陸上・駅伝

特集:箱根駅伝×東京五輪

駒澤大学×中村匠吾「スピード持久力」を磨きつかんだ世界、背中を見て続く後輩たち

19年MGC、中村は優勝しゴール直後に大八木監督としっかりと抱き合う(撮影・朝日新聞社)

今年夏に行われた東京五輪には、箱根駅伝で活躍したランナーが多数出場しました。箱根を経たランナーたちは、その経験をどうつなげていったのか。各校指導者への取材から、選手の成長の軌跡とチームに与えた影響をたどる特集「箱根駅伝×東京五輪」。6回集中掲載の最終回は、今回の箱根駅伝でも優勝候補の筆頭に挙げられる駒澤大学OBで、MGC優勝し東京オリンピック男子マラソンに出場した中村匠吾(29、富士通)について、大八木弘明監督にお伺いしました。

初マラソンとMGCで見せたラスト2kmの強さ

中村匠吾の初マラソンは苦しい状況になっていた。18年3月のびわ湖マラソン。東京五輪選考会のMGC(マラソン・グランドチャンピオンシップ。東京五輪代表3枠のうち2人が決定)は1年半後に迫っている。びわ湖でMGCへの出場資格を獲得しておかないと、その後のスケジュールが厳しくなる。

19℃の暑さが選手にとって大敵となり、後半まで大集団で進む大会にしては珍しく、大半の日本人選手が早々に脱落していった。30km地点では窪田忍(トヨタ自動車、現九電工)がただ1人先頭集団に残り、藤本拓(トヨタ自動車)、今井正人(トヨタ自動車九州)、中村らが30~40秒差。まだMGC出場権獲得(日本人3位以内かつ2時間11分00秒以内)の可能性はあったが、30km以降は大きくペースダウンし始めた。

中村は40km前に日本人トップに立っていたが、40km通過は2時間04分05秒で、そこまでの5kmは16分23秒だった。2.195kmに換算すると7分12秒で、フィニッシュ予測タイムは2時間11分17秒に落ちていた。MGC出場権獲得はかなり難しくなっていた。

だが、そこからの中村は強かった。ギアを明らかに切り換え、最後の2.195kmを6分46秒までペースアップした。2時間10分51秒(7位)でフィニッシュし、ぎりぎりのところでMGC出場権を獲得。上位に外国選手が6人いたのでそこまで強さをアピールできなかったが、最後の2.195kmは優勝者に次いで2番目に速かった。

苦しいコンディションとなった初マラソン、終盤に強さを見せて日本人トップに(撮影・朝日新聞社)

当時の中村は富士通に入社3年目。駒大時代から続いて中村を指導していた大八木弘明監督も「びわ湖の最後2kmの上がりが速く、マラソンは中村に合っている」と確信を持った。季節外れの暑さの中で最後にペースを上げられたことは、夏のマラソンでも力を発揮できることにつながる。

中村の2回目のマラソンは18年9月のベルリンで2時間08分16秒(4位)。E・キプチョゲ(ケニア)が2時間01分39秒の世界記録を出したレースで、中村に適したペースメーカーがいなかったため単独走を強いられた。満足できるタイムではなかったが、1年後のMGCと同じ9月の大会に向けて、練習の流れなどをシミュレーションすることができた。

3回目の19年東京マラソンは2時間14分52秒。寒さと雨の劣悪なコンディションで、大迫傑(ナイキ)も途中棄権したマラソンである。中村も体が動かなかった。

だが4回目のMGCで本領を発揮した。集団の中でリズムを作ると39.2km付近で最初のスパート。服部勇馬(トヨタ自動車)、大迫らを引き離した。大迫が追い上げ40.9km付近で中村に追いついたが、中村は大迫を前に出さない。41.4kmから上りに入り、41.6kmで中村が再度リードを奪い始めた。残り0.3kmで中村はさらにペースを上げて勝利を手中にした。

MGCでは残り1kmを切ってからペースを上げ、勝利をつかんだ(撮影・池田良)

フィニッシュした中村と大八木監督が抱き合うシーンは、長距離ファンの感動を呼んだ。大八木監督は95年の駒大コーチ就任時から、日本代表を育てることに情熱を傾けてきた。世界陸上にはマラソンで藤田敦史、西田隆維、二岡康平、トラックで宇賀地強(現・コニカミノルタコーチ)、村山謙太(現・旭化成)と駒大から代表を送り出していたが、オリンピックでは中村が初の代表入りだった。

中村の優勝タイムは2時間11分28秒で、ラスト2.195kmは6分18秒。暑さへの耐性とラストの強さ。中村が自身の特徴を、MGCという大舞台で発揮したことが五輪代表への決定打となった。最後のスパート力は五輪本番でも、入賞争いになったときは武器になる。

学生時代の中村に感じられた弱さと強さ

しかし学生時代の中村に、大八木監督は五輪選手に成長する確信は持てなかったという。3年時には熊日30kmに出場したが、1時間30分11秒で3位。服部(当時東洋大2年)が1時間28分52秒の日本学生記録で優勝したレースで、中村はラスト5kmで1分19秒も差をつけられた。

大学3年の箱根駅伝後に30kmに出場するのは、4年時にマラソン出場を目指す駒大選手のパターンになっている。中村のタイムは先輩の藤田や西田と同レベルだったが、中村は4年時の初マラソンに踏み切らなかった。

その理由を「最後の5kmでスタミナ切れを起こしましたから、在学中のマラソンは少し難しいかな、と感じました。藤田みたいに最後でガーっと上がって来ないとマラソンは走り切れません。ケガが多く、体も弱いところがあった」と大八木監督は説明する。

ではどのタイミングで、マラソンで世界を目指そうと中村に声をかけたのだろうか。

大八木監督は中村に限らず入学後2年間程度を、選手の適性を見極める期間に設定している。「スタミナが付きやすいのか、スピードが付きやすいのか。1、2年目はじっくり見て、3年目くらいから方向性を決めて指導していきます。中村にも3年の終わり頃には、東京五輪(のマラソン)を目指してやらないか、と声をかけていました」

大学3年時の全日本大学駅伝では2位に32秒の大差をつけてのトップでの襷渡しに(撮影・朝日新聞社)

大学3年時には11月の全日本大学駅伝1区(14.6km)で、区間2位の設楽悠太(東洋大4年、現Honda)に32秒の大差をつけた。トラックのラストは同学年の村山謙太(現旭化成)にかなわないが、駅伝の最後の争いでは絶対に負けなかった。4年時の箱根駅伝1区でも、終盤で抜け出して区間賞を獲得。マラソンでの勝負強さに通じる部分を学生時代の駅伝で見せていた。

だが、前述のように熊日30kmの最後は失速している。

「最後の5kmで服部選手にやられましたが、25kmまでは中村が14分50秒くらいの速いペースで引っ張り続けました。スピードで25kmまで行けましたが、スピード持久力がなかった。しかし25km以降をしっかり鍛えれば、何とかなると感じました」

中村も4年になった頃には、富士通入社後も大八木監督の指導を受けて東京五輪を目指すことを決意している。

それでも中村と大八木監督は、すぐに持久系の練習メインに舵を切ったわけではなかった。そこは大八木監督が世界のマラソンのスピード化を見て、駒大の練習をスピード化させてきたこととも関係していた。

スタミナ重視からスピード持久力重視に変わってきた駒大の練習

大八木監督は当初、持久系の練習を多く行っていた。コーチ就任2年目の1997年箱根駅伝では、復路全員が区間2位で復路優勝している。2区の藤田や3区の西田も持久型の選手だったが、能力が高く往路でも通用した。チームの中堅以下の選手もしっかり走り込みを行い、単独走となる場面の多い復路で力を発揮した。

2002~05年の箱根駅伝4連勝の頃は、高校でトラックの良いタイムを持つ選手も入学してくるようになった。藤田&西田の頃とまったく同じではなかったかもしれないが、スピード面で抜け出た存在の選手はいなかったという。明確に変わり始めたのは宇賀地、深津卓也、高林祐介の、高校で5000m13分台を出したトリオが入学した06年頃からだった。

速いタイム設定で練習ができる選手が駒大に増えたことに加え、世界的にマラソンの記録が上がり始めたことも理由だった。10000mで世界記録を出したポール・テルガト(ケニア)とハイレ・ゲブルセラシエ(エチオピア)が、マラソンで2時間4分台を出し始めていた。

4年時の箱根駅伝では1区を担当し区間賞。ここでもスピード持久力が生きた(代表撮影)

「スピードマラソンを戦うことを考えたら、スタミナだけでは難しくなっています。学生のうちから5000mの13分30秒台や、10000mの27分台を出しておく必要がある」

箱根駅伝もスピード化が進んでいた。往路でエースたちが集まる区間を除けば、以前はマラソンと同じ1km3分00秒前後で対応できた。それが徐々に、3分00秒で前半を走っていては置いていかれるようになってきた。通常のジョグや夏合宿などで走り込むことは変わらないが、大八木監督はポイント練習のタイム設定を上げていった。

「(練習全体のイメージとして)以前は30kmを走れるようなメニューを組みましたが、20kmを走れる組み方に少しずつ変わってきました。箱根駅伝も30kmを走れるスタミナで勝負していましたが、今は20kmを走れるスピード持久力で制覇しようという考えになってきています」

前述したように2年間をかけてタイプの見極めは行うので、スタミナからアプローチした方がいい選手は、今も距離の長い持久系のメニューが多くなる。近年では大塚祥平(現・九電工)がそのやり方で成長した。しかし中村や村山は、スピード系の練習でアプローチした方が伸びると判断できた。その練習を進めるなかで、宇賀地と村山は卒業後にトラックの世界陸上代表に成長した。

中村に関してはスピードからのアプローチが、学生時代だけでは不十分と考え、富士通入社後も2シーズンはトラックの成績向上を中心に考えた。世界で戦うことを考えた結果だった。入社1年目の東日本実業団は1500mを走り、秋の全日本実業団陸上は5000mで6位(日本人1位)。2年目の全日本実業団陸上も5000m2位(日本人1位)、3年目の日本選手権5000mは3位と、トラックで結果を残した。

3年目からマラソン練習を始めたが、「苦労するかもしれないと思っていた練習の40km走も、割と平気で走っていました。マラソンができる選手だと思った」と大八木監督。トラックをメインにしていても練習を継続し、筋力トレーニングや体幹トレーニングで動きが安定すれば、長い距離の走りに生きる。熊日30kmの頃から意識し始めた背中の筋肉を使う走りが、後半までスピードを維持することに有効だと感じ、背筋のピンと伸びたフォームを確立させてきた。
中村はスピード化した駒大の練習から生まれたマラソンランナーだった。

「スピードは最強」のチームが挑む箱根駅伝

現役学生では主将の田澤廉(3年、青森山田)が10000mで27分23秒44と、来年の世界陸上オレゴン大会の標準記録を突破した。

「中村と田澤は似ていますね。スピードタイプで、中村や村山がやっていた練習の質を、田澤は少し上げてやっています。練習の理解度が高いところも一緒です。試合に向けてどういうトレーニングをしていったら、体がどう変わっていくかを考えられる。この練習はできる、これは難しい、と自分の意見をはっきり言うところも同じ。自分の体調を理解しているから言えることです」

駒大を拠点に練習して五輪選手に成長したOBの中村と、世界陸上標準記録を破った現役学生の田澤。2人が駒大の学生たちに好影響を与えているという。「オレ達も、という気持ちにチーム全体がなっています」と大八木監督。朝練習はコロナ禍のため個人走が多くなっているが、「ペース配分に意欲を持って取り組んでいる選手が多い」という。

5月の日本選手権10000m、田澤(右)と鈴木はともに27分台で2、3位となった(撮影・藤井みさ)

鈴木芽吹(2年、佐久長聖)も27分41秒68で日本選手権10000m3位(田澤が2位)となり、田澤が持っていた大学2年生の最高記録(27分46秒09)を上回った。チームとしても5000mの上位10人平均タイムが13分41秒71、10000mは28分24秒65と、大学チーム史上最高に到達している。

中村や田澤との違いも認識しながら、2人は別格だと決めつけない。大八木監督も指導をする上で、「人間力も上げていかないと競技力も伸びない」と考えているが、選手一人ひとりが「駒大に来たのは何のためか」を忘れていないからだという。

東京オリンピック本番では残念ながら本調子ではなかったが、世界の大舞台での姿は後輩たちのモチベーションとなった(撮影・日吉健吾)

「駒大でやるならチャンピオンチームになる。そのためには個人個人が力を上げていかないといけません。チームや指導者に頼るのでなく、どうしたら成長できるかを全員が考えられるチームです。5000mの13分台は全員が目指していこうという雰囲気で、10000mは27分台が2人いて、28分ちょっとの選手たちも27分台を狙っている。(駒大史上)最強といえるかどうかはわかりませんが、スピード面では最強です。往路のスピードが大きく上がっている箱根駅伝でも上位に行きたいですね」

練習をスピード化してきたなかで五輪代表が育った駒大が、さらに研きをかけて臨む箱根駅伝となる。駒大は箱根でも、世界に通じるスピードを見せる。

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