陸上・駅伝

東洋大で4年時には主力に成長も、箱根敗戦の責任を負って卒業 マツダ・定方駿(上)

今年2月、定方駿(右)と兄の俊樹のツーショット(写真提供:定方ファミリー)

定方駿(マツダ)は今春、箱根駅伝を一度も走らずに東洋大学を卒業した。一番の目標としていた大会に出られなかったが、今後が期待されるのには理由がある。1つは3年時までは一度も駅伝に出られなかったが、4年時には出雲全日本大学選抜駅伝と全日本大学駅伝で東洋大の主要区間を任され、出雲は6区区間3位、全日本は7区区間2位と快走したこと。血筋が競技力を決めるわけではないが、今年3月の東京マラソンで2時間07分05秒(日本歴代9位)を出した定方俊樹(MHPS)の弟であること。そしてマツダの育成ノウハウが、大学で活躍できなかった選手を卒業後に伸ばしていることだ。

全2回の記事の前編では、定方駿の東洋大入学時から卒業までを紹介する。

失敗し続けた3年間

兄の俊樹が学生時代に箱根駅伝に一度しか出られなかったのは、ケガが多かったからだ。

東洋大時代の不完全燃焼感と悔しさが、活躍への原動力に MHPS定方俊樹(上)

疲労など自身の状態をかえりみず、目の前の練習をオールアウトするまで追い込んだ。弟の駿も3年間は駅伝出場がなかった。同じパターンかと思って質問すると、「4年間、ほとんどケガはありませんでした」と、兄とは異なる答えが返ってきた。

「兄が学生時代にケガで苦しんでいたとき、自分は中学生だったのですが、『絶対にケガをしないようにしよう』と決意しました。特に何をすればいいとか教わったわけではないのですが、毎日のストレッチは欠かさず続けましたね。大学に入ってからも、柔軟性はチームでも一番でした」

兄と同様に練習は「チームの上の方」で走ることができていた。本人は否定するが、相澤晃(東洋大~旭化成、箱根駅伝2区区間記録保持者)と同じ練習ができていた、という声もある。

箱根駅伝前の壮行会で、相澤(中央)、今西(左)と並んでガッツポーズ(撮影・藤井みさ)

では3年時まで駅伝メンバー入りできなかったのは、なぜなのだろう。出場できそうなチャンスも何度かあった。「メンバー選考がかかった練習や、他校の主力選手と走るレースになると、気持ちで引いてしまっていました。少しきつくなるとペースが落ちてしまうんです」

ラストイヤー、2つの駅伝で示した力

では4年生になって、2つの駅伝で好走できた理由は何だったのか。

「ジョグの量など練習のベースを上げました。3年生までもやっていましたが、人よりも才能がない自分が強くなるには、トップの練習量をやらないといけないと思ったのです。夏に松田瑞生さん(ダイハツ)の練習パートナーをさせていただき、本気でオリンピックを目指している人を間近で見られたことも、意識が変わるきっかけになりました。やるならオリンピックや世界陸上を目指したい。学生駅伝でつまずいている場合じゃないんです」

メンバー入りぎりぎりの力しかなければ、チーム内の選考レースで力んでしまうことがある。あるいは調整段階の練習をやり過ぎて、不調に陥ったりケガをしたりする。4年時秋以降の定方駿は、そういった状況を心配しなくていい力をつけていた。

出雲でも全日本でも、レース中に自身の成長を感じられた。

出雲駅伝でアンカーを務めた定方。笑顔で襷を受け取る(撮影・安本夏望)

全日本は7区(17.6km)で区間2位。5位で襷(たすき)を受けたが、優勝だけを考えていた。5km付近で順天堂大学と國學院大學を抜いて3位に上がったが、東海大学と青山学院大学が前を走っていた。

「10kmくらいで本当にきつくなって、以前なら弱気になって失速するケースでしたが、今の自分なら大丈夫だと頑張り続けられました。自分より練習した人がいるはずがない、と思って走りました」

結果的に区間賞は、後方を走っていた駒澤大学のルーキー・田澤廉(現2年、青森山田)が獲得したが、定方駿は前年度の学生駅伝3大会連続区間賞の吉田圭太(青山学院大3年、現4年、世羅)と同タイムで区間2位を分け合った。残り1.5kmで吉田に8秒負けていたが、中継所まででその差を詰めたのである。

3年間くすぶっていた男が、学生駅伝の上位で走れる力を示したレースになった。

最後の箱根駅伝に出られなかった経緯

しかし学生駅伝最後の箱根駅伝は、またしても出場できなかった。腸脛靱帯(ちょうけいじんたい)の痛みが出たが、それは12月20日には治まった。しかし24日に右アキレス腱に痛みが出て、走れる状態まで回復させられなかったのだ。故障がないのが取り柄だったはずだが、1カ月前の合宿で「走り過ぎました」という。

「相澤と今西(駿介・4年、現トヨタ自動車九州)は『もう走らない方がいいぞ』と止めてくれたのですが……。それを無視して走ったのは、気持ちの弱さだったのかもしれません」

予定では定方が3区を走ることになっていた。代わって3区を任された吉川洋次(3年、現4年、那須拓陽)は区間13位で、2区の相澤が区間新でチームを7位に浮上させた勢いを止めてしまった。東洋大は3区で10位、4区で14位まで後退し、山登りの5区で宮下隼人(2年、現3年、富士河口湖)が区間賞と踏ん張って往路は11位でフィニッシュした。

翌日の復路は、6区で今西が区間2位と好走し7位に浮上。総合では10位とシード権をぎりぎりで確保したが、11年続いていた3位以内を逃してしまう。惜しい展開には少しも持ち込めなかった。

10位でフィニッシュした及川。かろうじてシード権を確保した(撮影・藤井みさ)

「ほとんど自分の責任です。監督の想定したメンバーが組めなくなり、練習ができていなかったメンバーに大きな負担をかけてしまいました。自分がチームを壊したんです」

兄の俊樹は箱根駅伝を3年時だけ走ったが、4年連続区間賞の柏原竜二の翌年という特殊な状況でブレーキになり、「自分の責任」とうなだれた。学年も状況も異なるが、定方兄弟は敗戦の責任を自身が背負って東洋大を卒業した。

兄と同様に定方駿も、卒業までの期間は自身の不甲斐なさにさいなまれたが、卒業後はマツダで世界を目指すと決めていた。出雲と全日本の走りで、手応えも感じられていた。そして今年3月には兄が東京マラソンで、2時間07分05秒の日本歴代9位で走った。

兄・俊樹が6歳、駿が1歳のとき。6学年離れているが、仲のいい兄弟だった(写真提供:定方ファミリー)

「最後の箱根は走ることができませんでしたが、(高校時代の5000mは14分35秒22と)入学時に力のなかった自分が東洋大の主力に成長できました。自分を拾ってくれて、成長させてくれた酒井(俊幸)監督には、走りで結果を出して感謝の気持ちを表したい」

学生競技生活は思うような結果を残せなかったが、定方駿は前向きの気持ちで東洋大での4years.を終えてマツダに入社した。

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後編では、東洋大からマツダに進んだ延藤潤、山本憲二が実力を伸ばしたマツダでの練習法、そして定方駿のこれからについて紹介します。

延藤潤、山本憲二 東洋大の先輩と同様、実業団で強くなる マツダ・定方駿 (下)
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