう。11年に陸上競技部を創部した歴史の浅いチームで、伊藤が入学した16年当時は、高校トップレベルの選手はいなかった。15年シーズンに箱根駅伝(16年1月)初出場を果たしていたが、伊藤が1年時には予選会を通過できなかった。「当時のウチに入ってきてくれた選手には感謝していますが、『代表を目指すぞ』とは言えませんでした。他大学から代表になった選手は高校で5000mの13分台を出したり、全国高校駅伝で区間賞を取ったりするレベルの選手で状況が違いました」(大志田監督)

伊藤も高校時代の5000mは14分33秒10(全国195位)で、全国大会の実績は皆無と言ってよかった。相澤と戦う気持ちになるまでに、いくつもの段階を踏む必要があった。「目の前の目標を一つひとつクリアしていくことで、次はこれができるぞ、と徐々に目標を高くする。達彦の成長とともに、我々の見るところも上がっていきました」

それでも大志田監督は、当初から伊藤に“強さ”を感じていた。「達彦を勧誘したのはどんな展開でもレースを捨てなかったからで、最後の1周の鐘が鳴ると全力で追い上げていました。入学後の練習でも頑張る姿勢は際立っていて、試合で結果が出ていなくても練習では強かった。この子はエースに育てなきゃいけない、と思っていましたね」

その姿勢を持つ伊藤は、目標を上げ続けることができた。1年時に29分30秒台だった10000mの記録を、2年時には28分40秒台に引き上げ、箱根駅伝予選会(当時は20km)の個人順位は166位から28位へと上昇させた。3年時のトラックでは小さな大会ではあったが、5000mで相澤に0.01秒競り勝つ経験もしている。相澤も当時は超大物というほどの選手ではなかったが、そこで勝ったことはライバルとして意識できる1つの材料にはなっただろう。

箱根駅伝は、「ずっと2区で行くと決めていた」(大志田監督)という。初出場の2年時は区間15位で、3年時も区間11位。まだ五輪選手に成長する兆しは見せていないが、3年の箱根駅伝後に殻を破り始めた。2月の唐津10マイル(約16km)で46分31秒の2位。翌年のニューイヤー駅伝3区区間賞の西山雄介(トヨタ自動車)には敗れたが、実績では足元にも及ばない実業団選手たちに割って入った。

3年時の箱根駅伝後についに頭角をあらわしはじめた伊藤。学生ハーフマラソンで3位になり笑顔のゴール(撮影・藤井みさ)

「力は3年間で徐々についていましたが、箱根駅伝まではペースを(抑えめに)決めていた部分がありました。それが唐津ではどこまで先頭についていけるか、というレースをしてリミッターを外すことができた。続く3月の日本学生ハーフマラソンでも驚かされました。相澤君たち先頭集団に20kmでは離されて4~5番を走っていましたが、最後の1kmで相澤君に7秒差まで迫って3位に入りました」

その結果、伊藤は7月のユニバーシアード・ナポリ大会代表に選ばれる。初めての海外遠征、そして学生カテゴリーではあるが初の日の丸をつけるまでに成長した。

箱根駅伝を軸に成長したことで世界が見えてきた選手

そのユニバーシアードで銅メダルを取った伊藤だが、メダル自体よりも、その大会をきっかけに自己変革ができたことが大きかった。「一緒に遠征した相澤君たちを見て、自分に足りない部分を自覚することができたんです。食事やケアなどの日常生活も練習も。箱根駅伝が最大目標でしたが、今のままでは2区で相澤君に勝てない。ライバルを強く意識することで練習が変わりました。それ以前は練習も与えられたメニューをやるだけでしたが、帰国後は最後の1本のタイムを上げたり、自分でプラスアルファを行ったりするようになった。3km×6本の最後を8分10秒台で走ったこともありました」

10月の箱根駅伝予選会で日本人トップとなると、11月の全日本大学駅伝は2区区間賞、13人抜きでトップに立つ走りを見せた。そして箱根駅伝2区での予想以上の快走と、最終学年後半で学生トップへ躍進した。

4年時の箱根駅伝予選会でも堂々の日本人トップ。一気に学生トップレベルへと駆け上がった(撮影・小野口健太)

「入学時は14分30秒の選手ですが、素質は感じていました。でも、結果がついてこないと本人は素質があることに気づかず、少しの結果で満足してしまいます。少しずつ結果を残す中で競り合う相手を見つけ、目的意識を持つことで土俵を上げられたのが達彦でした」

そのためには、指導者が選手をしっかり観察し、何が足りないかを気づかせる必要がある。練習で「これは無理」と選手が感じる内容を押しつけてもできないが、「これはできる」という練習をやることで「次はもう少しペースを上げられる」と気づかせる。それを続けられる選手がチームのエースになり、他校のライバルを見つけてさらにレベルアップができると、さらに上のレベルが見えてくる。

そのためにも大志田監督は、伊藤を東京国際大のエースとして扱い続けた。4年時にはイエゴン・ヴィンセント(現3年、チェビルベレク)が入学してきたが、箱根駅伝2区は「チームの顔」として伊藤を起用した。そこで東京五輪へつながる走りをしてみせたのである。いきなり世界への挑戦はできなくても、チームのエースになる道筋ならイメージさせやすい。

「箱根とともに成長したのが達彦です」

大志田監督は箱根駅伝を軸に、エースとなるべき選手をしっかり育てるアプローチで東京五輪に伊藤を導いた。

伊藤効果で東京国際大が往路優勝も狙える戦力に

伊藤が東京五輪代表になったことで、東京国際大は代表への成長パターンをチームとして持つことができた。「これまでは身近に代表選手がいませんでした。(大志田監督が以前コーチだった)Hondaと一緒に練習しても『速い、強い』としか感想を言えなかったですね。それが、達彦が世界に行ったことで変わってきました。今は達彦の練習前の準備の仕方や練習前後の行動を見て、自分の先の世界をイメージできる選手も出てきました」

現役学生で「達彦さんみたいになりたい」と意欲を見せているのが丹所健(3年、湘南工科大附)である。入学時の5000mの記録は14分35秒14で伊藤とほぼ同じだったが、大志田監督はエースに育てるべき選手だと判断した。しかし1年時に箱根駅伝1区起用を伝えたとき、丹所は「僕に1区は無理です」と答えたという。それでも大志田監督は丹所を1区に起用。区間13位ではあったが前年区間賞の東洋大・西山和弥(現トヨタ自動車)に先着し、伊藤と相澤の2区での“ランニングデート”をお膳立てした。

2年時の箱根駅伝も1区で区間14位ではあったが、区間1位との差は45秒と前年よりも縮めた。そして箱根駅伝後に、どうしたら自分は変わることができるのかを突き詰めて考え、スタッフに相談するなど行動を起こした。強化段階の練習はできていても試合につながらないことから、調整段階の練習を見直して徐々に結果が出るようになった。

山谷(左から2番目)と丹所(中央)も世界を目指すことができる。東京国際にとって伊藤の存在は大きい(撮影・藤井みさ)

3年生となった今年は9月の日本インカレ5000mで近藤幸太郎(青学大3年、豊川工)らと競り合って3位に食い込んだ。10月の出雲駅伝では3区で創価大のP・ムルワ(3年、キタテボーイズ)に次ぐ区間2位。チームをトップに浮上させた。東京国際大はアンカー(6区)のヴィンセントにトップで襷(たすき)をつなぎ、2位の青学大に1分57秒差で初出場初優勝を達成。丹所はその立役者となった。

さらには11月の全日本大学駅伝は6区で区間賞(区間新)。3区のヴィンセントでトップに立ち、5区で4位に落ちたものの6区の丹所で再度トップに立っている。「チームのエースに育てる」という大志田監督の期待に応え始めた。

そして同学年の山谷昌也(水城)も丹所に刺激を受け、10000mでは28分11秒94のチーム日本人最高を出すまでに成長した。大志田監督は「丹所と山谷には27分台も意識した練習をさせてみたいですね。それがクリアできれば達彦と同じように、世界を目指すことができる」と期待する。伊藤が東京五輪代表に成長したことの効果が現役学生にも出ているのは間違いない。

伊藤の姿が後輩たちに勇気を与える。一つひとつ目標達成することの重要さを教えてくれる(撮影・池田良)

箱根駅伝では2区に前回、相澤の区間記録を更新したヴィンセントを2年連続で起用し、1区と3区を丹所と山谷が分担する。「前半でできるだけ先行するレースをしたいですね。前回苦戦した6区も、今回はある程度計算できます。そこをクリアできれば9、10区につないで行ける。勝てるかどうかは相手次第だと思いますが、序盤で作った流れを生かして戦います」

東京国際大が、東京五輪代表を育てたチームとしての成長を、箱根でしっかりと見せてくれるはずだ。

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