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特集:第75回全日本大学バスケ選手権

筑波大学・三谷桂司朗 ラストゲームで流した涙の理由、安心感と悔しさと、同期の存在

3位決定戦に競り勝ち、涙を流しながら吉田健司監督と握手する三谷(すべて撮影・井上翔太)

第75回全日本大学バスケットボール選手権大会 男子3位決定戦

12月17日@オープンハウスアリーナ太田(群馬)
筑波大学 50-48 専修大学

試合時間は残り4.1秒、専修大学ボール。12月17日にあった第75回全日本大学バスケットボール選手権(インカレ)の3位決定戦で、筑波大学が2点のリードを守り切り、2年ぶりに3位を決めると、主将の三谷桂司朗(4年、広島皆実)は涙を流し、チームメートと抱き合った。「最後まで勝敗が分からなかったので勝てて終われた安心感と、日本一を取れなくて悔しいという気持ちが、色々こみあがってきて、泣いちゃいました」

【特集】第75回全日本大学バスケットボール選手権

3位決定戦で生きた2年前の経験

前日、優勝した白鷗大学に前半は互角に渡り合いながらも、最終的に76-84で敗れ、目標としていた頂点には届かなかった。準決勝で白鷗大に敗れ、3位決定戦は専修大と対戦。この流れは偶然にも、三谷が2年生だった2年前と同じだった。「当時の4年生は白鷗に負けた後、すごい落ち込んでいました。僕は『切り替えて明日また頑張ればいい』という思いがちょっとあったんですけど、今年同じ状況になって、4年生の気持ちがすごく分かりました」

今回の3位決定戦に臨むにあたっては、当時の経験が生きた面もあったという。準決勝の後、三谷は仲間に「勝って終わるか、負けて終わるかで、大学バスケの思い出だったり、達成感だったりは変わってくる。今は悔しい結果を受け止めるだけ受け止めて、明日みんなでまた集まるときには、(敗戦を)引きずらないようにしよう」と伝え、専修大との対戦を迎えた。

準決勝の悔しさを引きずらず、気持ちを切り替えてコートに立った

試合は前半、専修大のペースで進んだ。第2クオーターの中盤に一時は13点差まで広げられた。「本来なら決めきれるシュートを落としてしまったり、3ポイントシュートの確率もなかなか上がらなかったりで、自分たちの方から『良くない流れ』だと思い込んでしまって、ディフェンスもちょっとルーズになってしまいましたし、オフェンスリバウンドも相手に取られてしまった」と振り返る。

相手に傾いた流れを断ち切ったのは、同期の4年生たちだった。一般入試からバスケ部の門をたたいた平田航大(寝屋川)が素早いドライブからのレイアップで得点を挙げ、しつこいディフェンスでプレッシャーをかけ続けた。前半終了間際には木林優(福岡大大濠)が3ポイントを沈め、2点ビハインドで折り返し。ハーフタイム中に「インカレで積み上げた経験値や成長したところをもう一回思い出して『再スタート』という気持ちで挑もう」と目線を合わせ、後半に入った。

筑波大学・平田航大 受験生の頃、日本一のチームに心打たれ入部「自分の代で優勝を」
ハーフタイムで自分たちの強みを再確認し、勝負の後半に臨んだ

けがを経て、自身のプレースタイルにも変化が

後半の開始早々、三谷の3ポイントでついにリードを奪った。3位決定戦を通じて唯一の得点シーンではあったが、夏場にジョーンズ骨折をした主将がインカレに向けて成長を示した一場面でもあった。

合宿期間の練習中に「足がポキッとなって、どんどん腫れちゃって……」ということがあった。検査すると、足の小指の骨にヒビが入っていた。手術でボルトを入れて骨をつなぐ期間が必要だったため、8月末から10月上旬まで開催された関東大学リーグ戦1部の1巡目は、「上で見ていたり、タイマー係をしていたり」と試合にはまったく出られなかった。それでも主将として、今のチームの課題点やかみ合っていない時間帯の問題点を客観的に見つめていた。

復帰すると、離脱中に感じていたことをチームに落とし込むだけでなく、自身のプレーにも変化があったという。「100%のドライブからストップするとき、痛みもそうですけど、結構怖さがあって、ちゃんと止まりきることができなくて。その分、100%の体力を使わずにうまくプレーするところだったり、3ポイントシュートの確率を上げたりというところで、自分なりにオフェンスを停滞させないようにしていました。頭を使ってバスケットボールをするきっかけになったと思います」

ボールを運ぶ三谷。けがを経て、自身のプレースタイルにも変化があった

同期がそろってバスケをする期間は短かった、けど

振り返れば三谷たちは、けがに悩まされた世代だった。木林は2年のときに右ひざ前十字靱帯(じんたい)を断裂し、苦しいリハビリ期間を乗り越えた。横地聖真(福岡大大濠)はB1茨城ロボッツの特別指定選手だった昨年1月の練習中に、右ひざ前十字靱帯損傷の大けが。インカレ中も右ひざにテーピングを巻いてプレーしていた。

三谷は言う。「みんなでそろってバスケットをする期間は短かったんですけど、最後のインカレに向けた練習では、全員で『日本一をめざそう』という高い目標を持って取り組めました。それは自分の中で濃い思い出になってますし、インカレでも苦しい時間帯に支えてくれて『本当に頼もしい同期だな』って心から思えました。欲を言えば、もっと長い期間このメンバーでやりたい気持ちもあるんですけど、今はただただ『一緒に戦ってくれてありがとう』という気持ちですね」。ここにも、3位決定戦後に流した涙の理由があるのだろう。

右ひざにテーピングを施しながらプレーする横地

主将として「何か残せたんですかね……」

筑波大に入学した頃は、新型コロナウイルスによる最初の緊急事態宣言が発令された時期で、まともに練習もできなかった。チーム内の競争にも敗れたことで、「逆にバスケットに打ち込むきっかけになった」。その悔しさを2年目にぶつけて、少しずつ結果も残せるようになったところ、今度はまた新しい課題が見つかった。壁を乗り越えるたびに、また新しい壁が出てきて悩まされ、周囲の助けを借りてまた乗り越える。三谷の4years.はその繰り返しだった。4年目には主将の重責もついてきた。

「一応キャプテンとしては『プレーで引っ張れたらいい』という考え方だったんですけど、けがでそれができないときもありました。そういうときでも目を配って、プラスになる声かけを意識して動くところがキャプテンの難しさだし、逆に言えばそれが学べたかなと思います。頼りない自分についてきてくれてありがとうという、感謝の気持ちでいっぱいです」

主将として残せたものは? という質問には「何か残せたんですかね……」と言葉を濁した三谷。すぐには答えは見つからないかもしれない。ただ今回の経験は、今後のキャリアで必ず生きてくるはずだ。

試合後、木林(2番)と抱き合うと涙が止まらなくなった

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