中央大学・山本涼 憧れの石川祐希もつけた「1」を背負って「託す1本を決めさせる」
中央大学バレーボール部の背番号「1」を背負う。歴代「1」をつけた存在を振り返ると、偉大な選手ばかりで「本当に自分でいいのかな、と思うことがたくさんあった」と身長165cmの守護神、山本涼(4年、星城)は笑う。ただ「中大に行きたい」と思うきっかけをくれた、あの大先輩と同じ「1」を背負い、全日本インカレを迎えられる喜びは格別だ。
「石川祐希さん(ミラノ)は小学校、中学校、高校も同じ。小さい頃から『教えればすぐできるすごい選手だった』と聞かされてきたので、同じ1番か、と思うとプレッシャーもあるけど、でも素直にうれしいです」
「メンバー外でもいいから、強いところで」と星城へ
ホワイトボードには「全日本インカレまであと○日」と記され、日々少なくなっていく数字を見るたび「いよいよだ」と気合も入る。「最後はセンターコートに立って、みんなで喜んで終わりたい。去年、超えられなかったところを超えたいです」
バレーボールを始めた頃は、まさか自分が関東1部の大学でプレーできるような選手になれるとは思わなかった。何しろ体が小さかったからだ。
「中学入学の時点で身長は137cm。余裕でネットの下をくぐれました(笑)。今、小中学生の子たちと接する機会があって『小さいけど、どうすればいいですか』って聞かれるんですけど、小さいと言っても150cmはありますから。当時の僕より全然大きいんですよ(笑)」
少しでも身長が伸びるように、いろいろなことを試した。「ぶら下がるといいらしい」と聞けば、校庭の鉄棒にぶら下がる。「ジャンプすれば大きくなる」と聞けば、ジャンプの練習ばかりした。高さが武器になるバレーボールでは「悔しいことばかりだった」。ならば地上戦で負けるな、とばかりにレシーブを磨いた。
小中学生の時は全国大会に届かなかったが、中学3年で愛知県選抜に選ばれた際、参加した合宿で、初めて星城高校へ。「石川祐希さんの、あの星城だ」と憧れる気持ちしかなかったところで、山本にも「リベロとして入学しないか」と声がかかった。家族に相談すると「星城のような強豪校は、身長も高くて素質のある選手がそろうのだから試合に出られるはずがない。もっと試合に出るチャンスが多い学校へ行くべきだ」と最初は反対された。だが、山本の気持ちは揺らがなかった。
「メンバー外でもいいから、強いところでやりたい。星城に行きたい、と自分の気持ちをぶつけたら、親も『それで後悔しないなら挑戦すればいい』と認めてくれた。ヘタクソな自分が(試合に)出られる場所じゃないけど、でも頑張ろう、って思って星城に入りました」
強豪校の当たり前は、すべてが衝撃的だった
強豪校の“当たり前”は山本にとって大げさではなくすべてが衝撃的で、刺激的だった。入学から間もない5月、関西や九州から強豪が集まる合同合宿。ひたすら練習ゲームが繰り返され、誰を見てもとにかくうまかった。特に山本の目を引いたのが広島・崇徳高校のリベロ。後に何度も対戦することになる高木啓士郎(東海大4年)だった。
「うまい選手やすごい選手はたくさんいるけれど、リベロではなかなかいなかったんです。でも、見た瞬間に『うまっ』と思って。上級生だと思っていたら、同学年だと知って余計にびっくりしたし、こんなすごいヤツと戦わなきゃいけないのか、と思ったら衝撃でした」
最初はサーブレシーブ時のリベロから始まり、努力を重ねた結果、1年から出場機会をつかんだ。2年時にはレギュラーリベロに。試合に出られることはうれしかったが、それだけではない別の思いもあったと振り返る。
「1学年上のリベロにものすごくうまい先輩がいたんです。でも将来を見据えて僕を育てるために出場機会が減ってしまった。『先輩の思いも背負って戦おう』とそれまで以上に必死で練習しました」
全国大会にはなかなか届かず、卒業後は、またも石川と同じ中大へ。憧れの場所で始まる新たな挑戦に山本は心躍らせていたが、コロナ禍によりライバルたちと戦うことができないまま、最初の1年はあっという間に過ぎていった。
限られた時間をぶつける重さを体現した先輩
春のリーグ戦、東日本インカレ、秋のリーグ戦と立て続けに大会が中止となり、全日本インカレもチーム内で新型コロナウイルスの陽性者が多く出たため、出場すらできずに終わった。山本は当時の4年生たちの失望や落胆を見ながら、相当な出来事だと頭で認識していたが、4年間という限られた時間をすべてぶつける重さを本当の意味では理解できていなかった。
ようやくわかったのが、少しずつ有観客での試合が増えた中で迎えた、昨秋のリーグ戦だった。
前年の全日本インカレで、初めてセンターコートを経験した。心強い先輩たちに「引っ張られた」と山本は振り返る。初めて胸にかけたメダルの喜びは大きく、3年生になって迎えた昨春のリーグ戦はさらに上を目指そうと意気込んでいた。
だが、結果は7勝5敗で5位。東日本インカレも準々決勝で専修大学に敗れた。「どれだけ頑張っても勝てないのではないか」と心が折れかける中、やるべきことをやれば結果は出る、と信じてチームを引っ張ったのが昨年の主将、佐藤篤裕(アイシン)だった。
相手ブロックが並ぶ苦しい状況や、長く続いたラリーでも渾身(こんしん)のスパイクを打つ。終盤の勝負どころは攻めのサーブでチームをもり立て、大きな1点をもたらし、秋は6年ぶりのリーグ優勝に導いてくれた。
「アツさんがコートにいてくれるだけで安心感がありました。ここぞという場面で決めてくれるのが心強かったし、優勝できたことはもちろんですけど、最後に早稲田との全勝対決で勝って、優勝できたのがものすごく自信になりました」
春先は「葛藤することが多かった」
さらに上を目指すべく、関東の秋季王者として臨んだ全日本インカレは、3回戦で天理大学に敗れた。力はあったはずなのに、なぜ出し切れなかったのか。山本は落ち込むばかりでなく、力に変えた。
「めちゃくちゃ悔しかったですけど、負けるということには絶対に理由がある。悪い面も見えるけれど、それもプラスにするしかない、と切り替えました」
ただ、そう簡単にうまくはいかなかった。最終学年になって早々、チームをまとめることに苦労した。全日本インカレを終えて間もなく藤原直也(4年、北嵯峨)、澤田晶(3年、愛工大名電)、山﨑真裕(3年、星城)、柿崎晃(3年、北海道科学大)の4人がイタリアセリエAに短期派遣された。一人の選手として得がたい経験になったことは言うまでもないが、帰国直後に始まった春季リーグに対する準備が十分ではなかった。
世界トップレベルでの経験をもとに「こうしたほうがいい」と彼らが提案するスタイルと、これまで中大として育み、培い、強化してきたディフェンスのスタイルはまったく異なる。迷ったまま試合をした結果、成績も伴わず6勝5敗の6位に終わった。主将として、守備の要として「葛藤することが多かった」という山本。ただ、衝突を繰り返した結果として「自分たちはこう戦ったほうがいい」というスタイルにたどり着けたのは収穫だった。
ブロックとレシーブの「トータルディフェンス」を武器に
東日本インカレは準優勝、秋季リーグは7勝4敗で5位。いい時ばかりでなく、うまくいかない時も次へとつなげる力に変え、いよいよ日本一を目指す大会は全日本インカレを残すのみとなった。
「きれいじゃなくても1点は1点。泥臭くてもいいから、みんなで得点をもぎ取りたいし、決まったら誰よりも喜んで、走り回って盛り上げたいです」
もちろん、リベロとして描く理想もある。
「中大はブロックとレシーブのトータルディフェンスが武器なので、相手が思い切り打った強打を自分が拾って、最後は藤原が決める。全員で『行け!』と叫んで託す1本が決まって、優勝できたら最高。そこで決めさせるのが、自分の仕事です」
中大の「1番」をつけて最後の戦いに臨む、小さな守護神の誇り。目指すは頂点だけだ。