陸上・駅伝

特集:箱根駅伝×東京五輪

東洋大学×服部勇馬&相澤晃 学生時代から世界を意識、「鉄紺の走り」をつなぐ

学生時代から世界を目指す。「鉄紺の走り」は脈々と後輩たちに受け継がれている(左・代表撮影、右・撮影:藤井みさ)

今年夏に行われた東京五輪には、箱根駅伝で活躍したランナーが多数出場しました。箱根を経たランナーたちは、その経験をどうつなげていったのか。各校指導者への取材から、選手の成長の軌跡とチームに与えた影響をたどる特集「箱根駅伝×東京五輪」。6回集中掲載の5回目は、東洋大在学時から世界を意識して成長し、男子マラソン代表になった服部勇馬(28、トヨタ自動車)と男子10000m代表になった相澤晃(24、旭化成)について、酒井俊幸監督にお伺いしました。

服部が学生時代に身につけた「マラソンで成長するための基礎」

酒井俊幸監督は2009年の就任当時から、明確に世界を意識した指導を始めた。「東洋大は陸上競技部の方針として"世界への挑戦"を掲げています」。だが「世界を目指そう」と声をかけるタイミングは選手によって異なる。入学前に話すこともあれば、選手の成長や性格を見て、タイミングを見計らって言うこともある。

「代表の前に、人間力を高めることを目的としているからです。卒業後に社会人になったときはもちろん、代表になった選手も世界と勝負をするときに人間力が重要になります」

では東京五輪代表の服部と相澤は、学生時代にどんなプロセスで人間力をつけていったのだろうか。

服部にはターニングポイントとなったレースが複数あった。酒井監督は「1年時の全日本大学駅伝8区、2年時の熊日30km、3・4年時の東京マラソン挑戦」などが該当するという。

12年の全日本大学駅伝は1年生ながら最長区間の8区(19.7km)に抜擢(ばってき)され、トップで襷(たすき)を受けたが駒大の窪田忍(九電工)に逆転された。服部本人は「1km3分00秒ペースで通用すると思っていた認識を改めた」という。高校時代の取り組みの延長では、20kmをそれ以上のペースで走れないと痛感した。

大きなターニングポイントとなったと話す、熊日30kmロードレースでの優勝(撮影・朝日新聞社)

その課題への取り組みが形になったのが2年時の熊日30kmで、1時間28分52秒の日本学生記録で走破した。箱根駅伝よりも長い距離を1km平均2分57秒7と、3分を切るペースで押し切った。当時のマラソン日本記録は高岡寿成の2時間06分16秒で、1km平均2分59秒5のスピードである。熊日30kmは服部がマラソンへの手応えを感じたレースになった。

大学3年時の東京マラソン挑戦を決意し、直前の故障で実際には出場できなかったが、本気でマラソンを走る準備をした。箱根駅伝2区は3・4年時に連続区間賞で、日本人選手では20年ぶりの快挙だった。そして4年時(16年)には東京マラソンに出場。2時間11分46秒で12位に終わったが、終盤まで日本人トップ争いに加わった。

「マラソンは走り方やフィジカル強化を自分で研究しないと走れません」と酒井監督は説明する。「そのためには生活面が重要です。学生は授業があって合宿も実業団みたいにできません。体力をつけるためのやりくりが難しいのですが、勇馬は生活パターンを考えていましたね」

服部は4年時の東京マラソンが初マラソン。中盤までトップ争いにからんだ(代表撮影)

特別なことよりも食事や睡眠、ケアなど基本的なことをしっかり行う。服部は今でも「凡事徹底」という言葉をよく口にするが、これは大学時代に酒井監督から教えられた言葉だ。学生時代に身につけた基本を徹底する習慣が、東京五輪マラソン代表に成長する礎になった。

メンタル面が弱かった相澤が東洋大で「タフさ」を身につけた経緯

相澤は福島県学法石川高時代に5000mで13分54秒75と、高校トップクラスのタイムを持っていた。だが大試合に弱く、インターハイ路線は東北大会止まり。全国高校駅伝は直前に前述の13分台を出しながら、4区区間14位に終わった。メンタル面の弱さが指摘される選手だった。

大学1年時も「体調不良やケガが多かった」と酒井監督。関東、日本の両インカレはエントリーされたが出場していない。しかし全日本大学駅伝は3区区間4位と、無難な学生駅伝デビューを見せた。同じ11月の上尾シティハーフマラソンは1時間02分05秒(U20日本歴代3位)で5位。早大や日体大の主力選手に先着して箱根駅伝が期待されたが、箱根駅伝も体調を崩して出場できなかった。

2年時から「ようやくトレーニングができるようになった」(酒井監督)ことで、関東インカレ・ハーフマラソンは8位に入賞し、全日本大学駅伝は1区区間賞と実績を残し始めた。箱根駅伝2区では1時間07分18秒の区間3位となり、学生トップランナーの仲間入りも果たした。ただ、「服部のようにこの試合がターニングポイントになった、といえるレースはなかった」という。

相澤は2年時の箱根駅伝では2区を走り区間3位。ここから学生トップランナーの仲間入りをし始めた(代表撮影)

それよりも「練習ができる体を作るまで手がかかった」という印象が酒井監督には強い。相澤にしっかりと生活させるため、酒井監督は丁寧にアドバイスをした。監督補佐の酒井瑞穂コーチと2人、両親のように接したという。生活の仕方次第で練習への集中力が違ってくる。

相澤本人も学生時代を「自分と向き合うことを教えてもらい、自身を変えることができました。上を目指して行くメンタルになれたんです」と話している。大学2年の箱根駅伝終了後に新チームをスタートさせるときには、「東京五輪10000m出場」と目標シートに書けるようになった。

3年生になって実業団選手とも対等の走りができるようになり、日本選手権10000mは8位入賞を果たした。だが日本選手権では、1学年後輩の西山和弥(現トヨタ自動車)に先着されている。駅伝では1学年上の山本修二(現旭化成)とエース区間を争い、チーム内でも完全にエースという存在ではなかった。

3年時の全日本大学駅伝の前には、「どうやったらリミッターを外せるか」とスタッフに相談している。チーム内での自分の役割も真剣に考え始め、中心選手としての自覚が生まれ始めたことから出た言動だった。「心の底から自分を振り返ったのだと思います」と、選手の生活面にも気を配ってきた酒井瑞穂コーチは感じていた。

3年時の駅伝シーズンから相澤の快進撃が始まった。全日本大学駅伝8区区間賞、箱根駅伝4区区間賞&区間新記録、日本学生ハーフマラソン優勝と学生トップ選手に成長した。

相澤の4年時は「無敵」と言えるシーズンだった。写真は全日本大学駅伝3区(撮影・藤井みさ)

4年時は日本選手権10000m4位、同5000m5位とトップランナーの仲間入り。出雲駅伝3区区間賞&区間新、全日本大学駅伝3区区間賞&区間新、箱根駅伝も2区で区間賞&史上初の1時間5分台と、学生駅伝では無敵のシーズンを送った。
自分の生活を見直し、自分を律することで足元を固め、名実とも学生トップランナーに成長した相澤。高校時代の不安定さを完全に克服して東洋大を卒業し、実業団1年目の日本選手権1000mに27分18秒75で優勝して東京五輪代表を決めた。

卒業後に自身に適した練習メニューを行う

東洋大の練習メニューはチーム全体で「おおむね同じもの」(酒井監督)を行う。ポイント練習以外のジョグの日に独自性は出せるが、週に2~3回行う負荷の高いポイント練習を個々に行うことは少ない。

しかし服部も相澤も、実業団入り後に練習の独自性を大きく出している。

服部はトヨタ自動車入社後のマラソン練習で、ジョグの量を学生時代よりも1.5倍以上に増やしている。ポイント練習と位置づけられる距離走を「ジョグのような感覚で走る」ようにするためだが、その発想は学生時代にはなかった。箱根駅伝の20kmの延長で30kmの1時間28分台を出せたので、同じような感覚でマラソンも走れると思っていたのだ。

相澤は入社1年目からスピード練習のタイム設定を上げていたが、東京五輪を経験して、さらにスピードを上げる必要を感じたという。「長い距離を抑えめのペースで走っていた」(相澤)と振り返る学生時代とは対照的だ。

しかし現在の服部を指導するトヨタ自動車の佐藤敏信監督は、「練習は変わっても学生時代の練習とつながりは絶対にある」と言う。特に服部に対しては、入社後1シーズンは酒井監督と連絡を密に取りながら練習メニューを考えた。

「服部は世界を目指す意識を学生時代からしっかり持っていましたから、そこで我々と食い違いが生じることはありませんでした。あとは具体的に練習メニューをどうするか、選手と実業団の指導者が話し合って決めていきます。新しいものになるわけですが、学生時代にやって来たこととのつながりは大事にしています」

大学と実業団の練習がいい意味でつながっている。MGC2位となり五輪代表をつかんだときの服部(撮影・佐伯航平)

酒井監督も実業団に進む選手には、大学で行う練習が絶対だと考えないように配慮する。「このメニューは実業団に進んだらタイム設定がこうなるよ」と説明することもある。

服部は3、4年時のマラソンに向けては、個別で練習するケースが多くなった。治療の際には1時間半程度の時間をかけて都心に行っていたが、グラウンドに隣接した寮に帰るとトレーニング時間がなくなってしまう。そのため治療前後に少しの時間を見つけて皇居周辺や都内を走っていたという。

相澤も目指す試合と目標によって、タイム設定を上げていた。1学年下の西山と2人で行うことが多かったが、他の選手たちは別メニューや同じメニューを少し違うタイムで行う。

1つの練習がつねに正しいわけではなく、そのときどきで自分に適した練習、目指すレベルに必要な練習に取り組んでいく。服部も相澤も、その考え方を学生時代に身につけていたから卒業後に練習を変えることができた。

選手の行動を変える「言葉を大事にする」指導

酒井監督は指導においてメンタル面を重要視している。それが端的に表れているのが、「言葉を大事にしている」ことだ。

「人として成長するためには、技術指導だけでは限界がある。"その1秒をけずりだせ"など、チームとして大切にしている言葉もありますが、選手が行動を変えられる言葉は選手個々で違います。その選手の心に刺さり、胸にジーンとくるような言葉でないと行動は変わりません」

東洋大の練習はチーム全体で行うことが多いが、言葉の指導では個別性を重視しているのだ。どういう言葉をどんなタイミングでかけるべきか、酒井監督は酒井瑞穂コーチとかなりの時間をかけて話し合うという。選手を観察する指導者の視点が多い方が、より適切な言葉を思いつくことができる。どんな言葉をかけるかをスタッフ間で共有しておけば、監督と話した選手をコーチがフォローしやすくなる。

相澤は実業団に入ってからより設定タイムの速い練習を積み、20年12月に10000m日本新記録を更新し五輪代表に内定した(撮影・池田良)

競技レベルの高い選手だけでなく、すべての部員について響く言葉を考える。それが代表選手のための言葉を考えるときにも役に立つ。

20年2月の東京マラソンで2時間07分05秒(当時日本歴代9位)を出した定方俊樹(三菱重工)は、東洋大時代は結果を残せなかった選手である。箱根駅伝は3年時の5区に一度出場しただけで、それもチームの敗因となる走りだった。それでも練習はつねに全力で行い、苦しい場面でも投げ出さない選手だったという。酒井監督からの言葉で行動を変えられたから卒業後に成長できた。

定方は2時間7分台でフィニッシュしたときに、酒井監督が遠くからガッツポーズをしてくれたことがうれしかったという。卒業後の選手も見守り続け、情にも厚い指導者であることを示すエピソードだろう。

箱根駅伝では世界を目指す"鉄紺の走り"を

東洋大はここ数年、駅伝の成績に凹凸がある。箱根駅伝は19年大会まで優勝4回を含め11大会連続3位以内と安定した戦績を残していたが、20年大会は相澤が2区で区間新を出しながら総合10位に終わった。しかし前回の21年大会では苦戦が予想されたが3位と立て直した。

服部はオリンピックでは熱中症で苦しい走りになったが、その挑戦は後輩に勇気を与えた(撮影・日吉健吾)

今季も学生駅伝初戦の出雲は、宮下隼人(4年、富士河口湖)と松山和希(2年、学法石川)の両エースを欠いて不安視されたが、ルーキー石田洸介(東農大二)の5区区間賞などで3位に食い込んだ。ところが宮下と松山が戦列復帰した全日本大学駅伝は10位と順位を落とした。4区・石田の2大会連続区間賞から、5区の梅崎蓮(1年、宇和島東)がルーキー同士の襷リレーで5位に浮上したが、6区で菅野大輝(2年、姫路商)が足をけいれんするアクシデントに見舞われた。菅野は区間13位で9位に後退し、7区の松山も区間13位で11位に順位を下げた。アンカー8区の宮下は区間6位で10位に浮上したが、14大会ぶりにシード権を逃している。同一大会の中でも区間による凹凸が目立った。

しかし全日本大学駅伝後に東洋大チームは、大きく変わったと酒井監督はいう。「ミーティングを重ねてきましたし、選手個々にも言葉をかけました。全日本の時とは別チームになっています。鉄紺のユニホームを身にまとう雰囲気になりましたね」

東京五輪に先輩たちが出場した影響も現れているという。東京五輪には東洋大出身の競歩コンビ、池田向希(旭化成)と川野将虎(同)も出場した。池田が20km競歩で銀メダルと陸上競技日本勢最高成績を残し、川野も50km競歩で6位に入賞している。

相澤はオリンピックを経験し、さらなるスピードの必要性を実感した(撮影・池田良)

「世界を目指すことが具体的にどういうことなのか、東京五輪に出場した先輩たちが可視化してくれました。日々どうすごしたらいいか、どういう目標設定をすればいいか。長距離チームも五輪前の池田と川野の合宿と、同じ場所で合宿しました。練習だけでなく、ちょっとしたすき間時間を見つけてコーチとコミュニケーションを取り、意見交換をしている2人の姿を見てきました。次のポイント練習に向けてどういう準備をするか、レベルの高い取り組みを競歩の2人は当たり前にやっていました。勇馬の五輪前の合宿は菅平でしたが、同じ場所で東洋大チームも合宿しました。宮下はオリンピックを目指したい、と言うようになりましたし、松山は練習に出てくる時間が変わりました。東洋大の2区を走った服部と相澤がオリンピックに行ったことで、前回1年生で2区を走った自分もそこを目指さないといけない、箱根でも上位で走らないといけないと、気持ちの部分が強くなってきました」

東洋大には"鉄紺の走り"といわれる走りがある。五輪代表に育った先輩たちが実際にその走りを見せてきた。

「あきらめない走り、自分の役割を理解して、その責任を果たそうとする走りです。見ている人にも選手の使命感が伝わってくるような走りを、宮下や松山が継承し、石田も身につけていく。五輪選手が東洋大から出て、より鮮明に学生たちも感じたはずです。"鉄紺の走り"をすれば常に優勝争いができます。そのチーム作りが世界を目指す選手を育てていくのです」

東京五輪のあった今シーズンは、"鉄紺の走り"という言葉に気持ちを熱くする選手が多く現れるはずだ。そして"鉄紺の走り"を見せた選手の中から、将来の五輪選手が育っていく。

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