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連載: プロが語る4years.

「未来」のためにイタリアへ、学生最後の試合で流れた涙 石川祐希3

プロが語る4years.
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日本代表の活動と渡欧で、とりわけ最終学年では中大のユニフォームを着て戦う試合が限られていた(写真提供:「中大スポーツ」新聞部)

連載「プロが語る4years.」から、日本代表のエースで現在、イタリア・セリエAのパドヴァで活躍しているプロバレーボール選手の石川祐希(24)です。4回連載の3回目は大学ラストイヤーについてです。この対面取材は昨年12月に実施したものです。

中大1年のときに突然訪れた「世界」の入り口 石川祐希2
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2度目のイタリアから始まった「未来」へのスタート

大学生活は「前半」と「後半」に分けられる。大学や学部によって異なるものの、一般的に前半にあたる1、2年生のときは必修授業も多く、できる限り単位を取らなければならない。部活では練習以上に、その前の準備や終わった後の片づけなど、下級生としての役割が多い。対して後半の3、4年生になれば少しずつ授業も少なくなり、教職やゼミ、卒業後の進路に直結する準備に向けた時間が増え、部活ではより練習に専念できる。

準備期間でもある1年生のときにイタリアで「世界」を体感した石川にとって、2年生になってからは日常がどこか物足りなく映ることすらあった。しかし3年生になり、学生生活の後半を迎えたころ、再び転機が訪れた。1年生のときの短期留学で在籍したモデナと同じイタリア・セリエAに属するラティーナから、2015年のワールドカップで活躍した石川に「契約を結びたい」と打診があった。

大学での授業や大会を優先するため、渡欧は全日本インカレ後の12月となる。それでも3月まではラティーナでプレーでき、力があれば今度こそ試合に出場もできる。石川は迷うことなく契約に応じた。その選択は、当時から石川が描いていた「未来」に向けたスタートでもあった。

「3年生での秋季リーグが終わるころから、少しずつ進路の話を聞かれることが増えました。そのときは『分からない』と言っていたんですけど、自分の思いとしては『海外でプレーしたい』と思っていたんです。ラティーナで戦ってチャンスをつかめれば、その先のチーム選びにもつなげられるかもしれない。だからこれは卒業後に歩むバレーボール選手としての準備段階と考えていました。ただイタリアへ行くだけでなく、少しでも自分が出られる可能性が多いクラブに行こう、と」

中大チームから離れていても、だからこそ

想定外だったのは、自身が入学前に想像していた以上にハードスケジュールをこなさなければならなかったことだ。大学とイタリアだけならば、日本にいるときは授業と練習、トレーニングに時間を割いてじっくりと体づくりができる。しかし並行して、日本代表の合宿や試合がある。本来はトレーニングや走り込みで土台を築かなければならないときに、試合でパフォーマンスを発揮するためのプログラムに取り組まなければならない。もちろん日本代表としてプレーし、世界の強豪と戦う機会が貴重であることは間違いない。だが技術レベルが上がれば上がるほど、そのパフォーマンス発揮に伴う体づくりが追い付かず、膝や腰が悲鳴を上げる。

2度目のイタリアでは、試合に出場して戦うことを明確に意識していた(撮影・朝日新聞社)

3年生のときに全日本インカレで三連覇を達成し、イタリア・ラティーナへ渡るも、けがの治療を優先しなければならなかった。満足いく結果を出し切れたわけではない。だが大学最終学年となった17年も、ラティーナは石川と契約。取得すべき単位はすべてクリアしていたこともあり、秋季リーグには出場せず、日本代表の活動を終えた10月に渡欧した。

この年の春季も日本代表の活動があったため、大学の試合にはほとんど出場できていなかった。すべての試合をともに戦えたわけではない。だが離れていたからこそ、石川は中大で試合に出場するときは「自分がいなくて迷惑をかけた分、少しでも貢献したい」と思っていた。石川がいない間、チームをまとめた武智洸史(現・JTサンダーズ広島)は、チームもまた別の思いで強くなろうとしていたと振り返る。

「僕は(星城)高校から祐希と一緒にやってきて、対角を組んできたので、祐希のすごさは一番よく知っています。苦しいときでも必ず決めてくれる安心感があるから、みんな思いっきりプレーできるし、祐希に負担をかけないように『もっと頑張らなきゃダメだ』と練習する。祐希がいない間、正直苦しかったです。でも『石川がいないから負けた』とか『石川がいない中大なら勝てる』と思われるのは嫌だったので、最後のインカレで祐希が帰ってきても、助けてもらうんじゃなく、自分たちがやってやろうと思っていました」

最後の全日本インカレはチームのために勝ちたかった

中大は関東ブロック予選を勝ち進んで全日本インカレ出場をつかみ、翌週の天皇杯への出場も決めていた。しかし全日本インカレを終えれば、石川は渡欧する。全員がそろって戦うのはこの全日本インカレが最後だった。

準々決勝まで順当に勝ち進み、準決勝の相手は筑波大。奇しくも、小中高とともにプレーした中根聡太が主将を務めていた。中根は高校では石川とともに「六冠(インターハイ、国体、春高を2年連続で制覇)」をなし遂げたが、大学では3年連続で石川擁する中大に負け続けている。最後の全日本インカレで対戦がかなうかもしれない。組み合わせを見た瞬間から、中根は「打倒中大」「打倒石川」を掲げてきた。

準決勝はその執念の結晶とも言うべき試合だった。2-0と2セットを中大が連取し、誰もが「中大が勝つ」と思った圧倒的不利から、筑波大が3セットを奪取。中大の四連覇は潰(つい)え、石川の学生最後のタイトル獲得はなし得なかった。4年生にとって全日本インカレは学生最後の大舞台。たとえ相手が優勝候補筆頭でも、ゲームが終わる瞬間まで全力の限りを尽くす。もちろんみな、自身の有終の美を願って戦う。だがそれだけではない。上級生は「続く後輩たちのために勝ちたい」と思い、下級生は「先輩を勝って送り出したい」と思い、戦う。

中大に勝利した筑波大、そしてその筑波大を破って優勝した早稲田大と比べたら、直前までイタリアにいた石川の全日本インカレにかける執念は劣っていたのかもしれない。だが紛れもなく言えるのは、最後の全日本インカレは「自分が勝つため」という以上に、「仲間のため」に戦った。それは石川の涙からも伝わった。

学生最後の試合となった3位決定戦では東海大に勝利。試合後、石川は涙ながらにチームへの感謝を述べた(写真提供:「中大スポーツ」新聞部)

「大学の4年間は常に“チーム”を意識する時間でした。プロとなったいまは『自分をどうアピールするか』『そのためにどう結果を出すか』が一番ですけど、大学はそうじゃない。悩んだり迷ったりしたこともあったけど、チームのために考えて全うできた。それは間違いなく、大学にいったからこそ成長できた部分だったと思います」

世界で戦ういま思う「大学は無我夢中でチャレンジできる最後の期間」 石川祐希4完

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