陸上・駅伝

特集:箱根駅伝×東京五輪

早稲田大×大迫傑 自ら考えて「早大から世界へ」を体現、後輩たちが思いを継承

1年時の箱根駅伝、1区で飛び出すとそのまま区間賞を獲得(代表撮影)

今年夏に行われた東京五輪には、箱根駅伝で活躍したランナーが多数出場しました。箱根を経たランナーたちは、その経験をどうつなげていったのか。各校指導者への取材から、選手の成長の軌跡とチームに与えた影響をたどる特集「箱根駅伝×東京五輪」。6回集中掲載の2回目は、東京五輪男子マラソン代表で6位に入賞し、引退した大迫傑(30)について、早稲田大学の相楽豊監督(大迫の学生時代はコーチ)にうかがいました。

東京国際大×伊藤達彦「箱根とともに成長した」一つひとつ段階を踏んで世界へ

学生時代から世界で戦うことに執念を見せていた大迫

早大のエースは日本代表に成長して世界で戦ってきた。

1970年代に在学した瀬古利彦、80年代の金井豊と遠藤司、90年代では花田勝彦と渡辺康幸、00年代には佐藤敦之と竹澤健介、そして10年代の大迫傑と、箱根駅伝を走った早大のエースたちが五輪代表に育った。それが早大の伝統になっている。相楽豊駅伝監督も高校生を勧誘する段階で「君らは早稲田のエースとなるべくして入学し、将来は日の丸をつける選手になる。“早大から世界へ”がチームのスローガンだよ」と話している。

推薦枠は少ないものの、高校の大物選手が入学してくる大学である。長野県佐久長聖高2年時に5000mで13分台を出し、3年時の全国高校駅伝1区区間賞の大迫傑も当然、「世界を目指そう」と声をかけられて早大に進んだ。

だが大迫にとっては“言われるまでもないこと”だった。当時の大迫はトラックで世界と戦う目標を自身で定め、どうしたら世界に追いつけるかを考え続けていた。相楽監督には、それを強烈に感じられた在学中の出来事が4つあったという。

1つ目は1年時夏の世界ジュニア選手権。10000m8位の成績で帰国したときに「入賞おめでとう」と声をかけると大迫は、「まったくうれしくないですよ。1周遅れにされたのですから」と言い返してきた。

2つ目は1年時10月の出雲駅伝でチームが優勝したときだ。自身初の学生駅伝で2区区間3位。トップで受け取った襷(たすき)をトップで渡し、早大は1区から一度も首位を譲らずに優勝した。しかし大迫は、「フィニッシュ地点でチームみんなが喜んでいる中、ニコリともしませんでした」という。自分の区間成績が納得できなかったのだ。

3つ目は2年時のユニバーシアード10000mで金メダルを取ったときである。「優勝はしましたが、大迫に先行していたロシア選手が8000~9000mで途中棄権したんです。優勝したという事実が残れば忘れてしまうことだと思うのですが、大迫は勝った気がしなかったようです」

そして4つ目は3年時の日本選手権10000mだ。佐久長聖高の先輩である佐藤悠基(日清食品グループ、現SGホールディングス)に0.38秒差で競り負けると、膝をつきトラックに何度も拳を叩(たた)きつけた。ロンドン五輪標準記録Bを突破していたので、優勝すれば代表入りができるレースだったのだ。

日本選手権10000mで佐藤悠基に先着され、悔しさをあらわにした(撮影・朝日新聞社)

大迫の執念は4年時の5月に10000mで27分38秒31の日本人学生最高(当時)、8月の世界陸上モスクワ大会代表入りと、最終学年で形になった。だが、それで満足する大迫ではなかった。最後の駅伝シーズン最中に、米国のナイキオレゴンプロジェクトの練習に参加する、という行動に出たのである。

箱根駅伝直前にチームを離れ米国でトレーニング

迎えた4年時の箱根駅伝は1区区間5位。区間賞の山中秀仁(日体大2年、現Honda)には49秒差をつけられた。1~2年時に区間賞を取っている区間で、ベストコンディションで臨めなかったのは明らかだった。早大は総合でも4位と敗れている。設楽啓太(日立物流)・悠太(Honda)兄弟と服部勇馬(トヨタ自動車)がいた東洋大が優勝し、中村匠吾(富士通)と村山謙太(旭化成)の駒大が2位、日体大が3位だった。

大迫が米国でトレーニングしたことに対し、早大のOBや関係者からも非難の声が挙がったと聞く。行くタイミングを考えるべきだという意見はもっともだが、大迫にとっては世界と戦うために、何を今なすべきかを考えて出した結論だった。箱根駅伝を楽しみにしているOBやファンとの間に温度差が生じたのは、致し方ないことだった。

4年時はチームを離れアメリカでトレーニングを積んだ。だがチームから反対の声は出なかった(代表撮影)

だがチーム内から大迫への不満が出た、と聞いたことはない。早大で五輪代表に育った選手たちは、チーム全体とは別のスケジュールで強化するのが当たり前だったからだろう。瀬古も渡辺も竹澤も、ヨーロッパ遠征で学生記録を更新した。陸連や学連が主催する遠征ではなく、早大が独自のルートで大会主催者と交渉し、遠征費も準備した。練習メニューも個人のスケジュールや体調に合わせ、個別に行うことは当然だった。

「大迫はチームと同じメニューを行っていても、どうすることがトラックのスピードにつながるか、をつねに考えていました」と相楽監督。「朝練習の集団走は、やる日とやらない日を自分で判断していました。距離走を何km走るか、(当時監督の)渡辺康幸さんと大迫が相談して決めていた。強くなるためにはどれがベストか、周りに流されない選手でしたね」。そうした早大スタイルが伝統として存在したことも、大迫が単独行動をできた背景にあった。

大学1、2年時には駅伝も活用した大迫

しかし1~2年時には駅伝も、大迫にとって強化の有効な手段だった。1年時の出雲では区間3位という結果に奮起した。「出雲の翌日に、全日本大学駅伝までチームの練習を完全に行うのでよろしくお願いします、と申し出てきました」(相楽監督)。自分の経験だけでは学生駅伝の区間賞に届かず、早大チームの経験を活用すべきだと考えた。

1年時、大学駅伝デビューとなる出雲駅伝では区間3位。その後はチームに合流して練習を取り入れた(撮影・朝日新聞社)

11月の全日本も2区で区間3位だったが、区間賞は翌年10000mの学生新を出す鎧坂哲哉(明大3年、現・旭化成)で、区間2位は留学生のオンディバ・コスマス(山梨学院大3年)だった。大迫は7人抜きでチームを2位に浮上させ、4区での逆転をお膳立てした。

2週間後の上尾シティハーフマラソンでは1時間01分47秒のU20日本新で優勝し、1月の箱根駅伝は1区で区間賞。2位を54秒も引き離す快走で、早大の出雲、全日本、箱根の駅伝三冠に大きく貢献した。相楽監督は「大迫もチームの勝利に興味がなかったわけではありません。駅伝で果たすべき役割は、チームとしっかり共有していました」と明言する。

究極の“負けず嫌い”人間だが、駅伝では個人成績より、どういう走りをすることがチームのプラスになるかを考えた。箱根駅伝では1、2、4年時に1区を走ったが、ライバルチームを引き離すことを考えてハイペースに持ち込んだ。しかし上級生になると、駅伝以外の強化手段に目を向ける割合が大きくなった。箱根駅伝の1km3分00秒前後のペースでは、トラックに通じる部分が少ないと考え始めたのだ。周囲の気持ちを汲(く)んでチームで練習を行うことより、自身が強くなって結果を出すことが支えてくれた人たちへの恩返しになる。

4年時の箱根駅伝は結果としては良くなかったが、当時の渡辺康幸監督によれば米国から帰国してアキレス腱(けん)を気にしていたという。オレゴンで質(スピード)の高い練習をやりすぎたからだ、という指摘も出そうだが、それは結果論だ。大迫は強くなるためにオレゴンに行った。強くなれば直前のトレーニング内容に関係なく、箱根で3回目の1区区間賞を取る可能性は十分あった。

故障に関して言えば、大迫ほど自分の体調を正確に把握している選手はいなかった。高校時代に長期故障をした後、自身の体調の変化に細心の注意を払うようになった。学生3大駅伝は4年間、一度の欠場もなく走り続けたし、卒業後も長期間の故障は引退までしなかった。練習環境を変えても、練習内容をグレードアップさせても、故障をしない能力が継続したトレーニングを可能にした。4年時の箱根駅伝だけであれこれ批判するべきではないだろう。

本気でスピードを研いた持久型選手だからこそ

大迫は5000mで日本新を出した選手で(現在も保持)、スピード型の選手と見られているが、本来は持久型だと見る関係者も多い。学生時代にトラックで世界を目指したことで、持っていた持久的能力にスピードがバランス良く加わったと見ることもできるのだ。

相楽監督も1年時にハーフマラソンのU20記録を出した頃から、大迫のことを持久型だと見ていた。「マラソンまでは確信できませんでしたが、ハーフや30kmなら世界レベルで戦えると思いました。動きを見ても、バネはあるのですが蹴った脚が伸びるので、回転が速かった竹澤と比べると戻すのが遅かった。トラックのスピードを上げるより、ロードに向いていました」

大学2~3年時に大迫は1500mにも積極的に出場し、対校戦である関東インカレや日本インカレでも上位に食い込んだ。学生間では1500mもトップクラスだが、日本のトップとは少し差があった。「大迫のすごいところは、オレゴンに行って肉体改造をして、動きの欠点を修正したことです」

16年、日本選手権10000mで優勝してリオ五輪の代表権をつかんだ(撮影・西畑志朗)

オレゴンに拠点を移して3年目の16年、6月の日本選手権で5000mと10000mの二冠を達成して両種目のリオ五輪代表を決めた。その翌月に1500mを3分40秒49で走ったレースを見た相楽監督は、「ここまで来るんだ」と大迫のすごさを再認識した。

しかし本当に世界トップとトラックで勝負をすることは、大迫をもってしてもできなかった。17年にマラソンに転向し、ボストン3位、福岡国際3位と格上の選手たちに挑戦して上位に食い込むことで、マラソンを「自分に合った種目」(大迫)と感じるようになっていった。

早大時代に世界と本気で戦うためにスピードを研いたことが、大迫がもともと持っている持久力と融合して、スピード化が進むマラソンで結果を出すことにつながった。

大迫の考え方を継承する後輩たちが挑む箱根駅伝

今回の箱根駅伝で早大は優勝を目標としているが、大迫の五輪6位入賞が後輩たちの追い風になりそうだ。その大迫を含め、エースを代表レベルに育てる伝統の中で早大の選手は競技をしている。厚底シューズの登場で長距離選手の勲章と言われた10000m27分台の選手数は増えているが、今季の早大には中谷雄飛(4年、佐久長聖)、太田直希(同、浜松日体)、井川龍人(3年、九州学院)と3人の27分台選手がいる。学生チームが27分台を3人も擁するのは史上初めてのことだ。

東京五輪での諦めない走りは、後輩たちにも勇気を与えた(撮影・内田光)

主将の千明龍之佑(4年、東農大二)も5000mで13分31秒52と、学生トップレベルの記録を持つ。伊藤大志(1年、佐久長聖)は昨年、5000mで13分36秒57の高校歴代4位を出した。菖蒲敦司(2年、西京)は3000m障害の関東インカレ優勝者だ。「三冠をした11年の優勝がそうだったように、大エースはいませんが、学生トップレベルの選手が前面に立ってレースを作ってほしい」

早大の特徴はエリート選手に、高校で実績のなかった叩き上げ選手が加わること。「選手層は青学大や駒大には勝てません。隙間が出てしまったときは叩き上げ選手の出番です」

2年前まで3年連続2区を走った太田智樹(トヨタ自動車、直希の兄)が11月に、10000mで27分33秒13の日本歴代7位を出したことも学生に勇気を与えている。学生時代は28分56秒32が自己記録だった選手が、大迫の持つ早大出身選手最高記録を上回ったのだ。

太田智樹も中学で日本一になり、早大のエースから日本代表に、と期待されていた選手である。「智樹は1年時に箱根の8区で区間14位でした。7区までトップの青学大を射程圏内にとらえていたのですが、8区で大きく離されてしまった。そのときも1年だから仕方がない、とは本人はいっさい考えませんでしたね。1年時から早大の主力という自覚を持っていた選手です」

2年時以降の2区では区間6位、21位、6位。3年時はケガの影響で振るわなかったが、4年時は出場選手中唯一、厚底シューズを履かずに出走した。10000mの自己記録も、チームメートのペースメイクをしたときに出したタイムである。「卒業してすぐにでも27分台は出す」と相楽監督は確信していた。

中谷は大迫に近いスタイルで成長している選手だ。ケニアにもトレーニングに行くなど、自らの意思で積極的な行動を起こしている。相楽監督は「チーム練習をやったり1人でやったり、オレは違うぞ、という雰囲気や芯の強さを持っています」と大迫との共通点を挙げる。「大迫にしても、智樹や中谷にしても、本当に負けず嫌いの選手です。そういったところが受け継がれています」

大迫や先輩たちの姿に勇気づけられたた選手たちは、総合優勝を目指し走る(撮影・松永早弥香)

大迫からの一番の影響は、大迫の主催する「シュガーエリート」の合宿に選手たちが参加して学んだことだという。昨年8月の合宿には早大から中谷と千明の2人が参加した。

「ポイント練習で何をした、という表面的なことだけでなく、当たり前のことを当たり前にやり、地味な練習でもいとわず繰り返す。大迫の生活の仕方、行動、練習も含めた考え方に触れて、学んだことが非常に大きかったようです。2人とも高い意識が自然と身に付いてきました。実際、日ごろの細かい行動面で、他の学生に比べて意識が高くなりましたね。それがチーム内にも広がり始めています」

東京五輪6位だからすごい、と思うのでなく、どうして6位に入賞できたのか根本的な部分を学んだ早大の後輩たち。大迫が1年時の11年大会以来の箱根駅伝優勝という形で、その成果を見せようとしている。

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