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特集:2023年はリベロが熱い!

明治大学・武田大周 殻を破るため、主将に立候補「後輩のためにも最後は金メダルを」

「俺がやります」と自ら主将に立候補した明治大の武田(撮影・田中夕子)
【特集】2023年はリベロが熱い!

キャプテンは俺だ。武田大周(4年、松本国際)は自分から申し出た。

「入学した時からずっと、自分たちの代で中心になるのは俺と(工藤)有史(4年、清風)だと思っていたんです。有史のほうが点数を取れるポジションだけど、自分のほうが、周りに対しても言うことができると思った。だから監督とコーチに『(キャプテンは)俺がやります』と言いにいきました」

同期に告げたのはその後。「俺でいいかな」。そう伝えると、全員が即答した。

「お前しかいないでしょ」

自分で点を取ることはできない。でも相手に点を取らせず、仲間を勇気づけることはできる。リベロとして、主将として。武田には、貫き、こだわってきたことがある。

中学へ進学する頃、バレーボールは「燃え尽きていた」が……

バレーボール歴は長く、地元・東京の上野エンジェルスには小学1年の時に入部した。2人の姉がもともとバレーボールをしていて、同じクラブに入っていたので自然に「自分もやりたい」と思ったのがきっかけだった。全国大会出場ではなく全国優勝を目標とするチーム。週に6日間、基礎や基本を重んじる練習は厳しく、実際に小学4年生で全国優勝を経験したが、中学へ進学する頃には「燃え尽きていた」と振り返る。

「バレーボールが嫌になったわけではないですけど、ほぼ毎日、学校が終わればすぐに練習があってテレビも見られない。公園で遊んでいる同級生を見るとうらやましかったし、気づいたら(バレーボールが)楽しくなくなっちゃって。辞めよう、とは思わなかったですけど、もう厳しい環境ではやりたくない、と思ってしまったんです」

大学では主将として仲間をたたえる場面も(提供・関東大学バレーボール連盟)

私立の強豪中学からいくつも誘いを受けたが、「これからは楽しくやりたい」と家から近い銀座中に入学し、バレーボール部に入部した。同級生はもちろん、上級生もほとんどが初心者でそもそも「何が何でも勝つ」と思ってバレーボールをする選手などいない。自分が望んで選んだはずなのに、いざその環境に置かれると物足りなくなった。その矛先を周りに向けてしまった。

「僕はずっと根性でやってきたから、『できなくても仕方ない』みたいな状態が許せなくて、試合中も周りに対してキレまくっていました」

見に来た母親や、小学生の時に同じクラブだった子の親からも「大周、気持ちはわかるけど怒るのはダメ。むしろ自分が教えてあげなさい」と諭されたが、当時は反抗期の真っただ中。「知らねーよ」と反発するばかりで、周囲の助言を聞こうとしなかった。やればやるほど「もっと厳しく、勝てる環境でやりたい」という思いが収まらなくなり、無理だとわかっていながらも母親にぶつけた。

「俺、転校したい。今からでもやっぱりちゃんとバレーができるところに行きたい」

母の返答はいたってまっとうだった。

「自分でやると決めて、縁があって銀座中を選んだんだから、最後までやり抜きなさい」

柳田歩輝からの誘いを受け、松本国際へ

ぶつかり合ったり、口を利かなかったり。母とのケンカは3カ月近く続いた。最後は武田が「銀座中でやり切る」と決め、都大会ベスト16で中学の試合を終えた。高校の進学先は「悔いを残さないように」と考えていた中、姉同士が同級生で小学生の頃から親交があった柳田歩輝(いぶき、筑波大4年、松本国際)から誘いを受けた。

「今度松国の練習に参加するんだけど、大周も一緒に行かない?」

東京から長野へ。当初の選択肢には入っていなかったが、強豪校であることはよく知っていたし、興味はある。「歩輝もいるならいいか」と軽い気持ちで練習に参加し、即座に入学が決まった。武田自身はセッターを希望していたが、先輩のラリー・エバデダン(現・パナソニック)が何げなく発した「武田はリベロできます」という発言に流され、そこからリベロ人生が始まった。

高校で強豪の松本国際に入り、リベロを任された(撮影・田中夕子)

インターハイや春高といった全国大会を目標に厳しい練習が続いた。だが武田自身、「やる」と決めて進んできたから迷いはなかった。むしろ「毎日が合宿みたいだった」と振り返る日々の中、リベロとしての技術や心構えも育んだ。3年時には柳田が主将を務め、インターハイの準決勝で髙橋藍(日体大4年、東山)を擁した東山と対戦。ストレート勝ちを収め、決勝は東北に勝利し優勝を果たした。最後の春高に向けたモチベーションが高まったのは当然で、同世代のリベロたちの存在も武田にとってはこれ以上ない刺激となった。

「1年の時に鎮西が優勝して、当時から(荒尾)怜音(早稲田4年、鎮西)がスーパーリベロと言われていたんです。確かに怜音はうまかったし、すごいな、注目されてうらやましいな、と思っていたんですけど、テレビでも怜音はスーパーレシーブがスローモーションで映されるのに、僕は藍や(水町)泰杜(早稲田大4年、鎮西)に決められるシーンばかり(笑)。成績だけを見たらインターハイを優勝していたし、松国でやり遂げた感はありましたけど、一人の選手としては『絶対このまま終わらせたくない』という思いは常にありました」

手応えを得た東日本インカレ準決勝

最後の春高は準決勝で東山に敗れ、高校生活を終えた。頂点に立てなかった悔しさはあったが、そのリベンジは大学で。意気揚々と入学した明治大では、苦悩の日々が待っていた。

入学とほぼ同時期に、新型コロナウイルスが流行。春、秋のリーグ戦は軒並み中止となった。わずかな数だけ、無観客での代替試合が開催され、厳しい感染対策を設けた上で全日本インカレは開催されたが、武田は出られなかった。

全日本インカレ開幕の日、母が永眠した。

ケンカすることもあったが、いつも優しく見守ってくれた。これからも見てくれていると信じて、バレーボールを必死で頑張ろう。翌年の全日本インカレは、武田にとって初めての全カレであり、結果を求めて臨んだ大会だった。しかし初戦敗退。大阪体育大学の勢いに押し切られ、フルセットの末に2回戦で敗れた。悔しくて涙も出なかった敗戦を糧に、「次こそは」と意気込んだが、その翌年は国士舘大学に2回戦で敗れた。

「自分に対しても『何やってんだよ』ってめちゃくちゃ悔しかったんですけど、今思えばあの実力で勝つのなんて無理だったな、って。個人としてもチームとしても、圧倒的に力不足でした」

殻を破るために自ら「キャプテンをやる」と申し出た。言ったからには行動するしかない。一つひとつのプレーやブロックとレシーブの連携に妥協することなく練習から徹底して取り組んだ。その成果が現れたのが、今夏の東日本インカレ準決勝、早稲田大との試合だったと振り返る。

「ブロックは金田(晃太朗、3年、駿台学園)がいるし、フィニッシュは岡本(知也、3年、五所川原)がいる。一人ひとりの力はあるけれど、うまく連携できていなかったんです。だから『ここは拾うからブロックを開けてくれていいし、抜かれてもレシーブで拾えばいいから』と役割を明確にしたんです。そうすると1本1本、今のはブロックだった、レシーブだった、と責任がはっきりする。早稲田の攻撃を何本も(レシーブで)上げられたし、早稲田に対してあんなにちゃんと試合ができたのは初めてで、自信になりました」

役割を明確にし、連携を意識した早稲田大戦で手ごたえをつかんだ(提供・関東大学バレーボール連盟)

「4年間、やるだけのことをやってきた」姿を見せる

間もなく、学生最後の大会が始まる。

「技術も、人間的にも自分ひとりでここまで来られたわけではないので、自分を育ててくれた人たちに感謝を込めて。何より、後輩のためにも最後は金メダルを取りたいです。歩輝とも、(高木)啓士郎(東海大4年、崇徳)とも戦いたいけど、やっぱり最後は泰杜と怜音と戦いたい。泰杜のスパイクを拾って、決めさせる。そんなラストが迎えられたら最高だし、4年間、俺もやるだけのことをやってきたんだ、と見せたいです」

どんなボールも絶対に落とさない。誰が相手でも、絶対、負けるもんか。

学生最後の大会、仲間と最高のラストを(提供・関東大学バレーボール連盟)

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