パラスキー

連載:私の4years.

特集:北京冬季オリンピック・パラリンピック

ロシアの侵攻、混乱下でのパラ開幕 「悔い残したくない」と全力尽くす 森宏明3

北京パラリンピック男子スプリント座位でゴールし、引き揚げる(撮影・北村玲奈)

今回の連載「私の4years.」は、ノルディックスキー距離座位の日本代表として北京冬季パラリンピック(2022)に出場した森宏明(26)です。朝日新聞社員としてスポーツ事業部に勤務する傍ら、アスリートとして様々な大会に出場しています。5回連載の3回目は、ノルウェーの世界選手権から、ロシアの侵攻下でのパラリンピック開幕です。ウクライナ選手団との交流もありました。

野球漬けの日々が事故でどん底に突き落とされ パラリンピック競技に出会う 森宏明1

ノルウェーでの世界選手権、現地で新型コロナに感染し帰国が危ぶまれる

2021年12月、21-22シーズン初戦はワールドカップのデビュー戦の地であるカナダ・キャンモアにて過去最高順位の12位でパラリンピック派遣基準を突破し、北京パラリンピックへの出場が内定しました。2022年は、ノルウェーでの世界選手権、そしてパラリンピックなど主要な大会が続いていくなかで新型コロナウイルス感染の再拡大や中国の人権問題、そしてウクライナ問題も起こる波乱の年となりました。

22年1月、新型コロナウイルスの感染が世界的に再拡大するなか、ノルウェー・リレハンメルで行われる世界選手権(1月13日〜23日)にパラノルディックチームのバイアスロンと座位カテゴリーの選手4人、コーチ含むスタッフ6人の総勢10人という少数部隊で臨みました。

コロナ禍での海外遠征に迷いは生じたものの、前回大会のカナダでのワールドカップで、スプリント種目の準々決勝で経験不足を痛感し、レース中の駆け引きや大会期間中の調整法に課題を見いだして実際のレース感覚をつかむために参加を決意し日本を旅立ちました。

北京パラリンピックに向けては最後の実戦の機会です。ノルウェー・オスロ空港に到着後はバスで2時間ほどの道のりを移動して夜9時頃に宿泊ホテルへ到着。現地の新型コロナウイルス検査体制としてノルウェー入国の翌日から3日目まで毎日抗原検査を実施し、さらに4日目にはPCR検査を受けるルールになっているとロビーで説明を受けて、その日はそれぞれの部屋に荷物を運んで就寝しました。

現地で調整をして迎えた1月13日の朝5時、大会初日でしたが身体に異変を感じて予定よりも早く目が覚めました。

いつもの筋肉痛とは明らかに異なる節々の関節痛とのどの腫れ、安静時でも脈拍数は100回を超えて体温は37度に近い微熱でしたがその日に受けた入国後4日目のPCR検査は陰性となり、乾燥でのどを痛めただけかと思いそのままレース会場へと向かいました。

現地の気温は8度で例年よりも温かく、コース上の雪が溶け出しているような状態であるにも関わらず、なぜか寒気を感じて身体の震えが止まりませんでした。レース直前には咽頭(いんとう)痛で呼吸が苦しくなるなかで10kmのレースがスタート。

コース上で溶け出した雪が影響してスキー板の滑りも悪く、途中棄権をしようかと思いながらも必死に動き続けて24位でフィニッシュ。その後は意識がもうろうとするなかで、人との接触を避けながら一人でホテルの自室へ戻り、シャワーも浴びずにそのままベッドへ倒れ込みました。

それから2日間は回復に徹して自室から出ずに休養したものの、せきが止まらず再びPCR検査を受けて結果は陽性判定。そこからまた7日間は自室での療養隔離を強いられることになって残りのレースは全てキャンセルに。

北京までの強化プランが崩れて頭の中が真っ白になりましたが、「今できることを最大限やっていこう」と気持ちを切り替え、部屋のなかでも体幹や自重でのトレーニングを継続しました。

しかし一番の不安要素は、現地での帰国前PCR検査で陰性結果を出して予定通りに日本へ帰国できるかどうかです。1月22日朝8時、陽性判定となった日から7日が経過して隔離が解除され、祈るような思いで現地3度目のPCR検査を受けました。結果は陰性となって無事に日本チーム全員で帰国することができました。

北京パラリンピック・男子スプリント座位の予選でゴール(撮影・北村玲奈)

北京パラ、毎朝PCR検査をしてから1日が始まる

波乱のノルウェー遠征から帰国後、北京パラリンピック最終調整合宿を北海道・旭川市で実施し、スプリントレースに特化した練習メニューをこなしました。

大会の14日前から「My2022」と呼ばれる中国当局の健康管理アプリでその日の体調をフォーム上で入力することが義務付けられ、合宿期間も入力作業が発生します。

じつはパラリンピック開幕以前からこのアプリの脆弱(ぜいじゃく)性が指摘され、情報漏洩(ろうえい)のリスクがあることを受けて日本パラリンピック委員会(JPC)から北京パラに参加する日本選手団全員に貸与スマホが配布されました。

北京パラリンピックに出場するために現地へ向かう森さん。出国前の空港で(本人提供)

3月4日、準備を整えていよいよ北京へと向かいます。4時間のフライトで北京市内の空港に到着して、飛行機から降りるとパラリンピック参加者用の動線が確保されており、空港内での入国後PCR検査やアクレディテーションカードを受け取って入国審査に進むまでがとてもスムーズでした。

その後は、ノルディックスキー競技の会場地である「張家口選手村」行きのバスに乗って約3時間かけて移動します。選手村に到着したときは、夜の開会式に参加する各国の選手・スタッフを乗せたバスの列を見かけました。ちょうど北京市内のセレモニー会場へ出発するタイミングと重なっていて、入村時は閑散としていました。

選手村での生活は、毎朝PCR検査を行ってから1日が始まります。「張家口選手村」からレース会場である「国家バイアスロンセンター」までは10分置きに出る巡回バスに乗って移動します。他には食事会場やトレーニングルーム、ランドリーコーナー、ビリヤードなどが入っているゲームコーナーは24時間いつでも開いています。

今回、現地で一番大変だったことはグッズショップでの「ビンドゥンドゥン」などのキャラクターグッズ争奪戦です。キャラクター商品は一人一個までと決められており、毎朝9時の開店前から長蛇の列に並ばなければならず、開店後ものの5分でぬいぐるみやフィギュアは店頭から姿を消します。

北京首都国際空港のシュエロンロン(左)とビンドゥンドゥン(朝日新聞社提供)

侵攻が始まり、深刻な表情のウクライナ選手団

2月下旬、ロシア軍がウクライナへ攻撃を開始し、混乱下で北京パラリンピックが開幕しました。

オリンピックの開幕1週間前からパラリンピック閉幕1週間までの期間は「オリンピック休戦協定」が結ばれているなかで起きた今回の軍事侵攻に対して、当時の自分は戸惑いを感じました。

国際オリンピック委員会(IOC)がロシアと同盟関係にあるベラルーシの選手を国際大会に参加させないよう大会主催者とあらゆる国際競技団体に勧告したことから、サッカー界やフィギュアスケート界などで2カ国の除外を決定する動きが拡大しました。

そのなかで国際パラリンピック委員会(IPC)は、この2カ国を中立的な立場としての参加を当初認めるとの決定を下しましたが、翌日には一転し、両国を除外することとなりました。

パラリンピックに参加する多くの出場国がボイコットの意向を示したことによるものでした。私が入村した3月4日時点では、ロシアとベラルーシの選手は選手村やレース会場で普段通りトレーニングを実施していましたが、翌日には帰国準備を始めていました。

今回、日本チームは会場の控室がウクライナ選手団と同じ棟内に位置していて、つねに顔を合わせていましたが、私たちでは想像できないほどの覚悟で国境を越え、この大会に臨んだことだと思います。

その当時レースの合間の時間にほとんど全員談笑することなく、ただ携帯の画面を見つめて深刻な表情を浮かべていたことが忘れられませんでした。

現地でよく顔をあわせていたウクライナチームと一緒に記念撮影(本人提供)

「悔いを残したくない」最後に実力以上の力を出せた

3月9日、900mのスプリントレース。

自分は初めてのパラリンピックの舞台に胸を躍らせながらスタートラインを切りました。

レース序盤から飛び出してその勢いのままフィニッシュラインまで滑り切る想定でした。序盤200-300m付近の上り坂で予選通過の12位まで1秒差。

しかし、中盤の下り坂でカッターと呼ばれる滑走レーンのコース選択に失敗してカーブで大きく膨らむタイムロス。その後、終盤は1秒でも挽回(ばんかい)するために急なカーブでも減速せずに切り返す判断をしましたが、スキー操作を誤り転倒し、初レースは31位で予選敗退という結果に終わりました。

「悔いを残したくない」と強気にコースを攻める決断をしたことが自分にとってプラスの経験になったと感じます。

10km混合リレーを終え、記念撮影で笑顔を見せる(左から)森宏明、岩本啓吾、阿部友里香、出来島桃子(撮影・北村玲奈)

12日の10kmレースは、10度まで気温が上がり、突風の吹くなか滑走しました。今まで経験したことのない厳しい条件下で肉体的に苦しいレースではあったものの、最後まで諦めず感謝の滑りを見せたいという気持ちが自身を突き動かしていました。

30位でフィニッシュし、海外選手と健闘をたたえあって個人での全種目を終えました。

最終日は、4人で10kmを滑る男女混合のミックスリレーにサプライズで起用され自分は3走を担いました。疲労がピークに達しているなかでも「チームのために走る」という思いでアンカーにリレーを繋ぎ、最終順位は7位となりました。

最後の最後で自分の実力以上の力が出せたのかなという思いです。ノルディックチームの一員として大会に臨めて本当に光栄でした。

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私の4years.

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