バレー

連載: プロが語る4years.

中大1年のときに突然訪れた「世界」の入り口 石川祐希2

石川は1年生のときから活躍し、その年には春季、秋季、全日本インカレの三冠をなし遂げた(すべて写真提供:「中大スポーツ」新聞部)

連載「プロが語る4years.」から、日本代表のエースで現在、イタリア・セリエAのパドヴァで活躍しているプロバレーボール選手の石川祐希(24)です。4回の連載の2回目は中大時代に訪れたチャンスについてです。この対面取材は昨年12月に実施したものです。

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「バレーができればいい」だけだった

高校から大学。同じ「学生」というカテゴリーではあるが、石川の中では明確な違いがあった。

「高校の延長に大学があるんじゃなくて、目標も高校は高校、大学は大学でした。当たり前のことなんですけど、目指すものや取り組み方、モチベーションは常に変わります。実際、大学に入ってからは『一つ上のステージにきた』という気持ちが強くなりました」

中大に入学して間もなく、1年生のときからレギュラーとして春季リーグに出場。「一つ上のステージ」とはいえ、攻撃力の高さは入学当初から群を抜き、攻守において存在感を発揮した。

バレーでは数多くの大会で勝者となり、結果を残してきた。それでも当時はまだ、石川の意識はそれほど高かったわけではない。大学を選ぶときも、将来を見すえて「この仕事をするためにこの大学、学部に進もう」と決めたわけではなく、あくまで基準はバレー。様々な監督の話を聞き、掲げるスタイルやトレーニング施設を含んだ環境から、もっと言えば、1つ、2つ上の高校時代に活躍した同じポジションの選手がいる大学を「出場機会がないかもしれない」と避け、その中で一番適していると思った中大を選んだ。

スポーツ推薦ではなく一般受験する学生からすれば、中大法学部は高き門とも言えるだろう。ただ石川自身、学部自体に興味があったかと言えばそうではない。

「『卒業したらそのまま企業へ進んでバレーボールができればいい』と思う程度だったので、何を学びたいと思うことすらありませんでした。言葉は悪いかもしれませんけど、あくまでバレーボールをするために大学へいくという考えだけでした。だからバレーボールで中大を選び、入ったのがたまたま法学部だったので、学業までは考えていませんでした」

イタリアからのオファーに好奇心がうずいた

そんな大学1年目に春季と秋季、全日本インカレで三冠を達成。そして転機が訪れた。イタリア・セリエAの強豪であるモデナから短期留学でチームに加入しないかという誘いが舞い込む。海外バレー事情に対する知識はまったくと言っていいほどなかったが、「世界」というキーワードは魅力的だった。

バレーをするために進んだ大学1年目に、「世界」という新たな選択肢に恵まれた

「それまでもU18日本代表など、アンダーカテゴリーで海外へ行ったことはありました。だから世界の強豪と言われるチームからオファーをいただいたときは、単純に『やってみたいな』と。せっかくそんな話があるなら断る理由はないし、とにかく最初は『海外のクラブってどんなところだろう』という興味、好奇心だけで選択して、『行きます』と即答しました」

もしこのタイミングで転機が訪れなければ、石川は華やかな大学時代を謳歌した一学生プレーヤーのままだったかもしれない。もしくは「こんなものか」とバレーにも勉強にも情熱を保てずに、4年間を終えてしまう可能性もあっただろう。だが、石川はチャンスを逃さなかった。

プロの世界を垣間見て、芽生えた海外へのあこがれ

1本のスパイク、1本のレシーブ。常に「結果がすべて」とも言うべきプロの世界を経験し、石川の意識は確実に変わった。大学バレーのシーズンが終わった12月からの3カ月という短い期間ではあったが、モデナでの時間は濃厚だった。ただ、試合には出られなかった。

「いつかは自分もあんな風に各国の代表選手が集まるような場所でプレーしたい」。まだ漠然とではあったが、海外へ渡ることにあこがれは募った。しかし目の前には、大学生として取り組まなければならない日常がある。日々授業を受け、放課後遅くまで練習に取り組む。2学年上には当時の中大で主将を務めた関田誠大(現・堺ブレイザーズ)や今村貴彦(現・パナソニック・パンサーズ)がいて、日々の練習は充実していた。だが一方では、「何かが足りない」とも感じていた。石川は当時を振り返ってこう話す

「大学の生活やけがなど様々な事情が重なって、2年生のときはイタリアに行けませんでした。モデナでの経験で『世界には自分よりも強い選手がたくさんいる。チャンスがあるならより高いレベルに挑戦したい』という思いが強くなっていたので、本心としては行きたかったです。いまだから言えることですけど、当時は『(大学で)レベルを合わせてプレーしないといけないと思ったこともありましたし、『強さよりも周りの楽しさに合わせてやっていくしかないと妥協したときもありました。自分の夢に挑戦したい気持ちと、たくさんの人たちのおかげでここ(中大)でバレーボールができていることへの感謝の思いと、その間で悩んだ時期がありました」

日々の練習は充実していたものの、物足りなさは拭えなかった

大学のタイトルを総なめにしただけでなく、Vリーグチームも一堂に会する天皇杯では柳田将洋(現・ユナイテッド・バレーズ)も在籍したサントリーサンバーズに勝利するなど、学生というカテゴリーに留まらず石川の活躍は続く。だが一人の選手としては、やはりどこか物足りない。リーグ戦やインカレと大会がある度に多くの観客が訪れ、常に注目を浴びながらも、「もっと強くなりたい」と石川は葛藤していた。

「未来」のためにイタリアへ、学生最後の試合で流れた涙 石川祐希3

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